音楽教師の男

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 「先生はどうして音楽教師になろうと思ったのですか?」  同僚の花咲美佐江が問うた。  「昔から両親の影響で、歌ったり踊ったりが好きで。」  僕は答えた。  「そんな事で先生にまでなろうって考えるのかしら?」  花咲美佐江は40才くらいの中年女性だった。身長はあまり高くなくて少しずんぐりむっくりの体形をしていて、生徒の中には『トド』というあだ名をつけて陰口を叩いている者もいた。  「先生こそ、何故生活科の教師になろうと思ったんですか?」  僕は謎に追い込まれた苦境から脱出する為に、起死回生の質問でやりかえす。  「私は昔から愛読書が国語辞典で。」  「だったら国語の先生になれば良かったのに。」  「最初は国語教師になろうと思っていたんですけど、大学在学中に海外留学をした事をきっかけに、社会科学や公共福祉問題に目覚めて。」  「そうだったんですか。」  「私が答えたんですから、先生も教えてください。」  思い起こせば、20歳の頃に遡る。  歌が下手で悩んでいる友人の女子に、歌の歌い方を教えた事がきっかけだった。  みるみるうちに上達して、気が付けば、プロ顔負けの歌唱力にまでなっていた。  彼女はその後、女性コーラスグループの一員になって、アカペラのリサイタルを定期的に開催するようになった。  その時の成功体験が理由、である。  「そうだったんですね。」  一通り説明を終えた僕に、花咲美佐江は笑顔で答えると、そのまま職員室を後にした。  閑散とした職員室。教頭と校長が大きな声で議論する声が、隣の部屋から聞こえて来るが、しったこっちゃない。  午後から休みを取っていた。  どちらかというとサボりに近い。  近所のパチンコ屋で、新しい機種が導入されたので、それの試し打ちがしたくてウズウズが止まらなかった、という理由だが、そんなことは学校で言えるはずもなく、それとない理由で休みをとった。幸い午後から授業は一つも抱えていなかったから、適当に副担任に引き継いで学校を後にした。  『不良教師』  頭の中で自分を罵る小悪魔がむっくりと姿を現す。  「やかましい」  言葉を噛み砕いて飲み干した。  『あんたはパチンコ依存症なんだよ。』  母の言葉も頭の中で木霊する。  パチンコ屋に入ると、お目当ての台の前に座る。  すぐに常連が話しかけてくる。  新しい機種には最新式の人工知能が組み込まれていて、出玉率が自動でコントロールされるから、一人一人が適当にバランスよく勝たせてもらえるらしい。  「大儲けはできないけど、長時間いれば、時給1500円くらいの収入にはなるらしい」  ゲンさんと名乗る還暦を過ぎた爺さんが自慢げに云う。  「じゃぁ店はどうやって儲けてるんだい?」  「広告事業で大儲けらしい。ほら。生田酒造のCMが始まっただろう。」  パチンコ台の中でCMが流れる。  「購入ボタン押したら、酒瓶を店員が持ってきてくれる。」  「すごいね。」  「酒だけじゃねぇよ。色んなものを売ってる。日用品なんかもある。パチンコ玉と交換ってわけさ。仕入れ値はえらく安いらしい。だから客の側も特売価格で品物が手に入る。」  しばらく説明を聞いた後、打ち始める。  そこに店員の女性が顔を出す。  「こんにちは。先生。」  「涼子ちゃん。」  この子が、昔、歌を教えた女子である。  今ではシングルマザーとして、パチンコ屋の店員や、スナックのホステスをこなしながら、子供の面倒を見ている。  「先生、今度な、リサイタルあるねんけど。来てくれへんかなぁ。客たりんくて。」  彼女は関西弁である。カールのかかった巻き髪に金髪。太いアイシャドウや大きなマスカラなど、ギャルのメイクである。  「その髪型、良く店長に怒られないね。」  「店長の趣味なんよ。これ。」  「ふーん。」  「なんや、きーへんの?」  「行ってもいいけど、金が厳しい。」  「先生なのに金持ってへんの」  「先生は給料すごい安いの。だからパチンコで増やさなきゃならないの。だから通ってるの」  嘘をついた。目当ては涼子だからだ。  過去に一度だけ、酔った彼女を抱いた事があった。  偶然の出来事だった。  たまたま、夜の街の見回りの最中に酔いつぶれた涼子を見つけ、10年ぶりに再会。自宅に送った時に、成り行きでそうなった。  そして彼女がこのパチンコ屋で働いている事を知ったのだ。  それ以来、このパチンコ屋に通うようになった。  「不良教師」  クスクスと笑う。  手には掃除用のモップが握られていた。  涼子は他の店員に遠くから呼ばれて、去って行った。  パチンコ屋を後にする。  既に夕方になっていた。  結局勝ち負けはつかず。ほぼプラスマイナスゼロ、という成果だった。  ゲンさんが、なんとかという酒蔵の酒瓶を手渡してくれたので、それがお土産だ。  酒は飲めないのだが・・。  後ろから大きな声がする。  「不良教師!!」  走って駆け寄ってくるのは涼子。  腕に手を絡ませて来る。  大きくて柔らかいふくよかな胸が腕にあたる。  「どうした」  驚きをかくせない。  「今日、うちにきーへん?」  「なんで?もう仕事おわり?」  「おわりや。また、やらしたろかなって。」  「え?」  驚いた表情の僕を見るなり、涼子はけらけらと笑う。  「先生の驚いた顔観るの好きやわー。ほんまおもろい。」  涼子の笑いが止まらない。  「でも、息子さんがいるんだろう。」  「息子は今日不在や。別れた旦那に月1回会わせる日なんや。」  「そうか。」  そうか、と冷静に言ったものの。心臓はバクバクで頭の中は真っ白だった。  「うちくる?」  僕はその無邪気な笑顔で撃沈した。  二人の時間を過ごして夜が更けて来ると、外に雷鳴がほとばしり、滝のように雨が降った。  「牛丼でも食べいかん?」  「大雨の中?」  「店空いててええやん。」  「濡れるの嫌だな。」  「そやな・・。でもお腹空いたわ」  涼子は冷蔵庫の中をガサガサと漁る。  「酒しかあらへんかった。」  膝をかかえて床にうずくまる。  長いニットのセーターで膝を覆い隠す。  膝の上で腕組みをするかのように顔をうずめる。  「宅配でもとろうか」  僕はとりつくろうかのように言う。  「お金、勿体ないやん。」  「そうか。じゃぁ食べに行くか」  「いくいく!!」  大雨の中、二人で傘をさして外を歩く。  そして牛丼屋に向かう。  なんだか辛い事を全部忘れて、若い頃に帰った気がした。  翌日、学校に出勤する。  今日は一限目から音楽の授業がある。  「先生、昨日は体調でも崩されたんですか?」  花咲美佐江が話しかけて来る。  「いや、ちょっと用事が・・」  「ふーん。あら先生こんなところに長い髪の毛が・・。」  花咲美佐江は、僕のカーディガンに付着した一本の長い金髪の髪を拾上げて言った。  「隅に置けないですわね。先生。」  クスクスと笑いながら花咲美佐江は去って行った。  全部見透かされたかのように思った。  今日もパチンコ屋、寄って帰るか。  (おわり)  
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