第一章

2/56
前へ
/221ページ
次へ
いつもより身なりを気にして、自室と一階のリビングを行ったり来たりしている佐々幸守を見て、波戸奏子は「今日は随分と忙しないですね」と言った。その言葉に反応したのは幸守ではなく、たまたまその場にいた左門寺究吾であった。 「今日はなんですよ。彼にとって」 彼は少し悪戯な笑みを浮かべながら、まるで楽しそうに言ったのである。 “勝負の日”といっても、別に幸守の仕事関連のことではない。例えば、彼の小説が念願の江戸川乱歩賞の選考にかかっただとか、これから授賞式に向かうところだとか、そういうわけではないのだ。ここで言う、“勝負の日”というのは、男、佐々幸守にとって念願の日なのである。 結論だけいえば、ついに彼はデートにまで漕ぎ着けたのだ。その相手は、彼の理想の女性、飛鳥井梓である。 『阿笠学園高等部』の事件の後、幸守は個人的に彼女と一件の殺人事件の捜査をすることになり、その一件から交流を深めることとなって、今回、なんとかデートまで漕ぎ着けたのだ。女性とデートなんて、もう何年もしていない幸守は、これ以上ないほどに緊張していて、前日から執筆をしているわけでもないのに眠ることができず、加えて落ち着きがなかった。その説明を左門寺から受けた波戸は、「あら、デートですか。これで先生もプライベートが充実しますね!」と喜んでいたが、別にまだ付き合っているというわけでもないし、ましてや梓が幸守を好きでいるかどうかもわからない。幸守は「だといいんですけどね」と、苦笑を浮かべて言った。 「今日はどこに行くんだい?」 左門寺が聞くと、「一応ディナーでもって誘ったから、フランス料理屋に行くつもりだけど」と、幸守は答えた。すると、波戸が「随分と堅苦しいところに行くんですね」と横槍を刺すかのように言う。幸守は彼女の方を向いて、「え、ダメですかね?」と聞いた。
/221ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加