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五口目
今を遡ること数か月前、小山内邸の事件後。俺は安アパートを引き払い、茶倉が住むタワマンに転がり込んだ。同棲生活は初っ端から前途多難だった。
「しょっぱ。なんやねんこのうどん」
「味の素でダシとったんだけど」
「濃すぎやアホ、関西人は汁がキレイに澄み切った薄味しか受け付けへんねん」
これは序の口。
「トーストとスクランブルエッグと豆から挽いたコーヒーは?今朝は洋食の気分さかい」
「黙って啜れ、リクどおり手毬麩入りだぞ」
「味噌汁が薄すぎてただの汁になっとる」
「関西人は薄味好きって言ったよな」
「朝っぱら納豆練り練り正気かい」
「健康にいいんだぜ」
これも序の口。
「脱衣所に靴下脱ぎっぱすな何べん言うたらわかんねん、滑ってコケるとこやった」
「洗濯機放り込む前に力尽きて……もうちょいで届いたんだけど」
「自分ルールでトラベリング課しとるん?難儀やね」
一緒に暮らしてみて痛感したが、俺と茶倉は相性が悪い。神経質で口うるさい茶倉とずぼらで大雑把な俺は、食の好みから好きな番組から何から何まですれ違い、朝起きて顔を合わせりゃ挨拶代わりに喧嘩、風呂上がりに鉢合わせりゃまた喧嘩の繰り返し。
確かに茶倉んちは広くて豪華で立派だ。ひとり暮らしの頃は近所のドラッグストアで一番安いリンスインシャンプーを買ってたが、茶倉んちの風呂場にはブランド物のシャンプーとリンスとコンディショナーが揃っている。万年床のせんべい布団は清潔なシーツが敷かれたダブルベッドに進化し、マットレスが柔らかすぎて眠れない。ウォシュレットとビデ完備の水洗トイレも大変素晴らしい、のだが。
「トイレの便座下ろせ」
「小の時はこっちのがラクじゃん」
「お前が入ったあとに用足すのばっちくて嫌やねん、便座ハラスメントは視覚的に不愉快」
気分はサンドバッグでフルボッコ、暴言に心が荒んでく。扉一枚で事務所と繋がってんのは職住近接の極みであるからして遅刻の心配無用で有難いものの、小姑の小言が二十四時間体制で待ち受けてんのを考えるとどんよりし、自由気ままなアパート暮らしが恋しくなる。あっちじゃ玄関に靴下ほっぽってもパンイチで牛乳イッキしても誰もなんも言わなかった……って、ひとり暮らしだから当たり前か。
こないだは牛乳の飲み方にいちゃもん付けられた。
「風呂上がりにパンツ一丁でうろうろすなて見苦しい、紙パックから直飲みもよせ」
手の甲で顎を拭って向き直りゃ、純白のバスローブを羽織り、腕を組んでご機嫌斜めの茶倉が背後に突っ立ってた。
出たよ小姑。
腹ん中であかんべーし、空っぽにした牛乳パックを洗ったあと逆さまに立てかけておく。
「うるっせえなあ。残り全部飲み干しゃ問題ねえだろ、どっちみっち賞味期限ぎりぎりだし。てかさ~ミネラルウォーター詰めすぎ、水道の水でじゅうぶんじゃねえ?非常用にダース買いしたわけ」
冷蔵庫のドリンク収納にはミネラルウォーターが入ったペットボトルがぎっしり。俺のツッコミに茶倉は「わからんやっちゃな」と肩を竦める。
「東京の水は激マズで飲めたもんちゃうわ、舌死んどる奴には関係ないやろけど」
「ミネラルウォーターなんてどれも一緒だろ」
「利き水大会しよか」
「賞品は?」
「一口で十若返る奇跡の変若水」
「インチキくさっ。パワーストーンの押し売りに味しめて吹っ掛けるとか消費者センターに苦情殺到でお取り潰し秒読みだな」
「ピチピチお肌の高校生に戻りたないか」
「ペプシとコカ・コーラの違いはわかる。味がしねー水買って何が楽しいんだか」
「はよ閉めろ、電気代もったいない」
「へいへい」
言われたとおり扉を叩き閉めるやいなや、茶倉がだらけた姿勢でキッチンカウンターに凭れかかり、滔々と語り出す。
「おもろい話したる。ある暑い夏の日、団地の蛇口から赤い水が迸った。住民は錆や雑菌の混入疑うわな。集団食中毒とかニュースになったら困るさかい、業者が給水塔の点検したところ」
体の前に手をたらし、右に左にふざけて揺らす。
「仄暗い水の底に仏さんが沈んどったねん。死後何日も経ってぶよぶよに膨れた土左衛門が」
「あ゛――――――――――――なんでそ~ゆ~やなこと言うのこちとらごくごく飲んでんだぞ!?」
両耳を塞いで素っ頓狂な声を上げる。茶倉は両手を引っ込め、意地悪く笑って離れていく。疑心暗鬼と吐き気に駆られた俺は、勢い余ってパンツがずれ、ケツ半分丸出しの状態で追っかけていく。
「今のホラだよなっ実話じゃねえよなっ給水塔の底に可哀想な土左衛門なんていなかったんだよなっ!?」
「都市伝説や」
関西人と関東人の間にゃ道頓堀より深い溝が横たわり、日常的にこまごました悶着が起こる同棲生活は順調とは言い難い。俺は断じて悪かねえ、茶倉の心が狭すぎるのが悪い。そもそもトイレの便座下ろし忘れた位でキレる意味わからん、初見殺しのトラップと連動してんの?味噌汁の具だって茶倉が手毬麩リクったからわざわざ買ってきたのに朝飯こしらえてから洋食の気分だのトーストにチェンジだのごねられても困るし居候の義務とか屁理屈捏ねて連チャン料理番押し付けといてわがまま言うなってんだ。
もっと甘くなるかもって期待してたら色気のカケラもねえもんで肩透かし、とはいえやるこたやってるのだが。
「慣らしの時間やで」
情事の余韻を噛み締め腰をさする。昨日も激しく求められた。茶倉に抱かれるのは慣らしの一環、きゅうせん様の移植に備え苗床を耕す為。頭じゃそうわかっていても、仰け反る首筋やこめかみを啄む切羽詰まった表情に胸が高鳴り、おめでたい勘違いをしちまいそうになる。
コイツ、俺にぞっこんなんじゃねえの?
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