一口目

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一口目

恋糸(こいと)ちゃんは親友だった。 少女は東棟に、恋糸ちゃんは西棟に住んでいる。この団地は面白い構造をしていて、上から俯瞰すると「口」の字に見える。高度経済成長期に建てられた鉄筋コンクリ棟は老朽化しており、エレベーターはよく故障するため、歩いて上り下りしなければならない。 両親は不便だの早くお金を貯めて引っ越したいだの愚痴ってるものの、自分が十一年間生まれ育ったこの場所を、少女は結構気に入っていた。 理由は複数挙げられる。 第一、目と鼻の先に公園がある。 面積は然程広くもないが、ブランコ・すべり台・砂場・地面に半ば埋まったタイヤ・ぐるぐる回るアレを取り揃えており、東西南北全棟から等距離の中心に位置する為、子供たちの待ち合わせ場所としても人気。 第二、仲良しが沢山住んでる。 子供たちは自宅と友達の家を行き来し、日常的に別棟に出入りする。巨大な装置が唸る蒸し暑いボイラー室、公園と駐輪場を臨む内廊下、円筒形の給水塔が聳える屋上、ところどころペンキが剥げた貧相な階段、四六時中停止するご老体のエレベーター……古い団地は迷路みたいで、探検する場所に事欠かない。 自治会が整備した花壇には四季折々の花が咲き乱れ、外を出歩く人々の目を楽しませていた。 第三、ご近所さんが気さくで話しやすい。 母に頼まれ回覧板を持っていくと、「偉いわねえ」「いい子ねえ」と褒め、一口サイズのチョコやらグミやらキャラメルやらをくれる。最近はご褒美目当てで自発的に回覧板を届けるようになった。同じ階の山田さんは特に子供好きで、口の悪い男子はボンタンアメばら撒き婆ちゃん、略してボン婆と呼んでる。山田さんちを訪ねると、少女のポケットは毎回ぱんぱんになった。 「役得っていうんだよ、そーゆーの」 「なんて意味?」 「その役目に従事している人が、特別の便宜に預かって得られる利益」 「わかんない」 「係の人を贔屓するってこと」 「へー物知り。今日返却された国語のテスト満点だったもんね」 「お兄ちゃんの辞書の丸暗記。使えそうな言葉だから覚えてたの。それをいうなら×ちゃんの方がすごくない?」 「あたし?えっ、なんで?」 「去年の運動会、リレーのアンカーで奇跡の四人抜き。東小の伝説になってる」 「あー……あはは、あの時ははりきっちゃって。赤組の優勝はお前に賭かってるとか言われたら全力出さずにいられないっしょ、みんなおだてるの上手だよね」 照れ隠しに捲し立て、オレンジのボンタンアメを取り出す。こないだ山田さんに貰ったモノ。透明な包装を剥いで口に放り込むと、昭和の味が広がる。 このピラピラの正式名称がオブラートで、ボンタンアメと一緒に食べられると教えてくれたのも恋糸ちゃんだった。ボンタンアメを頬張る少女の横顔をまじまじ見詰め、恋糸ちゃんが瞬く。 「とっちゃうの?」 「別々に食べる。口の中で溶ける感触がね、気持ち悪くて」 「意外と神経質だよね×ちゃん」 「意外とって何?失礼だなあ」 ボンタンアメとオブラートは分けて食べるのが少女の流儀。 「あげる」 「ありがと」 恋糸ちゃんがお礼を述べ、少女から貰ったボンタンアメを口に持っていく。上品な所作に見とれる。 二人は公園のブランコに隣り合って座っていた。今日は珍しく人が疎らで独占できる。普段は低学年の子が群がり、なかなか順番が回ってこない。 ボンタンアメを口の中で転がし、恋糸ちゃんが話を戻す。 「運動会の話だけど」 「ん?」 「前の子がコケて引き離されたのに、見事挽回したね」 「あたしの取り柄は足の速さだけ。勉強はからっきし、顔はそこそこ背はフツー。他に自慢できること何もないもん」 面映ゆげに鼻の頭をかく。少女が人に勝ってると胸を張れるのは駆けっこだけで、あとは平均かそのちょっと下と自覚している。身長はまだ伸びしろが見込めるかもしれないが、他はどんなに頑張っても中の上がせいぜい。 少女の内心を知ってか知らずか、恋糸ちゃんが宙を蹴ってブランコを揺らす。 「ホントすごいよ×ちゃん。鬼ごっこじゃ負け知らず、男子だってかなわない。オリンピック目指せるんじゃない?」 「も~言い過ぎ。恋糸ちゃんこそ、大人になったらすっごい女優さんになるんでしょ」 「その予定。なれるかわかんないけど」 恋糸ちゃんのお母さんは界隈で有名なステージママだ。恋糸ちゃんが幼稚園の頃からオーディションに連れ回し、積極的に売り込んでいる。 恋糸ちゃんは大手劇団所属の子役だ。そこは数多くの芸能人を輩出している役者の登竜門で、恋糸ちゃん自身もコマーシャルやドラマの端役としてちらほらテレビ出演している。クラスの男子はみんな恋糸ちゃんに夢中で、その中に少女の初恋の男子もいた。 恋糸ちゃんはいい子だ。天は二物を与えずって諺は嘘で、恋糸ちゃんは神様に沢山もらっている。 顔がいい。頭がいい。性格がいい。身長は普通だけど、これからきっと伸びる。だってあたしたちまだ十一歳だ。 ああそうだ。 事件当時、少女はまだ十一歳だった。 最初の犠牲者は北棟の小学一年生、大柴郁美ちゃん。両親が共働きの鍵っ子で、毎日遅くまで公園に居残って遊んでいた。好きな遊びはけんけんぱとグミチョコレートパイン。「一緒にあそぼ」とおねだりされ、何度か付き合ってあげた。 お気に入りの遊具はブランコ。「乗りたい」とせがまれ譲ってあげた経験は数知れず、背中を押してあげるときゃっきゃっと喜んだ。 少女が最後に見かけた時は、新品のランドセルを傍らに置き、ゆっくりブランコを漕いでいた。 キイコキイコ、夕暮れに軋む鎖の音を思い出す。 郁美ちゃんは北棟の階段から落ちて首の骨を折った。遺体は三階と四階を繋ぐ踊り場で発見された。 実際の死体は見てない。覚えているのは救急車のサイレンと真っ赤なランプ、南棟の入口に群れた野次馬の人垣、郁美ちゃんが死んでからしばらくブランコをこいでいた郁美ちゃんのお母さん。目は虚ろで無表情。 真っ昼間からブランコをこぐさまは痛々しく、井戸端会議に興じる主婦たちの同情を集めた。 「親御さんの目が行き届かなかったのね」 「毎日遅くまでブランコこいで」 「階段でちょこまかして危ないと思ってたのよ。そんなとこで遊んじゃだめよってよっぽど注意しようか迷ったけど、ただでさえご両親が忙しくて寂しい思いしてるのに、強く言っちゃ哀想でしょ」 「人懐っこい子だったわよね、郁美ちゃん」 「笑うと右頬にできるえくぼが可愛くて」 「一年生でしょ?うちの下の子と同じ」 「お葬式のあとすぐ仕事を辞めて」 「ずっとエプロンしたまま?今から取り返そうったって遅いのに……」 ひそひそ、ひそひそ。郁美ちゃんのお母さんを遠巻きにし、無責任な噂話に耽る主婦たちには、子供心に嫌なものを感じた。 二人目は南棟の小学六年生、碇まどかちゃん。東西南北のコンクリ棟に囲まれた、中庭に落ちて死んだ。南棟四階の廊下から飛び降りたらしい。 まどかちゃんの墜落死は自殺か事故かで意見が割れた。彼女の両親は再婚でまどかちゃんは母親の連れ子、新しい父親に馴染めず担任に相談していたらしいと後日噂が出回った。 まどかちゃんは地面に激突して死んだ。死因は外傷性ショック死。落下の衝撃で手足はへし折れ、壊れた人形みたいにバラバラな方向を向いた。 まどかちゃんが落ちた時、少女は学習机に向かって宿題していた。途中でドンッ、と大きな音が鳴った。 異音を訝しんで廊下に出ると、既に人だかりができ、南棟付近に倒れた女の子の背中が視界に入った。 「南棟の子?」 「落ちたの?」 まどかちゃんだ、と声を上げたのは誰だったか。顔は地面に埋まって見えず、体の下から真っ赤な血が流れだす。 少女は思い出す。集団登校の道中、通学路を歩いている時、ある話題で盛り上がった。 建物から落ちた時、どっからいきたい? まどかちゃんは何て言ったっけ。先頭に立った背中。赤いランドセル。まどかちゃんは自分の鼻っ柱を指し、顰めっ面で断言する。 「マシなとこは決めらんない。でも、顔だけは絶対やだ」 まどかちゃんは顔から落ちた。 郁美ちゃんは不幸な事故。まどかちゃんも多分、おそらく。不自然な点を挙げるなら、まどかちゃんが落ちたのが四階だったこと。三階に住んでるのに、わざわざ四階に上る理由がない。付け加えるなら、その日エレベーターは故障していた。 友達を訪ねたと憶測する人もいたが、まどかちゃんのクラスメイトが住んでるのは二階で、四階に知り合いはいない。下りるならともかく上がるのはおかしい。 しかし不可解とまで言えない。嫌な想像だが、自殺すると決めて上に行った可能性もある。 少女は二人と顔馴染みだった。集団登校の道すがら、他愛ないお喋りをした仲。 ひとりっ子の郁美ちゃんは少女を慕い、面倒見が良くしっかり者のまどかちゃんは最高学年のお姉さんとして皆を引っ張ってくれた。団地に引っ越すまで可愛がってた飼い猫の写真を見せてもらったこともある。 悲劇の連続は団地全体に暗い影を落とした。二人続けて死ぬなんて気味が悪い、不吉だ、何かの祟りや呪いじゃないかと陰口を叩く人も現われ始めた。 筆頭が同じクラスの男子。 「なんだお前知らねえのかよ、菱沼団地は沼を埋め立てて造られたんだぜ」 「似たような土地いっぱいあるでしょ、夢の島だって東京湾を埋め立てて造ったのよ」 「沼にはヌシがいたんだ。人喰いの化けもん」 「ばっかみたい!でまかせいわないで!」 「よそもんは知らなくて当たり前」 「赤ちゃんの時からいるもん!」 「うちはご先祖様の代からずっと住んでんだ。ばあちゃんが言ってたぜ、菱沼団地は呪われてる、ヌシのすみかをずかずか荒らしたのが悪いって」 「だって……そんな、変だよ。人喰いの化けものがいたとして郁美ちゃんたち関係ないじゃん、祟るなら工事した人たちでしょ」 「さあね、向こうにも好みあるんじゃねえの。生贄は大抵若い女って決まってんじゃん」 生贄。 郁美ちゃんまどかちゃんは、化け物に食べられた? 「菱沼団地は化けもんの生け簀だ。死にたくねえならとっとと引っ越せ」 少女は図書室を訪ね、埃をかぶった郷土史を読む。 嘘じゃなかった。 団地の造成は戦後、それ以前は未開の沼地。本に載った白黒写真には、葦が鬱蒼と生い茂る、不気味な沼が写っていた。沼の畔には幽霊の髪の毛みたいな柳が枝垂れ、鬱々した印象に拍車をかける。 菱沼には化け物が棲む。化け物は大蛇の姿をしている。江戸時代の終わりまで生贄の風習が続いていたことも、史実として記録されている。 生贄に選ばれるのは近くの集落の若い娘とあり、なるほど、これが噂の出所かと呆れた。 少女は信じなかった。無視しようとした。 大昔に沼があったから、だから何?あたしが生まれる前の話を持ち出されても困る。化け物なんて嘘っぱち、祟りなんてインチキ。 でも。 だけど。 団地はいやに水捌けが悪い。水道管が錆びているのか、時々赤茶けた水がでる。エレベーターがよく止まる。お化けを見たって人もいる。それは白い着物姿の女の人で、夜な夜な団地を徘徊していると管理人の平さんに脅かされた。一緒に聞いていた恋糸ちゃんの顔はほんの少し青ざめていた。お母さんは「作り話よ」って笑ってたけど、娘の誕生を機に越してきた新参者の両親は、地元の言い伝えに明るくない。 アイツの言うとおり、人喰いが実在したら? 得体の知れない化け物が、団地の子供を殺して回っているのだとしたら……。 『菱沼団地は化けもんの生け簀だ。死にたくねえならとっとと引っ越せ』 生け簀。魚を養殖する囲い。私たちも? キイコキイコ、錆びたブランコが軋む。 ポタポタ、台所の蛇口から雫が滴る。 何度やっても勝手に緩んじゃうのと母親が愚痴り、背中に悪寒が走る。 三人目の犠牲者が出た。 恋糸ちゃんだった。 遺体は屋上の給水塔に浮いていた。一人で遊んでいて、足を滑らせて落ちたというのが警察の見解だった。 あり得ない。 恋糸ちゃんは用心深い。一人で屋上にやってきて、給水塔の周りで遊んだり絶対しない。親友を誘わないのもおかしいし、あそこは前に悪戯した子供が溺れかけ、絶対近寄るなと親に止められている。 解剖の結果、死因は絞殺と判明した。肺から水が検出されなかったのだ。溺れた人はもがいて水を飲む、肺が水を吸ってないのは給水塔に落ちる前に死んだ証拠。決定打は首の痣。 誰かが恋糸ちゃんの首を絞め給水塔に遺棄した事実が報じられ、団地の住人はパニックに陥った。 一度あることは二度ある。二度あることは三度ある。悲劇は連鎖する。惨劇は循環する。既に人喰いの胃の中、生贄は逃げられない。 キイコキイコとブランコが鳴る。 ポタポタ水が落ち続ける。 恋糸ちゃんの死体発見は失踪の翌日。彼女が消えた日の水は薄っすら赤味がかっていた。母はその水で風呂を沸かし、少女はその水をコップに汲み、ごくごく飲んだ。 あれから水道水が飲めなくなった。 遅まきながら、皆が恋糸ちゃんの事件を郁美ちゃん達の事故と結び付けた。三件の共通点は目撃者の不在。死亡推定時刻に現場を通りかかった人間はおらず、前後の状況は不明なまま。 ならば何故、殺されたんじゃないと断言できる? 誰かが三人を誘き出し、手に掛けたのでは? 被害者は可愛い女の子。恋糸ちゃんに至ってはテレビ出演経験のある子役、変質者に狙われたと考えるべきだ。 菱沼団地小学生連続殺人の捜査が始まった。 小学生は朝のホームルームで集団行動を命じられ、母親は幼児の手を離さず、回覧板は施錠と門限の徹底を呼びかける。皆が笑顔を張り付けて挨拶し、足早に立ち去っていく。公園からは子供の姿が消え、活気が失せる。 涸れた生け簀のように。 よそ者は目を引く。外部犯の可能性は低い。もとより人懐こい郁美ちゃんは例外として、しっかり者のまどかちゃんや恋糸ちゃんが、赤の他人に付いていくとは考え辛い。 犯人は被害者と顔見知りの団地の人間。小学生の女の子を三人殺した変質者が、菱沼団地に潜んでいる。 回覧板を届けるたびお菓子をくれた山田さん、管理人室の前を通るたび声を掛けてくれる管理人の平さん、花壇の手入れが日課の自治会長の住吉さん。 少女が生まれる前からここに住んでいる人たち、生まれた時から見守ってくれた大人たち……親しい隣人たちがよそよそしい他人にすり替わり、疑心暗鬼が渦巻く。 犯人はあっさりわかった。逮捕前に書置きを残して自殺したのだ。菱沼団地小学生連続殺人の犯人は、三人目の被害者・冴羽恋糸の兄の冴羽大和……享年十四歳の中学生だった。
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