セレストブルー

1/1
前へ
/1ページ
次へ

セレストブルー

 誰もいない筈のその場所から綺麗な歌声が聞こえる。  透き通るような、消えゆきそうな、けれども耳から全身を巡って頭に響くようなそんな歌声だ。  私はその場所をそっと覗く。 「え、」  女の人だと思ったのに。  その人は歌うのをやめこちらを向く。 「あ、ごめん。うるさかった?」 「いえ! とんでもないです! とても素敵な歌声でした」  話し声はちゃんと男の人だ。    家の近くの山を遊歩道から登り、中腹あたりから道を少し外れたところに私の秘密の場所がある。  木々が生い茂り視界の悪い遊歩道とは違い、少し開けたこの場所は山頂とはまた違った景色を見ることが出来る私だけの場所、だった。  私の定位置である潰された鍋のような形の石の上に腰掛けていたその人は立ち上がるとこちらに近付いてくる。 「これ、もしかして君の?」    差し出された手のひらに持っていたのは失くしたと思っていたセレストブルーの色鉛筆。  買おうかどうしようか迷っているところだった。 「そうです、私のです。ありがとうございます」 「この色、好きなの?」  もう、五センチもない位の長さになったそれは私が一番使ってきた色だ。    いつもこの場所であの石に座り、ここから見える景色を描いている。  視界に映るほとんどが空だ。 「はい。この色が晴れた青空の色に一番近いので」  私は手のひらから色鉛筆を受けとる。   「何て言う色なの?」 「セレストブルーです」 「セレストブルー…………ねえ、それ見せてくれない?」    そう言って私が抱えているスケッチブックを指差す。  特に断る理由もなかったので言われるがままスケッチブックを渡した。  その人はまた石の上に座るとスケッチを一枚ずつじっくり見ていく。  私はいつも石の上に敷いている大きめのハンカチを地面に広げ、そこに膝を抱えて座った。 「この空の色はその色鉛筆の色なの?」  私は手に持ったセレストブルーの色鉛筆に目を向ける。 「これを一番たくさん使ってますけど、この色だけを使っている訳ではありません。その日によって空の色も違いますし」 「そうなんだ。とても素敵な絵だね」 「ありがとうございます」  するとその人は私の絵を見ながら鼻歌を歌いだす。 「♪~~~♪~~」  聞いたことはないけれど耳当たりの良い、心地良いメロディーだ。 「その歌はなんという歌ですか?」  その人は鼻歌を止め、少し考えるように上を向くが 「決まってない」  そう言って笑った。 「決まってない?」 「今、即興で出来たメロディーだから。歌ですらないかも」  即興でこんな繊細なメロディーをサラサラ歌えるのかと感心しながら、私は鞄の中から色鉛筆のケースを取り出す。 「あ、描く?」    セレストブルーの色鉛筆を仕舞おうと思っただけだったが、スケッチブックを渡されたので、当初の予定通り今日の空の絵を描くことにした。  隣では遠くの空を見上げながら鼻歌を歌っている人がいる。  誰もいない静かなこの場所が好きだったが、不思議とこの場所に馴染む優しいメロディーがいつもよりこの景色を鮮やかにした。  暫く絵を描いた後、そろそろ帰ろうと腰をあげるとその人も腰を上げる。 「もう帰るの?」 「はい」 「僕ももう行くよ。というか、実は迷子になってたんだよね」  恥ずかしそうにいうこの人がなんだか可愛く見えて思わず笑ってしまう。 「なんだ、言ってくれたら帰り道教えましたよ」  私たちは並んで山を下った。 「ありがとう」 「いえ、次からは迷子にならないように気を付けて下さいね」  その人は山を下ると私とは反対の方向へ帰って行った。 ーーーーーーーーーー  あの人がいる。    数日後、あの場所へ行こうと遊歩道を歩いていると微かにあの人の鼻歌が聞こえてくる。  私は心なしか足が速くなっていく。 「また、迷子ですか?」  姿が目に入ると同時に声を掛けた。  その人はこちらを振り返ると嬉しそうに笑う。 「違うよ。また君に会いたいなと思って」  会いたい、さらっと言われたその言葉に私の胸は高鳴った。 「えっと……はい」  けれど、なんと返したらいいか分からず、気の抜けた返事になってしまった。  私は前回と同じように石の隣にハンカチを広げ、腰を下ろす。  鞄からスケッチブックと色鉛筆を取り出すと前回描いていた続きを描く。  空の色はその日によって違う。一日で描き終えることが出来ないこの絵は色んな日の空が混ざりあっている。 「優しい絵だね。とっても綺麗だ」  その人はそう言うとまた、優しいメロディーを奏で出す。  前と同じメロディーだ。  私が描いている間、何度も繰り返すそのメロディーに聞き入りながら手を動かした。 「できたー」  完成した絵を膝の上へ置き、両手を上げて伸びをする。  歌うのを止めたその人がこの絵を覗く。 「ねえ、お願いがあるんだけど」 「はい?」 「その絵、僕にくれない?」  すごく褒めてくれてはいたが、この絵が欲しかったのだろうか。  まあ、ただ描いてスケッチブックにたまっていくだけの絵なので一枚あげたところで変わらない。  私は先ほど完成した絵をスケッチブックから切り離すとその人に渡した。 「ありがとう」  その人は受け取った絵を両手で持ち、空にかざす。  そしてゆっくり顔に近付けていくと、そのまま唇が触れた。  まるでキスをされているようで体が熱を帯びてくるのを感じる。  恥ずかしくなった私は急いでスケッチブックと色鉛筆を鞄に仕舞い、逃げるようにその場を後にした。 ーーーーーーーーーー    あれから一度もあの人はこの場所に現れていない。  タイミングが合っていないのかと思い、日を空けず毎日通っているが会うことはなかった。    そして今日もあの人はいない。  私はいつまで毎日通い続けるのだろうか。  なぜあの日、逃げるように帰ってしまったのか。  あの人はもうここには来ないのかもしれない。  たった二度しか会っていないあの人を想い、こんなにも胸が苦しくなる。  脳内で流れるあの優しいメロディーが今は切なくて悲しい。  今日完成した空の絵は鈍色だった。  私は山を下りてとぼとぼ家までの道を歩く。    裏道を抜け大通りにでた時、なんとなく目についたコンビニに立ち寄った。  すると控え目に流れている有線から聞き覚えのあるメロディーが聞こえてくる。 「あの人の歌だっ」  それは柔らかな鼻歌ではない、いくつもの楽器の音が重なり、初めて聞く言葉がのった愛のバラード。  君がくれたあの空が 歌になって愛になる  君とまた会う日まで このメロディーを僕は歌う  急いでスマホを取り出し歌詞検索をする。  画面に流れたのは良く晴れた青空の風景と曲のタイトルだった。         『セレストブルー』
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加