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都会の片隅にひっそりと隠れるように佇む一件のカフェ。
『カフェ・ド・ネージュ』
ヨーロッパの隠れ家のような場所。
店内にはゆったりとしたジャズが流れ、アンテークで揃えたテーブルや椅子が一組一組の客が個別の空間を楽しめる間隔で並べられている。
「時田さん、お疲れ様です」
この店で店長を任せている佐藤が店の雰囲気を損なわない落ち着いた声のトーンで声をかけてきた。
「お疲れ様。ライターさんたちはまだ来てませんよね?」
「はい、まだお越しになっていません。十四時から二時間の予定で貸し切りにしてます」
「ありがとうございます。ライターの人が俺の大学時代の同級生で、どうしてもこの店の雰囲気で撮影とインタビューしたいみたいなんですよ」
「そうなんですね。平日ですし構いませんよ」
しばらく、佐藤と話していると店のドアが開かれた。
「こんにちは。涼之助、今日は世話になるな」
そう言って数人の先頭で店に入ってきたのは涼之助の大学の時の同期である安井博美(ヤスイヒロミ)だった。
安井は同じ年なのに、フリーのライターという職業柄か同じ年なのに若く見える。
それなりに気は使っているものの、いつもスーツに身を包み働いている涼之助と比べると、ラフなジャケット姿なのに身につけるものひとつとってもお洒落に着こなしている。
「こちらこそ、この店を選んでくれてありがとう」
挨拶もほどほどに、安井の後ろにいる男性が竹芝ゆずき先生なのだろうかと視線を送っていると目があい少し驚いたような表情をしつつも微笑まれる。
「こちらが本日の主役の竹芝ゆずき先生」
「竹芝ゆずきです。今日はよろしくお願いします」
そこに立っている男性は、漫画家というには長身で普段から鍛えているのが分かる体つきで顔立ちも精悍だった。
漫画家なだけあって、少し芸術家特有の堅物そうな雰囲気もあるが、表情は柔らかい。
挨拶をされて慌てて名刺入れから名刺を取り出し交換する。
「初めまして、この店の経営をしている会社の時田涼之助と申します。先生の本はいつも息子と一緒に愛読させていただいています。もしよかったらこのコミックスにサインしてもらえないでしょうか?」
挨拶してすぐにお願いするのは不躾かとも思うが、涼之助は自分の鞄から買ったばかりのコミックスを取り出す。
「それは…構いませんよ。息子さんがいるんですね。おいくつですか?」
「今、八歳で今年で九歳になります」
思い切って頼んでみてよかったと涼之助はほっとする。
少し思案ているようだが快くサインに応じてくれた。
自分は弱っていく妻を見て覚悟を決めることができていた。
しかし、まだ幼い晃大が受け止めるには母親の死は大きな出来事だった。
今朝の泣きじゃくる晃大の顔を思い出し涼之助は、どうしたらまたあの子に笑顔が戻るのかを一心に考えていたのだ。
「こいつ、先月奥さんに先歩立たれて父一人子一人の身なんですよ」
安井は妻の葬儀にも駆けつけてくれ、妻の生前から自分で会社を起業したり人より若く結婚した涼之助のことを友人として見守ってくれている。
「すみません。お忙しいところ無理を言ってしまい…」
「なに言ってるんだ。晃大、落ち込んでるだろ?元気になるといいな」
息子の晃大のことも凄く気にかけてくれていた。
「それは、ご愁傷様でした。俺のサインで息子さんが少しでも元気になってくれるといいのですが…」
涼之助が差し出したコミックスにサインをしつつお悔やみを言ってくれる。
今日出会ったばかりの相手なのに、そのちょっとした優しさが今の涼之助の心には染み渡るようだった。
「そんなこと言わないでください。絶対に喜びます。息子は将来は漫画家になりたいって言うぐらい漫画が好きなんです」
「漫画家に…時田さんは良いお父さんですね。息子さんの夢が叶うといいですね」
「そんな風に先生に言ってもらえたら俺も嬉しいし息子も喜ぶと思います」
「実は俺も親一人、息子一人のシングルファザーなんですよ。それでも大切に思う気持ちさえあれば子は育ちますよ。お互いに頑張りましょう」
そう言って、竹芝ゆずきは予定通りインタビューをすませ帰っていった。
自分一人が息子を抱え内心嘆いていたが、世間には同じシングルファザーでもやっていっている人がいる。
晃大だけじゃなく涼之助も自分が思っているより落ち込んで周りを見る目が失われていたようだ。
今日の出会いに感謝しつつ、少し自分も心を入れ替えて頑張ろうと思えた。
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