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心の拠り所
あの雑誌のインタビューから二週間が経った。
悠介は、暇を見つけてはカフェ・ド・ネージュに顔を出してみようかと何度も考えていた。
時田涼之助という男のことが、気になって仕方ないのだ。
この年になって、一目惚れという言葉が頭に浮かんでは消える。
最近、妻を亡くして一人で親として立とうとしている健気な様子に心ゆらめいた。
同日にいたライターの安井という男も細身で洒落た男だったが、悠介は涼之助の内面の真面目さを感じさせる清潔感のある雰囲気が好ましかった。
同じシングルファザー同士、気軽にメールを送ってみようかと何度も受け取った名刺を眺めてみたりもした。
しかし、相手は所詮ノンケの男だという事実に、発展するはずのない関係で終わってしまう。
一応、これでも有名な漫画家という自分の職業柄、若い頃のように勢いで男同士の恋愛をするということに尻込みしている自分がいた。
そんなことを考えていても仕事の締め切りは待ってくれない。
今日も、公私共に長年連れ添うように助けてくれているアシスタント達と共に原稿の仕上げ作業に追われていた。
しかし、追われていると言っても締め切りはまだ先で普段から余裕のあるスケジュール調整をしているので、そこまで切羽詰まった空気は流れていない。
「悠介、これ今回のアンケート結果とファンレター。編集部から届いてたぞ」
アシスタントチーフの磯崎陽次朗(イソザキヨウジロウ)が忙しい合間を縫って郵便物の仕分けをしてくれていたようだ。
「ありがとう。今回は大量だな?」
悠介はそのアンケートやファンレターを受け取る。
「アニメの劇場版が好調なんだろう。原作もうかうかしてないで気合い入れて進めないとな!」
陽次朗は、数人いるアシスタントの中でもピカイチの技術を持ち、漫画を描くこと以外のらりくらりしている悠介に変わって仕事場のムードメーカーになってくれている。
悠介と同じ年ということで、言いたいこともバンバン言ってくるので時に手厳しい進言をしてくることもあるが気の良いやつだ。
「なになに、アンケートやファンレター届いたの?僕にも読ませて!」
キッチンから仕事場の賄い飯を作っていた川瀬拓実(カワセタクミ)も悠介と陽次朗の話に耳を澄ませていたようで、料理をする手を止めて寄ってきた。
拓実は通常のアシスタント業務の他に、仕事場の賄い飯とシングルファザーで家事が一切出来ない悠介に変わって田中家の食卓を支えてくれている。
息子の弘夢も母の味ならぬ、拓実の味で育ったようなもので小さい頃からお世話になっている拓実のことが母親がわりだと思っている節がある。
そんなにお世話になっているなら拓実と付き合えば良いのではと思われるかもしれないが、なにを隠そう陽次朗と拓実は十年以上付き合っている恋人同士なのだ。
そこに悠介の入る隙間などなく、長年連れ添った夫夫のように陽次朗と拓実は今も仲が良い。
「拓実も読むのか?じゃあ、飯を食ってからにしよう。腹へって集中力が続かない」
時間は十九時になろうとしている。
そろそろ自分の部屋にこもっている弘夢も悠介同様、お腹を空かせている頃だろう。
「じゃあ、僕は出来た料理を皿に盛っちゃうから、陽次朗は弘夢君を呼んできてくれる?」
「分かった。呼んでくる」
この二人には本当に家族ぐるみでお世話になっているので、こういった場面でも気にすることなく悠介に変わって動いてくれる。
これじゃ誰が親かわからない。
しかし、これが田中家の日常である。
人は一人では生きていけない。
誰かの支えや関わりがあってこそ、生きがいや自分の存在意義を見出せるのだろう。
先日、会った涼之助は妻を失いそんな支えてくれるような人はいるのだろうか。
一人で抱え込んでいないといいなと思いつつ、そんなことを思ってしまう自分は本当にどうかしてしまったと悠介は思った。
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