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第07話 仕返しされる聖女様
最後の逢瀬から数ヶ月が経っていた。ディルクはダーレン・ディマルコの件で長期間にわたって調査任務に当たっていた。そしてそれが終わったのち、今度はルシリシアの方が少し慌ただしくしながら出張儀式のためにグントバハロン国へ赴き、二週間ほど留守にした。出張儀式の滞在先はグントバハロンの首都エンフェリダクスではなく、ルティドロン国との国境に近い辺鄙な場所だった。なんでも、今回は首都に集まれないほど弱っている国民に離穢の儀を受けさせてほしいとのことだった。中には治せない者もいたが、ルシリシアはせめて苦痛が軽減するようにと、なんの色もなくただただ真っ黒な炎を分離して、そして丁寧に清祈の儀も行った。
そうしてだいぶ月日が過ぎた今日、久しぶりにディルクに会えたルシリシアはなんと呼べばいいのかわからない気持ちで胸がいっぱいだった。ディルクにたくさんふれたいし同じようにふれてほしいし、なんだかもう、このまま裸で彼ととけ合えないかと思うほどだ。そうすればきっと、心の中の空虚を埋められる気がした。
「ディルク様……」
「なんだ」
「あの……大好きです」
ルシリシアは頭の中――いや、心の中に浮かぶことをなんのためらいもなく口にした。
「こうして夜に少ししか会えません……それに、きっとあなたのこと、まだまだ知らないことの方が多い……。それでも私は、ディルク様のことを心から愛しています」
彼が長期の任務で会えなかったこの数ヶ月間、ルシリシアは今まで以上に懸命に神に祈った。ディルクの無事を、万が一にも命を落とすことなどなく、けがもせずに帰ってこられるようにと。そしてどうかもう一度、彼との逢瀬が叶うようにと。
聖女として、自分はもうどうしようもないほどに失格だとルシリシアは思っていた。聖女の勤めは何ひとつ放棄していないが、その傍らで、こんなにもたった一人の男性のことを想い続けている。そんなルシリシアを、ウォンクゼアーザは相変わらず咎める気など一切ないようだったが、自分はきっと歴代最低の聖女だろうとルシリシアは思っていた。
「あなたに逢えてよかった……こんな私を抱いてくださり、ありがとうございます」
聖女としてではなく、一人の女として愛し合うことの喜びを教えてくれた。誰かと気持ちを通わせることの優しさと、こうして身体を重ねることの幸福を与えてくれた。ディルクはほかの誰とも違う、世界でたった一人、心から愛する男性だ。
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ、ルシー」
ディルクはルシリシアのひたいにちゅ、と口付けて唇の端を持ち上げると、小さく笑った。
そうして二人はしばらく、互いの息遣いだけを聞いていた。しかし、時間はもうそんなに残っていない。ディルクは事後のルシリシアの身体が心配ではあったが、服を着させてジェレミーの部屋を訪れると、今宵もまた後ろ髪を引かれる思いでルシリシアと別れたのだった。
◆◇◆◇◆
「くそっ、神聖院め……。貴様らこそ聖女を私的利用しているではないか」
ある日の夕方、従者を伴って大通りを歩いていたダーレン・ディマルコは忌々しげに吐き捨てた。苛立ちと恨みは心に留めておくことができず、誰が聞いているとも知れないのにどうしても口をついて出てしまう。
だがその不満はお門違いだ。神聖院は聖女に関する一切合切を取り仕切る国の機関であり、そう定められた組織である以上、「私」というものはそこに存在しない。よって私的利用など生じるはずがない。
しかし、ダーレンにしてみればそんな大前提はどうでもよかった。ノルティスラ連邦との太いつながりを失ったいま、見込んでいたディマルコ商会の事業拡大はできず、それどころか国に払った多額の制裁金のせいでしばらくは自転車操業だ。
「聖女の存在は我が国最高峰の力……それを有効活用しないでなんとする!」
レシクラオン神皇国に生まれ育ったダーレンだったが、幼い頃から神への信仰心よりも多くの財産に囲まれることに心が動いた。儲けられる限り儲けたい、金はいくらあってもいい、そのためにはあらゆる物事を利用する――そんな性根なので、商売人としては非常に有能だ。そのため、特に大きくもなかったディマルコ商会を父から引き継いだあとは、これでもかと手広く商いの手を広げ、元老院議員に選出されるほどの富を得た。そうして築いた財産のほとんどと議員資格は、つい最近失ってしまったが。
「くそっ、くそっ……!」
「もし、そこの旦那」
そんなダーレンに、ふと薄汚い格好の男が声をかけた。ダーレンは視界に入った男のみすぼらしさに一瞬で顔をしかめ、無視して歩き続けようとした。しかし次に男が紡いだ言葉に足を止めた。
「神聖院に仕返しできるネタがあるんですがね」
「なに?」
「まあ、ちょっと……こっちに来て話だけでも聞いてくれませんかね」
そう言うと男は近くの横道にすっと入った。長袖長ズボンは泥まみれで擦り切れており、靴は履いておらず素足だ。その足で歩き回っているせいなのか、足首から下の肌はずたぼろに切れていた。
明らかな浮浪者の話など、聞く価値もない。今までのダーレンならそう思って取り合わなかっただろう。けれども神聖院への怒りで頭の中の血が沸騰していたダーレンは、深く警戒せず男に付いて横道に入った。
「アンタ、最近聖女様を私的利用して有罪になったディマルコ商会の旦那ですよね。それで、神聖院を恨んでいると。ならちょうどいい。神聖院がらみの大スキャンダルがある。オレは見てのとおり、ドロップアウトしたただの浮浪者だ。そう遠くないうちに餓死するだろう。でも、死ぬ前にどうしても恨みを晴らしたい男がいる。その男のせいでオレは騎士の称号を失い、家族からも見放され、こうして落ちるところまで落ちたんですよ」
「ふん、お前の身の上なんぞどうでもいい。神聖院がらみの話だけしろ」
ダーレンは浮浪者を見下すように顎を突き出した。
「その男の名前はディルク・エングム。神皇軍特殊作戦部隊の兵士だ。そしてそいつは、なんと聖女様を手籠めにしているんですよ」
「なんだとっ!?」
「おっと、声を落としな、旦那」
目の色を変えたダーレンに、浮浪者の男はニヤりとした笑みを浮かべた。落ちくぼんだ眼窩からは、今にも眼球が外れて落ちてしまいそうだ。
「オレの実家は長く続いているから騎士の称号をもらえたが、名ばかりの家で裕福でもなんでもなくてな。でもオレは騎士らしく、羽振りのいい格好をしたかった。だから神皇軍内の金をちょろまかしてたんだ。そしたら特殊作戦部隊の奴らの姑息なやり方で、その証拠を掴まれてな。騎士の称号は剥奪、実家からは勘当、それでこのありさまだ。ただの自業自得だが、オレをハメたエングムに一矢報いたくてな……それで奴の部屋を監視し続けてたんですよ」
「それで、奴が聖女を手籠めにするのを見たと?」
「そういうことだ。正確な回数はわからないが、少なくとも二回以上、奴の部屋に聖女が訪れていますよ」
「訪れている? 聖女も合意の上の逢瀬なのか?」
「さあね。世捨て人同然のオレに男女の機微なんかわからねぇんすよ」
浮浪者は話し方を忘れたのか、どうにも口調が定まらない。ダーレンはそのことを少々気味悪く思った。
「その兵士が聖女を連れ込んでいることは確かなのか。お前は聖女の顔を見たのか」
「いいや。でもですね、エングムの部屋に夜中に出入りした人影が、どうして離小城に向かう? 人目を避けるってことは誰にも見られたくない……そう配慮すべき離小城の関係者は聖女様一択だと思わないか」
「話にならん。不確かで信憑性の薄い話だ」
ダーレンはそう切り捨てて浮浪者に背を向けた。定まらない男の口調と同様に、なんとも曖昧な密告だ。しかし男はめげずにダーレンの背中に続ける。
「でももし本当ならどうします? このスキャンダルを神聖院に突き付ければ、いまアンタが憎く思っている神聖院は蜂の巣をつついたような騒ぎ……歴史上最大の汚点になるんじゃないか」
浮浪者の声には、卑しさが隠しきれていなかった。
「アンタは神聖院に、オレはエングムに一矢報いることができます。こんな身なりのオレが告発したんじゃ、神聖院は動かないだろう。だが前科者とはいえまだ社会的身分のあるアンタが言えば、神官様たちは大慌てで大混乱するんじゃないですかね。その様を見るだけでも、アンタもちったぁ溜飲が下がるんじゃないか」
浮浪者の男に背を向けたまま、ダーレンは黙りこくった。
証拠はない。浮浪者の男の話に、信じられるところは何もない。そもそも聖女は離小城に軟禁状態と言っても過言ではなく、そうそう抜け出せるはずがないだろう。
だが、もし――もしもだ。もしその話が真実なら? 男が言うように、神聖院史上最大のスキャンダルだ。血を分けた家族からも引き離され、生涯誰と結婚することもなく粛々と神の力を使うだけの清く正しい聖女様が、まさか一介の兵士と逢引きをしているなんて。神聖院どころか、いっそレシクラオン神皇国そのものを揺るがしかねない大事だ。
(神聖院……)
ダーレンは思った。自分の目論見が暴かれたのは、司法院が確固たる証拠を握っていたからだ。では、その証拠は誰が手に入れた? バレーザ自由都市の四大商家たちの書簡などというものを入手できたのは誰だ?
それはすなわち、この浮浪者の男が恨みを向けている神皇軍特殊作戦部隊にほかならない。そう、自分を提訴した神聖院だけでなく特殊作戦部隊もまた、ダーレンの計画を狂わせた組織。恨むべき相手だ。
(落ちるとしても、タダでは落ちん……!)
ダーレンは浮浪者の男に振り向くことなく大通りに戻った。男はそんなダーレンの背中を、やけに血走ってにまにまと開いた目で見送った。
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