第02話 オカズにされる聖女様

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第02話 オカズにされる聖女様

 ディルク・エングムは今年で三十一歳になる。生家のエングム家は軍人職に就く者を多く輩出している家系で、このレシクラオン神皇国の中ではそこそこ長く続いている家系だ。そのエングム家の三男として生まれたディルクは、成人と同時に神皇軍に入り、二十歳の頃からは特殊作戦部隊に籍を置いていた。  エングム家は代々神皇軍の騎士や兵士として勤めてきたためか、男児はみななかなかに体格がいい。そのエングム家の中でも、ディルクは幼子の頃から特にガタイがよかった。身長はすくすくと伸びて長兄、次兄にすぐ並んだし、胃腸も丈夫でよく食べるせいか、鍛錬を重ねるほどに全身の筋肉が頑丈に発達し、すっかり筋肉質な体付きになった。  そんなディルクに、父方の祖母が亡くなる前に言った。「ディルクは、私のおじいさんに似たのかもしれないわね。私のおじいさんはグントバハロン国の武人で、とても大柄な家系だったそうよ。そのおじいさんと結婚したおばあさんは小柄で孫の私も小柄だけど、遠く世代を経て、あなたに祖先の血が色濃く出たのかもしれないわね」と。  大国グントバハロンからこのレシクラオン神皇国のエングム家に嫁いできた祖母は、確かに小柄だった。しかし彼女の中に宿っていたグントバハロンの武人の血と、長年この地で軍人職を続けてきたエングム家の血がうまい具合に混ざって、ディルクは非常に恵まれた体躯になったのだろう。  そんなディルクは、無骨でぶっきらぼうな性格だった。レシクラオン神皇国に生まれ育ったのでウォンクゼアーザへの信仰心はあるが、神の存在よりも己の力を一番に信じていた。  ディルクのいる神皇軍特殊作戦部隊は、その名の通り、特殊な任務を多くこなす部隊だ。最も多いのが諜報活動である。それは自国内だけでなく、他国に赴いて行う場合もある。  聖女を擁するレシクラオン神皇国を軍事的に攻めようとする国は多くないが、過去に攻め込まれた例がないわけではない。そのため、聖女を狙おうとする不穏分子が国内外にないか裏から調査し、その芽を見つけ次第潰すことが特殊作戦部隊の仕事のひとつだ。ほかにも、神皇軍そのものや国内の市民の間に反乱分子がないか隠密に調査し、疑わしき者がいれば確固たる証拠を掴むまで監視を続ける。決して表立って褒められはしないそうした裏方の仕事をこなすのが、特殊作戦部隊だ。  そうした仕事を長くこなしているせいで、ディルクは様々な事態を想定し、疑い、あらゆる状況に対処できることを最優先とする。時には同僚と言っていいはずの神皇軍の者さえも調査対象になるので、心から信頼できるのは己のみなのだ。  そんなディルクは珍しく、仕事でなかなかの大けがを負った。左足の骨折と全身に打撲、それにけがを負った場所が運悪く硬い棘を持つ葉の茂みの中だったので、あちこちに棘による擦過傷を負った。 「部隊長からの伝言です。今日行われる()(わい)の儀に申し込んでいるから聖女様の力で早々に完治させてもらえと。ディルク班長、お一人で神聖殿まで行けそうですか?」  集合住宅のディルクの部屋を訪れた担当班メンバーのセリオ・シャインズは尋ねた。左足は見事に折れたが右足は無事だし、松葉杖を突けばこの城下町内の移動は自力でもなんとかなるので、ディルクは「おう」と短く返事をしてから神聖殿へと向かった。  レシクラオン神皇国を統べるファンデンディオル家にだけ稀に生まれる聖女は神と通じる力を持ち、その力で人々の病やけがを癒すことができる。癒しの力は万能というわけではないらしいが、離穢の儀を受けられれば、致命傷でもないかぎりわずか数日で病もけがも治ってしまう。  一日でも早く現場復帰するためにさっさと治すかと思い、ディルクは言われるがままに離穢の儀を受けに、神聖殿へと松葉杖を突きながらちまちまと歩いて向かった。  ディルクをはじめとした儀式を受ける国民たちは、神官に誘導されて神聖殿の大広間の出入口に列を成す。そして大広間の中に入ると、カーテン付きパーティションの間に一組ずつ通された。順番が来るまでの間、前後の人から隔離された空間でウォンクゼアーザに静かに祈りを捧げ、清らかな気持ちで聖女様の前に立つようにと神官は説明した。  松葉杖を突いたディルクは神に祈る気持ちもそこそこに順番待ちをして、四枚のパーティションを超えて大広間の中央に立った。正面の壁には女神を思わせる緻密なレリーフがあり、その真下で待ち構えていた聖女様は、頭から爪先まで純白の服をまとっており、目元も布で隠しているので、手首から先と口元の素肌しか見えなかった。  何事も疑うことから始め、確証を得るまではそう易々と他人や物事を信じないディルクは、「これが本物の聖女だとは言えないな」と不謹慎にも考えた。まさか聖女の偽物がいるわけではないだろうが、個人を識別できる要素があまりにも少ない衣服なので、本物の聖女に何か不幸が起きても、こうして純白の服で全身を包めば誰でも聖女の代わりができてしまう。無論、人々のけがや病を実際に治せるのは本物の聖女ただ一人なのですぐに偽者だとバレるだろうが、なんとも危うい装束だと思った。 「ディルク・エングム。左足骨折、および全身に打撲、擦過傷多数」  近くに立つ神官が、聖女様の方を向いてそう告げる。すると聖女様は一歩前に出て、両手を自分の顏ほどの高さに掲げた。 ――ビュォォォォッ。  その瞬間だった。強い風が神聖殿の大広間内を吹き抜ける。咄嗟のことだったが、ディルクはすぐさま警戒モードに入った。仕事柄、予期せぬ事態が起こればすぐにでも全身が強張り、一秒でも早く情報収集して状況把握に努めようとする癖がついている。足を骨折していようがここが神聖殿だろうが、ディルクの頭と身体はいつものように力が入った。しかし不思議なことに、その力は一瞬で抜けてしまった。 「えっ……」 「ん?」  そして一言間の抜けた息を吐いて、ディルクは瞬きも忘れて目の前の聖女様に――いや、一人の女性に魅入ってしまった。  どこからともなく吹き荒れた突風はいったいどうやったのか、聖女様がかぶっていたベールと彼女の目元を隠していた布を器用に吹き飛ばした。さらには聖女様の髪もほどいたようで、ディルクの目の前には透き通った露草色の瞳と、深夜の満月を思わせる銀髪がキラキラと輝いて見えた。 (なんて……きれいなんだ)  三十一年とそこそこ長く生きてきたディルクだが、それは生まれて初めて抱いた感想だった。騎士や兵士になる者が多い家系に生まれ、おまけに男兄弟の中で育ってきたので、ディルクの周囲にこんなにもはかなげにキラキラと輝くようなものは今までなかった。ディルクはいま、生まれて初めて「きれいなもの」に見惚れていた。 「あ……え、えっと……」  目を奪われるというのはこういうことだろうか。いったいどんな人間なのかおよそ個人を識別できる視覚情報のなかった聖女様だが、今ははっきりと、彼女がただただ一人の若い女性であることがわかる。  聖女様は予期していなかった事態に驚いて戸惑い、言葉に詰まっている。わずかに発せられたその声は細くて涼やかで、見た目と同じように美しい。もっとはっきりとその声を聞きたい。 「まあ、たいへん! 聖女様、しばしお待ちくださいませっ」  ベールと目隠し布を慌てて回収しに行く女性神官を聖女様はちらりと視線で追い、それからふっとディルクを見つめて、しかしその視線もすぐに横へそらしてしまう。儀式を受ける者にこんな風にしっかりと顔を見られることはないからなのか、聖女様はどこか気恥ずかしそうに俯く。ただそれだけのことなのに、その優美な佇まいにディルクの胸はドックンと大きく高鳴った。 (――したい……) 「聖女様、ひとまず目隠し布の装着だけお願いします。御髪は申し訳ありませんが、そのままで」 「はい、大丈夫です」  ディルクがとある欲望を心の中で垂れ流していると、女性神官が戻ってきて聖女様に目隠し布を当てがった。最初に比べると肩ほどの長さの髪の毛が垂れたままで少しばかり堅苦しさは減っていたが、しかしきれいな露草色の瞳が見えなくなってしまい、ディルクは心底残念に思った。  そんなハプニングがあったが聖女様は淡々とディルクにも、その次に控えていた者たちにも離穢の儀を滞りなく行った。そして儀式から数日後、ある朝ディルクが目覚めると左足は折れていたのが嘘のように普通に動き、全身にあった擦過傷も打撲の痣も、最初からなかったかのようにきれいに消え去っていた。「離穢の儀」で分離された穢れが、その後行われた「(せい)()の儀」によって清められたことで完全に癒えたのだろう。 「離穢の儀は初めて受けたが、本当に完治するんだな」  万全になるまで狭い集合住宅での自宅療養を言い渡されていたディルクだったが、全快したので特殊作戦部隊本部の庁舎に出勤して、騎士のジェレミー・リエルソンにそう感想を述べた。ジェレミーはセリオと同じように、ディルクが率いる第二班のメンバーでありディルクにとっては部下だ。 「え、ディルクさん、離穢の儀は初めてだったんですか?」 「ああ。それほど大きなけがをしたことはなかったからな」  庁舎の中で最も大きな事務室――という名だが実態は騎士や兵士たちが集う談話室のような大部屋――にいたジェレミーはディルクに相槌を打った。 「僕は子供の頃にちょっと重い風邪をひいて受けたことがありますよ。すごいですよね、聖女様の癒しの力は。たしかいま十九歳でしたっけ、聖女様。僕らが生きている間は聖女様がいるって考えると、危険な任務もそう怖くはないですね」 「そう言って油断するなよ、ジェレミー。今のところ他国の情勢はどこも落ち着いていて大きな戦が起きる危険性はないようだが、そういう時は逆に国内が危ういんだ」「はいはい。国内外の不穏の芽を摘み取るのが我ら特殊作戦部隊の本懐。忘れてはいませんよ。リュークのようにポカをしてあなたにかばってもらって、あなたにけがを負わせることはしませんから安心してください」  レシクラオン神皇国の神皇軍には、大きく分けて二種類の軍人がいる。ひとつが騎士という特別な地位を授与された者で、もうひとつはそのような地位は特に与えられず一般的に兵士と呼ばれる者たちだ。騎士は基本的に世襲制で、代々騎士の位を授与される家の長男と次男が、騎士の位を得ることができる。そして神皇軍の上官や神皇軍を運営する軍事院の役職者は、基本的に騎士だけがなれる。  ジェレミーの生家リエルソンは騎士の家系でジェレミーは次男なので、騎士の位を授かっている。一方ディルクの生家エングム家も代々軍人になっている家系で騎士の位を賜るが、ディルク自身は三男なので騎士の地位は持たず、身分的には兵士だ。そのため、肩書だけを比べるとディルクよりもジェレミーの方が地位が上のように思われる。しかし、神皇軍内のほかの部隊と違って特殊作戦部隊では家柄や肩書よりも実力と実績が重視されるので、卓越した身体能力と冷静な判断力、瞬時に様々な状況を想定して素早い判断を下せるディルクは、兵士ではあるが第二班を率いる班長の役目を負っている。部隊長からも一目置かれるほど特殊作戦部隊の中でもかなりの実力者で、そんなディルクをジェレミーは慕っていた。 「ジェレミー、見回りは午後の二番手だ。忘れるなよ」 「了解」  先日けがを負った際に従事していた国外での大きな任務を終えて以来、ディルクの班は通常業務が続いていた。有事に備えて身体を鍛え、一日に何度か交代で市井の見回りを行うのだ。神皇城があるこの神都ファーディオルの治安維持は神皇軍の治安維持部隊が務めているが、市井の情報収集も兼ねてディルクたち特殊作戦部隊も定期的に行っている。  見回りの時間が来るまで、ディルクは全快した身体の調子を確かめるようにいつもよりゆっくりと鍛錬を行った。関節をひとつずつ折り曲げたり伸ばしたり、腕や足の筋を慎重に伸ばしてから屈伸などの運動を行い、最終的には小型ナイフや長刀などの武器を手に持って広い場所で振り回してみる。ディルクの身体は見た目の傷が癒えただけでなく見えない部分もしっかりと治ったようで、これなら今すぐ任務に出ても問題はなさそうだった。  その日の午後、太陽が真南と西のちょうど間に差し掛かった頃、ディルクはジェレミーを連れ立って城下町を見回った。同じ二班の兵士のセリオとリュークの方も、ディルクたちとは違う街路を見回りに行った。 (十九か……若いな)  ファーディオルの都は特に問題はなく、今日も城下町に住まう人々は穏やかに過ごしている。あまりにも穏やかで緊張する理由がないからなのか、ディルクはふと、聖女様のことを考えた。  数十年ぶりに生まれた聖女様。神ウォンクゼアーザと通じ、その力で人々のけがや病を治癒できる特殊能力を持つ女性。この国を統べる神皇とはまた違った特別な存在として、国内だけでなく国外からも神聖視される、人であって人でないようなさだめを背負った者。  しかし、先日思わぬ偶然によって間近で見てしまったその素顔は、ごく普通の女性だった。こうして何気なくすれ違う市井の人々と同じ服を着れば、彼女が聖女だなんてわからないかもしれない。 (いや、それは無理か)  街中に視線を這わせながら、ディルクは考える。  ごく普通の女性だと思ったが、普通とは言いきれないかもしれない。なぜなら、聖女様の銀髪と露草色の瞳は全体的に透き通っていてあまりにも美しく、はかない雰囲気はひどく神々しかった。あんなにも美しいものを――美しい女性を、ディルクはこれまでに見たことがない。思わず抱きたいと――非常に下世話な表現だが、聖女様のあの堅苦しい服を剥いで素肌に口付けてこの手のひらでなでてなぞって、彼女の女壺にこの下半身の陰茎を突き刺したいと、心の底からそう思った。 (馬鹿を考えるな)  このレシクラオン神皇国において、聖女様は絶対的な存在だ。  小さな子供から国のトップである神皇にいたるまで、すべての国民が信じて崇める神ウォンクゼアーザ。その神と唯一通じ、神から賜りし力で人々を癒す聖女様。その聖女様に卑猥な男棒を突っ込みたいという欲望を抱くなど、不謹慎すぎる。口に出さなければ誰にも知られずにすむが、神相手には心の中のそんな薄汚い欲望を知られてしまうかもしれない。  ディルクは自分を律しながら、職務に励んだ。そうして日が暮れ、勤務時間が終わる。行きつけの大衆食堂でジェレミーと共に夕餉をとり、単身者用の集合住宅ではあるがそこそこ部屋数が多くて大きなアパルトマンに帰宅する。さっと湯浴みをして身体中の汗を流し、部屋着に着替えて一息つく。すると、あとはもう寝るだけという手持ち無沙汰な状況ゆえか、かき消したはずの聖女様の姿がまた脳裏に浮かんだ。 ――あ……え、えっと……。  透明感があってとても涼やかな声だった。普段の彼女は、あの声でどんな風に何を話しているのだろう。厳かな儀式の時以外は、市井の街娘たちと変わらずに誰かと談笑するのだろうか。  聖女は、この国を統べるファンデンディオル家にのみ生まれるという。しかしその存在の神聖さゆえに、神皇城に住む血族からは産まれた直後に引き離され、離小城にて神官たちによって育てられて終生そこで過ごす。定められた儀式の時以外はウォンクゼアーザに祈りを捧げるのが生活の基本で、城下町はおろか両親が住んでいる神皇城にすら用がなければ赴くことがない。そんな聖女様の生活は、いっそのこと離小城に幽閉されていると表現してもあながち間違ってはいない。  ほかの誰とも徹底的に異なる身分の聖女様は、いったい誰と何を話すのだろう。ただのいち兵士にすぎず、そして十九の聖女様に比べて十二も年上の、いい歳のおじさんのディルクには想像もできなかった。 (でも……)  ほんのわずかな時間だけだが、間近で拝むことのできた聖女様の素顔。とても美しくて見惚れてしまったが、笑えば愛らしいと思う。口を開けて下品に笑うのではなく、きっとこらえるように静かに笑うのだろう。  ディルクは脳内にたゆたう聖女様の記憶をもとに、懸命に想像してみる。彼女がこちらを向いて何かを言ってくれるところ。笑ってくれるところ。すると、胸の中がほんのりとあたたかくなってくる。そのぬくもりは次第に熱を帯びて、ディルクの脳内の聖女様もただ笑うだけではすまなくなってくる。 (やめろ)  ディルクは自分自身を嫌悪して不貞腐れるようにさっさと寝入るのだった。      ◆◇◆◇◆ (ウォンクゼアーザ様、なぜですか)  ある日、儀式の予定はなかったがルシリシアは神聖殿に行き、大広間で神に祈りを捧げていた。護衛の女性騎士や女性神官、それに聖女付き侍女のパメラたちは、ルシリシアから少し離れた場所でルシリシアの祈りを妨げないように、物音ひとつ立てずに待機している。 (どうしてこんな気持ちになるのでしょう)  ルシリシアは指を組んで少しばかり顔を俯かせて、目を閉じたまま心の中で神に問いかけた。  離穢の儀の途中に不思議な突風が吹いたあの日――儀式を受けに来ていた黒髪の男性に顔を見られたあの日から幾日。ルシリシアの不調もとい心のざわつきは、一向におさまる気配がなかった。相変わらず、ふと気を抜くとあの男性を思い出してしまうし、すると途端に心臓の鼓動音が大きくなる。そんな自分の状態をどんな言葉で表現すればいいのかわからないことがもどかしくて、そわそわとして落ち着かない。  これでは、神への祈りも気が散ってできそうにない。そう思ったルシリシアは、あえて逆に、その神に助けを求めるつもりで祈りに来ていた。儀式に必要なわけでもないのにやたらと長時間ルシリシアが祈るので、パメラをはじめ周囲の者たちは不安そうな面持ちをしていた。しかし彼女らのそんな心配をよそに、ルシリシアはいつものようにただただ心の中を無にして、ウォンクゼアーザとのつながりだけを思って祈る。 (何か……あなた様の思し召しなのでしょうか。私は本当に、あの方を好いてしまったのでしょうか)  あの日の儀式直前の祈りの際、ウォンクゼアーザはどこか楽しげだった。だからあの突風も、神が吹かせた風なのだとルシリシアは思っている。だが、なぜ神はあの突風を吹かせたのだろう。あの日以来自分がこんなにも落ち着かない気持ちでざわつきを抱え続けてしまっていることも、ウォンクゼアーザが望んだことなのだろうか。あの日ご機嫌そうだった神はいま、聖女の自分に何を望んでいるのだろう。聖女なのに一人の男性を好いてしまった自分を、神は見放さないだろうか。 (ウォンクゼアーザ様……聖女は恋をしてはいけないのです。そういう決まりなのです……それなのに、なぜ)  ルシリシアは懸命に語りかけ、問い、祈る。神へ思いが届くように、神の存在だけを深く信じながら。  それなのに、ウォンクゼアーザのことを考えれば考えるほどに、ルシリシアの脳裏にはあの黒髪の男がちらつく。太い首、広い肩幅、硬そうな胸板、短い短髪につり上がった太い眉毛、顎に生えた髭に意志の強そうな黒目。日頃のルシリシアがほとんど見ることのない、「雄々しさ」を絵に描いたようなたくましい男性。 (だめ……どうしても忘れられない。あの人のこと、どうしても思い出してしまう)  神への祈りに集中したいのに。聖女の自分は、まっすぐにウォンクゼアーザのことだけを考えなければならないのに。それなのに、ルシリシアの頭の中は、胸の中は、そして心の中も、いつの間にかあの男性のことで埋まっていく。 (話したい……)  彼はどこの誰なのだろう。とてもたくましい体付きだったから、騎士か兵士だろうか。あの時彼が負っていた傷は、仕事で負ったのだろうか。そんな危ないことをする仕事なのだろうか。 (会い……たい……)  自分の中にふと浮かんだ欲求に、ルシリシアははっとした。思わず目を開き、そして大理石の床を見つめる。 (会いたい……私、あの人に……)  それだけでは足りない。会って声を聞いて言葉を交わして、そして、そして――。 (――ふれたい……)  なぜだろう。今まで他人に対して、そんな風に思ったことはない。湯浴みや着替えなどの身支度を手伝ってくれる侍女や女性神官には毎日ふれられているが、ルシリシア自身が他人にふれるようなことはほぼない。その必要もない、そうしたいと思ったこともない。それなのに、あの黒髪の男性に対してだけはどこか奥深くから、ふれたいという欲求がこみ上げてくる。 (だめ、私……そんな……)  ほとんど知りもしない男性にふれたいと思うなど、それは破廉恥で恥ずべき気持ちではないだろうか。聖女である自分は、おそらく市井の民が持っている「普通の感覚」をほとんど持っていないと思われるが、それでも不思議とルシリシアは自覚できた。男性にふれたいという自分のその欲求は、決して表に出してはいけないとても恥ずかしいことなのだと。 (えっ……ウォンクゼアーザ様?)  その時、ルシリシアははっと顔を上げた。今日もよく晴れているので、採光用の高い窓からは眩しい陽光が燦々と注いでいる。その光の中で、ウォンクゼアーザがとても楽しそうに笑ったような気がした。 (楽しんで……おられるのですか)  あの日からずっと、あの男性のことを忘れられなくてそわそわしている。こうして神に祈りを捧げている時間にすらあの人のことを思い出して、あまつさえふれたいなどというはしたない欲求を抱いている。聖女なのに、間違いなく恋をしてしまった。たった少し、互いの顔をちらっと見ただけの男性を好きになってしまった。聖女失格と言っても過言ではないそんな自分を見て、神は楽しそうに笑うのか。 (なぜ……ですか)  ルシリシアはここへ祈りに来た理由を思い出した。どうしてこんな気持ちになるのか、神は何かをお考えなのか、それを教えてほしかったのだ。 (白き心……)  ルシリシアの頭の中に、ひとつの単語がふわっと浮かぶ。直接言葉を発するわけではないウォンクゼアーザが、せめてヒントとばかりにその単語を伝えてきたような気がした。 (ウォンクゼアーザ様は、〝白き心〟の持ち主に祝福を与えてくださる……。白き心は、この世界に生きるすべての人々が本来持つべきもの……。私のこの気持ちも、〝白き心〟と言ってよいのですか)  神と通じて人々の傷や病を癒すために、死ぬまで祈り続けなければならない聖女。血を分けた家族と共に過ごすことはなく、友人を作ることもなく、誰かと結婚して子を成すこともなく、ただただ、神と祈りのために人生を捧げる存在。  そんな聖女のさだめに従わなければならないのに、ある一人の男性を思い出してはしたなくもふれたいなどと思う。そんな自分の心は、果たして神の望む〝白き心〟に当てはまるのだろうか。自分ではとてもそうだとは思えない。 (ウォンクゼアーザ様……私にはわかりません)  ルシリシアは再び目を閉じて祈り始めた。懸命に、心の中で神に呼びかける。しかしウォンクゼアーザは楽しそうにほほ笑み、ルシリシアを咎める様子はない。むしろ、ルシリシアが自身の欲望を自覚できたことを嬉しがっているようにすら思えた。      ◆◇◆◇◆ 「ルシリシア様、わかりましたよ。特殊作戦部隊第二班の班長さんだそうです」  ある日の夜。夕餉も湯浴みも終えてあとは寝るだけ、という頃合いに、侍女のパメラは私室でくつろいでいたルシリシアにそう告げた。  今日行った離穢の儀で集めた穢れを清めるための「清祈の儀」が明日に予定されているので、あまり夜更かしはできない。そのため、ルシリシアをはじめ世話係たちも今夜は早々に寝付く。そうしてルシリシアの周囲からほかの侍女たちがいなくなったのを確認してから、パメラはルシリシアの部屋を訪れたのだった。 「パメラ、なんのこと?」 「しっ、静かに。これはルシリシア様とパメラだけの、二人だけの秘密のお話です」  パメラは人差し指を自分の口に当てると、ソファに座っているルシリシアの隣に座り、小声で続けた。 「不思議な風が吹いた離穢の儀、その時にいた男性のことです」 「えっ」 「ルシリシア様は離小城からお出になられないでしょう? だから不肖パメラ、頑張って情報収集をしてまいりました。お名前はディルク・エングム様。騎士の位を賜るほどの軍人家系であるエングム家の三男坊さんです。三男なので騎士ではなく兵士だそうですが、特殊作戦部隊の中では一、二を争う実力者だそうです」 「ディルク……エングム様」  そうだ、あの日神官が儀式のために一度だけ告げた彼の名前はその名前だったように思う。神皇軍の兵士ならば、あの日負っていた骨折などの負傷も頷ける。きっと仕事で、何かたいへんな目に遭ったのだろう。 「三十一歳の独身で、エングム家の屋敷ではなく、城下町にある集合住宅で一人暮らしをなさっているそうです。ぶっきらぼうな性格だそうですが、どんな任務も確実にこなす実力と実直さから、部下や同僚からの信頼が厚いそうです」 「まあ、そうなの?」  あの時のちらっと見た印象しかルシリシアの中に残っていないが、確かに決して浮ついたような雰囲気ではなかったし、むしろ「ぶっきらぼう」という言葉が似合うとルシリシアは思った。 「ルシリシア様、先日、儀式もないのにウォンクゼアーザ様に祈りを捧げていましたよね。エングム様のことを何かお尋ねになられたのではないですか」 「そっ、それは……」  パメラに尋ねられて、ルシリシアは言いよどんだ。  パメラの言うとおり、あの日の男性――ディルクのことがどうしても気になって、ウォンクゼアーザから何かしら答えをもらえないかと思ったのだ。だが、そんなとても個人的なことのために祈っていたのだとは言い出しにくい。 「大丈夫です、ルシリシア様。パメラは、皆さんが〝聖女様〟と呼ぶあなたをお名前呼ぶような規則破りの侍女ですよ? このパメラの前では、完璧な〝聖女〟でいなくてもいいんです。ルシリシア様という一人の女性として、お話してください」 「パメラ……」  かれこれ十年も侍女として、主に私生活の時間の世話を焼いてくれているパメラ。ルシリシアよりも背が低くて子供っぽい顔付きのため、年下のはずのルシリシアの方がパメラの姉のようだと言われることがあるが、ルシリシアは天真爛漫なパメラが今はとても頼もしく思えた。 「そうなの……私、あの日からずっとディルク様のことが忘れられなくて」 「エングム様のことがお好き……なんですよね?」 「ええ……きっとこれは好きって気持ちで……私はあの人に恋をしてしまったのよね? でも私は聖女で、恋なんてしてはいけない立場なのに……だからウォンクゼアーザ様に教えてほしかったの。どうしてこんな気持ちになるのか……聖女なのに誰かを好きになってしまうなんて、これも神の思し召しなのかと」 「ウォンクゼアーザ様は何かお答えくださいましたか?」 「いいえ、ただずっと楽しそうで……白き心、とだけ」 「白き心……聖女だけど恋をしたルシリシア様のその気持ちは、神にとって最も尊ぶべき白き心であると……そう仰せなのですね?」 「わからない……わからないわ」  ルシリシアは首を横に振った。  ディルクが好き。でも自分は聖女。恋など許されるはずがない。それなのに、神はただ嬉しそうにしている。パメラの言うとおり、今のこんな自分に白き心があると言わんばかりに。  だが自信がない。それに神が善しとしたところで、自分がディルクとどうにかなれるはずがない。彼がもう一度けがでもして離穢の儀を受けに来なければ、再会することすら叶わないのだ。いや、たとえ彼が離穢の儀を受けに来たとしても、自分は目隠し布をしているので彼のあの黒い瞳をもう一度見ることはきっとできないだろう。 「パメラ……私、胸が苦しいの」  聖女は神に祈りを捧げる存在。人々のけがや病を治す存在。家族などいないと思いなさい。友人も必要ありません。身の回りのことは侍女や神官に任せなさい。あなたはただ聖女として、神のためだけに清らかな存在でいなさい。誰かを愛することも愛されることも不要です。聖女のあなたは神がすべて、そしてすべての人々を等しく思うのです。神の力を失わないように、生涯神と通じていられるように、心に曇りを宿すことなく真摯に祈り続けなさい。  繰り返し繰り返し、神官たちにそう言われてルシリシアは育ってきた。いつだったか、反発心が生まれたこともあった。聖女というさだめが寂しくて悲しくて、投げ出したいと思ったこともあった。それでも、このさだめに従って生きると決めた。けがや病で苦しむ人々に癒しを与えることに、喜びを感じるようにもなった。  聖女として生まれ、聖女として生きて、そしていつか聖女として死んでいく。ただそれだけの人生――そのはずだった。  それなのに、あの日からずっと、自分の「聖女としての生」が揺らいでいる。 「あの人に会いたい……ふれたい……でも私は聖女として生きなきゃいけない……誰かを好きになることなんて許されない……それなのに、今のこんな私を、神はただ嬉しそうに見ているだけ……どうしてなの……わからない……私……」 「ルシリシア様……」  ルシリシアは一筋の涙を流した。 「苦しくて……心が痛いの。それでも消えてくれないの……あの人の面影が」  ディルク・エングム。なんて素敵な人だっただろうか。彼にもう一度会うことは、きっと叶わないだろうに。ああ、だからきっとこうして何度も思い出すのだ。もう二度と会えるはずがないから。たった一度の、ほんのわずかなあの時の邂逅だけが、自分と彼に許された唯一のつながりだから。それを忘れないように何度も何度も思い出して、記憶に焼き付けようとしているのだろう。 「ルシリシア様、世界中の人がそうだと言っても、パメラだけは否定します。聖女だから誰かと愛し合っちゃいけないなんて……そんなはずがありません!」 「パメラ、でも……」 「ルシリシア様は確かに聖女様ですけど、でもルシリシア様っていう一人の人間です。きれいで優しくてかわいくて、とっても素敵な女性です。パメラはルシリシア様に幸せになってほしいです。死ぬまでずっと、神とすべての人々のために聖女として生きなきゃいけないルシリシア様にだって、普通の人と同じような〝普通〟の幸せが降り注いでほしいです。だからこのパメラ、まだまだ頑張ります! ルシリシア様も頑張りましょう!」  パメラは片手で拳を握り、それをぐっと震わせてルシリシアに見せつけた。  この時、パメラが何をどう頑張るつもりなのか、ルシリシアにはとんと検討がつかなかった。しかしこののちパメラにとんでもない提案をされて、そしてその提案に乗ったルシリシアは、人生で一番と思われる大冒険に出るのだった。
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