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第01話 恋をした聖女様
「あら?」
光沢のある白い大理石の床に両膝を突き、両手を組んで祈りを捧げていたルシリシアはふと目を開けて神聖殿の高い天井を見上げた。歴代の聖女を思わせる美しい女神像のレリーフが掲げられた壁面よりも高い位置にある採光用の窓からは、まばゆい陽光が燦々と注いでいる。
その光を発する頭上の太陽のさらにその先に、ルシリシアをはじめこのレシクラオン神皇国の国民すべてが心から信じ敬愛する神、ウォンクゼアーザが御座す。これから始まる「離穢の儀」に向けてルシリシアはウォンクゼアーザに一人で祈りを捧げていたのだが、いつもならルシリシアの祈りを淡々と受け取るだけの静かな神が、愉快そうにほほ笑んだ気がしたのだ。
(珍しいわ。ご機嫌なのかしら)
十九年前、ルシリシアはレシクラオン神皇国を統べるファンデンディオル家に生まれた。兄と姉がいるが彼らと共に両親の近くで育つことはなく、ルシリシアは赤子の頃から離小城に隔離されて、ほとんど外界と接することなく生きてきた。なぜなら、ルシリシアは久方ぶりに誕生した「聖女」だからだ。
レシクラオン神皇国は領土面積こそ広くはないものの、この世界を創ったという創世神のウォンクゼアーザを深く信仰してきた。長きにわたるその信仰心ゆえなのか、国を統べるファンデンディオル家には時折、月のように輝く銀髪と透き通った露草色の瞳を持つ「聖女」が生まれるようになった。
聖女は日々の真摯な祈りと汚れなき「白き心」を持つことによってウォンクゼアーザと一種の疎通を図ることが可能で、国の統治者である「神皇」よりもさらに特別視される。また、人の身体に巣食う穢れを分離して清めることのできる癒しの能力を持ち、それゆえに他国からも畏敬の念を持たれている。
ここ数十年は聖女のいない時代が続いていたため、ルシリシアは久方ぶりに誕生した聖女ということで、それはもう厳重に、しきたりと慣習と規則にがんじがらめにされながら生きてきた。ファンデンディオル家に生まれたものの、「名」は与えられても聖女なので「家名」は剝奪され、血のつながっている「親」も「兄弟」もいないもの同然で、神官をはじめとした世話係の者たちによって育てられた。ウォンクゼアーザと疎通が図れるようにと、物心つく前から一日中神へ祈り続けるように言われ、さらに聖女がすべき儀式の手順を覚えさせられた。
つまらなくて嫌だと思ったことも、泣いたこともあった。特に物事の道理がまだよくわからない幼子の頃は、言葉にできない不安で心がいっぱいになり、意味もなく泣き続けた。祈れども祈れども神が返事をしてくれることはなく、神の存在に不信感を抱いたことさえもあった。自分の置かれている環境はとても特殊なもので、家族や友人の存在のように、自分以外の人が「普通」に持っているものを自分は持っていないのだと気付いた思春期の頃は、すべてを投げ出したくて無性に腹が立った。聖女だからという理由で己の名前すらめったに呼ばれない日々は孤独でどうしようもなく色褪せていて、どうして聖女として生まれてきてしまったのだろうと絶望したこともあった。
だが、それでも聖女として生き続けてきたおかげか、「神との疎通」がどういうことなのかを知り、気付き、自分は本当に神と通じているのだと思えたいま、ルシリシアは聖女としてのさだめを心の底から受け入れていた。相変わらず神の声が明確に聞こえるわけでも姿が見えるわけでもないのだが、心を穏やかにして静かに祈り続けていると、今のようにウォンクゼアーザの感情のような、表情のようなものがふと感じられるのだ。
「今日は何か特別なことがあるのですか」
立ち上がって背筋を伸ばしたルシリシアは、何もない虚空に向かって尋ねてみる。返事などないが、この声はきっと神に届いている。自然とそう思えることが、自分なりの「神との疎通」だ。
祈りを終えたルシリシアは、肩ほどの長さの銀髪をさらりと揺らして神聖殿の大広間を出て細い廊下に向かった。そしてそこで待機していた数名の神官と護衛の騎士に前後を挟まれながら、別室に移動する。
今日はこれから、「離穢の儀」が行われる。レシクラオン神皇国に生まれた聖女だけが可能とする、人の身体に巣食う穢れを分離する儀式だ。分離された穢れはその後行われる「清祈の儀」にて清められ、それと同時に穢れを持っていた民の身体は快復する。けがも病も、聖女の御力によって治ってしまうのだ。その癒しの力の神秘こそ聖女が聖女と呼ばれ、常人とも神皇とも違う存在として特別視される最たる理由のひとつである。
「今日は神のご機嫌が良いようです」
「まあ、そうなんですか」
「それは良きことですわ」
ルシリシアの髪を結い、純白のローブを着せ、着々と儀式の準備を進める女性神官たちにルシリシアが告げると、彼女たちは静かにほほ笑んだ。
先代の聖女が亡くなってから数十年の月日が経っていた。そのため、先代聖女に関する知識と経験を有している者はほぼ生きてはいない。しかしながら、先代聖女に仕えた侍女や神官でかろうじてまだ生きていた数名の助言と、事細かく丁寧に記載された儀式の手順書や書物などによって、聖女に関する文化はどうにか継承できている。
これから行われる「離穢の儀」は、まず聖女一人の祈りから始まる。神聖殿と呼ばれる儀式のための場所で、聖女は誰に邪魔をされることもなく神に祈るのだ。それが終わると、聖女と神聖殿大広間の準備が始まる。聖女は両手を清らかな水で清め、純白のワンピースとローブをまとうのだが、大事なのはそのローブをまとう前に白い布で目隠しをすることだ。一方の大広間は、出入り口から大広間の最奥までの中央通路にいくつものカーテン付きパーティションが設置され、何名もの神官と警護の騎士たちが配置される。
「聖女様、ご準備はよろしいでしょうか」
「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」
頷いたルシリシアは、両手を前方に差し出した。するとルシリシアの半歩前に立つ二人の女性神官が、それぞれルシリシアの右手と左手を取る。そして目隠し布によって一時的に視力を封じられているルシリシアを気遣いながら慎重に歩き出して、大広間へと向かった。
「聖女様のご入場です。皆様、ご静粛に願います」
儀式を進行する男性神官の声が、神聖殿大広間内に厳かに響き渡る。くしゃみひとつも許されないような張り詰めた静寂の中を、ルシリシアは二人の女性神官に誘導されて歩く。そして広間中央に立つと、小さく息を吐いた。
「これより、離穢の儀を執り行います」
男性神官がそう宣言すると、静かに儀式が始まった。
中央通路の一番奥側、ルシリシアからすれば一番手前側にあるパーティションのカーテンが開き、その向こうで待機していた老婆が一人、神官に導かれてルシリシアの目の前に立つ。老婆に添う神官が、老婆の名前と不調の箇所を読み上げる。するとルシリシアは、白い布で覆われたうえにしっかりと閉じている瞼の裏に、ゆらめく黒い炎を見た。しばらくその炎を見つめていると、その中心には黄色っぽい光が混ざっているのが見て取れる。
「痛かったでしょう。よく我慢なさいましたね。いま、取り除きます」
ルシリシアは老婆にそう声をかけると、両手のひらを自分の顔ほどの高さに掲げた。その手のひらで黒い炎を包む様をイメージしながら、実際に両手を合わせる。そうして手中に収めた炎を、右手側に控えている神官が持っている聖壺の中へ慎重に落とした。
「ああ、聖女様……ありがとうございます。ありがとうございます」
老婆が涙声でお礼を述べると、ルシリシアは口元に小さな笑みを浮かべてこくりと頷いた。そして老婆は神官に付き添われて大広間を後にする。
同じように、何人もの国民が順番にルシリシアの前にやって来た。ルシリシアは老婆にしたのと同じように一言声をかけては、誰にも見えない黒い炎を聖壺の中へと移動させた。
ルシリシアが聖女の能力ゆえに見ることのできるその黒い炎こそ、人の身体に巣食う穢れ――すなわち、それぞれが抱えている病やけがそのものである。黒い炎は不調箇所の種類や程度によって大まかに青、黄、赤の色を内包しており、青は軽傷で赤は重症だ。そして最もひどい場合、いかなる色を持つこともなくただただ黒い炎が揺らめいていることがある。それはつまり、聖女の癒しの能力を持っても助けられない――すなわち死期が近いということだ。しかし何かしらの色をまとう黒い炎ならばこうしてルシリシアが取り除き、後日「清祈の儀」によって清めることで消失させられる。そして清祈の儀が完了したその日のうちに、当事者の病もけがも完治するのだ。
病やけがを癒せる聖女のこの力は他国からも熱心に必要とされており、今日はレシクラオン神皇国の民だけが儀式を受けに来ているが、レシクラオン神皇国を訪れることのできる他国の民ならば、離穢の儀を受けられる機会が年に二回ほどある。ほかにも一年に一度、聖女が他国へ赴いて出張儀式を行うこともある。不調ゆえに自国を出られない人々のもとへ、聖女自らが訪れるのだ。
「ディルク・エングム。左足骨折、および全身に打撲、擦過傷多数」
何人目だろうか、やたらと大きな黒い炎をまとった人物がやって来た。黒以外の色は黄色がちらりと見えて何か所かに青が散らばっている程度なので、重症ではないようだ。黒い炎の大きさは、おそらく当人の身体の大きさを表しているのだろう。
ルシリシアはそれまでと同じように淡々と、その黒い炎を取り除こうとした。
――ビュォォォォッ。
しかし、ルシリシアが両手を眼前に掲げたその瞬間、窓が開いているわけでもないのに突風のような風が音を立てて吹き抜けた。神聖殿の入り口側に近いパーティションは倒れ、神官たちが慌てて直している。
「えっ……」
風がやんだと思った瞬間、やけに視界が明るいことに気付いてルシリシアは不思議そうに何度も瞬きをした。頭にかぶっていたベールも、そして目隠しのための目元の白い布も、不思議な風のせいですべてが大広間の隅へと吹き飛ばされてしまっていたのだ。
「ん?」
何が起こったのか、ルシリシアの頭の中は真っ白になった。つい一瞬前まで瞼の裏に浮かぶ黒い炎を見ることに集中していたせいで、急に戻った視界の鮮明さに思考が追いつかない。自分と同じように不思議そうな表情をしている目の前の男性も、それは同じようだった。
「あ……え、えっと……」
「まあ、たいへん! 聖女様、しばしお待ちくださいませっ」
異変に気付いた女性神官たちが、ベールと目隠し布を慌てて拾いに行く。その神官を視線で追おうとしたルシリシアの頬に、銀色の髪の毛がはらりと落ちてくる。どうやら先ほどの突風は、結い上げていたルシリシアの髪もほどいてしまったらしい。真夜中の月の光を思わせる美しい銀髪が、陽光に照らし出されてキラキラと輝いた。
「聖女様、ひとまず目隠し布の装着だけお願いします。御髪は申し訳ありませんが、そのままで」
「はい、大丈夫です」
女性神官がルシリシアを取り囲み、回収した目隠し布で再びルシリシアの目を覆い、視界をふさぐ。これ以上儀式を中断させるわけにはいかないので、髪の毛は下ろしたまま儀式続行となった。
(先ほどの風は……ウォンクゼアーザ様?)
ルシリシアは不思議に思いながらも儀式を再開した。そしてその日予定されていた儀式参加希望者全員の黒い炎を回収し、離穢の儀は終了となった。
ルシリシアだけでなく神官たちも、その日の儀式中に吹き荒れた風のことを不思議に思った。しかし大きな問題とされることはなく、その日回収した黒い炎を清めるための「清祈の儀」が後日淡々と執り行われたのだった。
◆◇◆◇◆
「ルシリシア様、もしかしてどこかお身体がすぐれないのでしょうか」
「え?」
数日後――。
離小城の私室のソファに腰掛けて何をするでもなくぼんやりとしていたルシリシアは、侍女のパメラからそう尋ねられて目を丸くした。そんなことを訊かれるとはまったく思ってもいなかったのだ。
「ここ最近、食が細くなったと聞いております」
「そう……かしら」
「はい。朝も昼も夜も、お食事を残されているそうですね」
ルシリシアに自覚がないことを、パメラはますます心配に思った。
十九歳のルシリシアに対して、パメラは三つ年上の二十二歳だ。子供の頃、離穢の儀に参加した母の付き添いとして、パメラは幼い聖女の御前に立った。しかし母の病はすでに手遅れで、聖女の力をもってしても助からない段階だった。「聖女様ならお母さんを助けてよ!」と、パメラはルシリシアに対して泣き叫んだ。その時のルシリシアはまだ七歳の幼い少女だったが、パメラから向けられた落胆を真正面から受け止めて、涙するパメラに心を痛めながら「助けられなくて本当にごめんなさい」と謝り、パメラと同じように泣いてくれた。
その後ほどなくしてパメラの母は亡くなり、母と二人暮らしだったパメラは天涯孤独の身になってしまったが、ふと離穢の儀で泣いてくれた聖女様のことを思い出した。死期が近い母のことで取り乱した子供の自分よりも子供だった。それなのに聖女としての勤めを真面目に果たそうとしていて、パメラの母を助けられないことを悲しんで泣いてくれた優しさを持つルシリシアに、パメラは無性に胸が熱くなった。そしてそんな聖女様に仕えることができないだろうかと考えた。
母と住んでいた狭い集合住宅の家賃が払えなくなったパメラは追い出されて家なき子になってしまったが、幸運なことに商家の女性に小間使いとして住み込みで雇ってもらえた。それから二年後、その女性が神官に紹介してくれたおかげで、パメラは聖女付き侍女の職を得ることができた。それから十年間、パメラは主に聖女様の私的な生活を支える侍女として仕えている。
そんなパメラを、ルシリシアは侍女の一人ではなく友人のように思っていた。「誰も名前で呼んでくれないけど、あなたには名前で呼んでほしいの」とパメラに頼み、こうしてほかに人目がないときは名前で呼んでもらっているほどだ。
聖女ゆえに家族という集団の中で過ごすことを許されず、ましてや学問所に通うこともせず友人の一人も作れないまま孤独を抱えて生きてきたルシリシアにとって、歳が近くて天真爛漫でバイタリティーのあるパメラは、真冬に見る真夏の花のように眩しくて暖かくて、心を癒してくれる大事な存在だった。
「何か悩み事か、心配事でもあるのでしょうか。もしよければ教えてくださいませんか。このパメラ、不肖ながらお力になれるかもしれません!」
パメラの仕事は、私的な時間を過ごすルシリシアの身の回りの世話だ。離穢の儀や清祈の儀がある日は一日中神官たちがルシリシアを取り囲むが、儀式のない日をこうして離小城で過ごすルシリシアに、勤務時間中はずっと付き従っている。喉が渇いたと言われればお茶を用意するし、眠いと言われれば寝台を整えるし、散歩がしたいと言われれば護衛の女性騎士を連れ立って庭を一緒に散策する。本が読みたいなら調達するし、肩が凝ったならマッサージをする。そうして大なり少なり、ルシリシアが快適な時間を過ごせるように取り計らうのがパメラの業務だ。
だから、もしもルシリシアが何か悩みを抱えているのなら話してほしい。その悩みを解決して取り除いて、穏やかな時間を過ごさせてあげたいとパメラは思った。
「いえ……特にないの。何もないのよ」
ルシリシアは静かに答えながらも目を伏せた。どう見ても何もないようには見えない。もしかしたら、自分ではうまく言語化できない内容なのかもしれない。
聖女に生まれ、聖女として生きる義務を背負い続けてきたルシリシアは、とにかく特殊な育ちだ。国民ならば誰もが持つはずの家名を取り上げられ、「ルシリシア」という個人名で呼ばれることはほぼなく、誰からも「聖女様」と呼ばれる。父母も兄も姉も存命だが彼らと「家族」として過ごした時間は皆無で、教育はすべてこの離小城内で行われたので学問所に通った経験もなく、ゆえに友人もいない。ただひたすら聖女として神に祈り、神と疎通することだけを求められてきた。そのため、「普通」の人がすぐに自覚できそうな悩みも、きっと言葉にして説明することができないのだろう。
「ルシリシア様、ここにはいま、パメラしかおりません。どんな悩みでもまずは私が受け止めますから、何か気になることがあるなら教えてくださいませんか。お話しいただくだけでも、少しは心が楽になるかもしれません」
窓枠を背にしたソファに品よく腰掛けているルシリシアに近付き、パメラは床に膝を突いて下から見上げるように懇願した。ルシリシアは言いよどんでいるような、戸惑っているような表情をしていたが、少しだけ身体を前に倒すと、パメラの耳の近くで言いにくそうに呟いた。
「わ……忘れられないの」
「何をですか?」
「その……ある人のことを……」
「ある人?」
パメラは先を急かさないように気を付けながら、ルシリシアの言葉を待った。
「先日の離穢の儀で、神聖殿の大広間に風が吹いたことは知っているかしら」
「はい、神官様たちがお話しされているのを聞きました。窓が開いていたわけでもないのに突風が吹いたんですよね。それで、ルシリシア様のベールと目隠し布が飛ばされて、御髪も乱れてしまったと。不思議なこともあるものですよね」
そう、不思議なことだ。だが所詮はただ風が吹いただけ。何か危険があったわけではない。原因はわからないが、特に究明すべき理由もないので、もはや気にしていない人の方が多いだろう。
「その時……いたの。その……男の人が」
「ちょうど儀式を受けていた男性がいらっしゃったんですね。その方が忘れられないのですか?」
「そうなの……何度も思い出してしまうの」
ルシリシアはそう言って、自分の胸元で両手拳をぎゅっと握った。
聖女としてこの離小城で暮らしているルシリシアは、実は異性を見る機会がとても少ない。離小城でルシリシアの生活を支えるために働く使用人たちはほぼすべてが女性で、メインシェフと庭師は男性だが、一日の中でルシリシアと顔を合わせることはほとんどない。儀式を執り行う神官たちは女性よりも男性の方がやや多いが、そのほとんどが手と顔しか見えない神官服をまとっており、女性神官との違いはせいぜい背が少し高いことや声が低いことくらいで、神に仕える神官職ということもあってかあまり「異性」というものを感じさせない。
そんなルシリシアの目の前にあの時いた男――神聖殿の大広間に一筋の突風が吹き荒れ、目隠し布もベールも吹き飛ばされてしまったルシリシアが、自分の目でまじまじと見つめた雄。その姿は、あまりにも衝撃的すぎた。
離穢の儀を受ける者は、不調の部位を可能な範囲内で聖女の前にさらすように求められる。目隠し布をしているのでルシリシアが直接その部位を見ることはないが、衣服などで覆われていない方が、聖女の能力で見える黒い炎がよりはっきりととらえられるからだ。
その男は確か全身に打撲があると神官が言っていたので、なるべく薄着になったのだろう。上半身は黒いタンクトップ一枚で、下半身は動きやすそうなハーフ丈でカーキ色のカーゴパンツ。衣服に覆われていない肌のあちこちに、こさえてまだ一日、二日といった痣や擦過傷がいくつも見て取れた。
何事もなければ、聖女のルシリシアが儀式を受ける者をじかに見ることはない。しかしあの日は違った。不思議な突風が吹いて目隠し布が飛ばされてしまったせいで、ルシリシアは見てしまったのだ。
「あれは……あれが、男の人?」
ルシリシアの目に映った男性。それはあまりにも「女」と違っていた。つり上がった眉毛は太く、顎先には髭が生えており、首は顔の横幅と同じかと思うほどに太かった。肩や腕はまるで丸太のように太く硬そうで、ハーフパンツから伸びている足にはすね毛が生えており、まるで獣のようだと思った。声は「ん?」という一言しか聞こえなかったがとても低いもので、その一言だけでも、ゆったりと優雅に話す男性神官とは「違う」と思った。
日常生活で異性を見る機会がほぼないルシリシアにとって、あの男はあまりにもはっきりと「雄」を感じさせた。だからなのか、あの日以降、ルシリシアはふとした瞬間に何度も彼の姿を思い出してしまい、無性に胸が苦しくなった。頭の中から彼の姿が消えず、反芻するように何度も思い出してしまう。そしてそのうちに、何か物足りなくなって胸の奥が痛んだ。その痛みの正体も理由もわからず、それなのにその症状がずっと続くものだから、ルシリシアは食事も喉が通らないほどに一人で困惑し続けていたのだった。
「ルシリシア様、それはどんな男の人だったんですか」
パメラは尋ねた。
パメラはルシリシアの侍女であって神官職ではないので、聖女が行う儀式には基本的にノータッチだ。離穢の儀が行われている間は神聖殿にすら入れない。そのため、不思議な突風のことなどは噂話で聞いただけなので、その時の詳細はルシリシア本人に確かめるしか把握しようがなかった。
「どんな……えっと……男の人なんだ、って」
「たくましくて男らしい、ってことでしょうか」
「そう……そうね。女性とは全然違ったわ。首が太くて腕も太くて……四角くて硬そうだったの……びっくりしたわ。ああいう方をたくましい、と言うのね」
「男性ならば全員が全員そういう体付きをしているというわけではないので、男性の中でも特に体格がいい方なのかもしれません。騎士か兵士の方でしょうか」
「そうなのかしら……でも確か、足を骨折していて打撲も多かったから」
「きっとお仕事でけがをされて、それで離穢の儀を受けに来たのですね。その方のお名前は憶えていますか」
「名前は……いいえ、憶えていないわ」
「じゃあえっと……髪の色とか目の色とかはどうでしょうか」
「それなら……髪は黒くて短かったわ。瞳の色も黒かったと思う」
聖女のルシリシアを睨んでいたわけではないと思うが、目が合った男の眼光は鋭かった。だが、怜悧さを伴った表情はキリッとしていてとてもクールな印象だった。神への信心深さや敬虔さを重視する神官たちとは違って、自分の力だけを信じているような――そう、まるで野生の獣のような力強さを感じさせた。
「ルシリシア様はあまり男性を見かけない生活ですから、ちょっとしたカルチャーショックを受けたのかもしれませんね」
「カルチャーショック?」
「えっと……つまり、ルシリシア様の普段の生活にないものだったので、とても驚いたというか」
「そう……そうね」
パメラに頷いたあと、ルシリシアはしばらく黙っていた。しかししばらくすると恐る恐るパメラを見つめて、純真な瞳で尋ねた。
「では、毎晩不思議な気持ちになるのも驚いたからなのかしら」
「不思議な気持ちですか?」
「ええ、そう……。あの人のことをふと思い出してしまって……それだけじゃなくて、なぜか全身が熱くなるの」
「ん?」
「頭の中の……記憶の中だけのあの人に私……ふれてみたくて」
「んん?」
「どうしてかしら……あのお髭をさわってみたくて……。太そうな腕は……何か、こう……私を……どうにかしてほしいって」
「んんん?」
「そう思ってしまうと……お腹のあたりがきゅって締まるように疼くの」
「んんんん~~~……えっとルシリシア様、それは……えっと……」
ルシリシアの告白に、パメラは目をぐるぐるさせた。
男性を見かけない生活なので、神官以外の男性を見て驚いただけだとパメラは思った。しかし、ルシリシアが頑張って言語化した自身の感覚を聞くと、どうもカルチャーショックなどという言葉では片付けられない事態になっている気がする。
(これは……まさか……)
いや、「まさか」などではない。確実に「そう」だろう。
「あの、ルシリシア様……もしかしてその男性のことがお好きなのでしょうか」
「好き……?」
(っ……しまったああああ!)
ルシリシアに尋ねてから、パメラは盛大に後悔した。
聖女として生まれた者は、聖女として生きる。それがしきたりであり習慣であり、国の決まりであり聖女のさだめだ。そして聖女として生きる以上あまたの制約があり、そのひとつに、生涯誰とも結婚することはなく独身であること、というものがある。聖女には結婚はもちろんのこと、誰かと愛し合うことさえも許されてはいない。男性と縁遠い日常生活を送るのも、聖女に恋や結婚を意識させないためだ。色恋にかまけることなど許されず、死ぬまでずっと、神に清らかな祈りを捧げ続けることだけが聖女には求められる。聖女として神と通じ、神から授かった癒しの力を人々のために使うこと。ただそれだけが、聖女という人生ですべきことなのだ。
そんなさだめにある聖女のルシリシアに対して「その人のこと好きなの~?」なんて問いかけるなど、完全に失当だ。
「い、いえっ……何度も思い出して気になってしまうのは好きってことなのかなと……あ、でも、全然別に、そうじゃないとも思いますし!」
なんとかごまかそうと、パメラは必死になった。間違っても聖女に恋心など教えてはいけない。自覚させてはいけない。なぜならそれは許されないこと――そう、決して叶うはずがない恋だからだ。
「好き……ええ、私……あの人のことが好きになってしまったのかもしれないわ」
(嘘おおおおおおどうしよおおおおおお!!!)
自分の胸元に手を置いて神妙に呟くルシリシアに対して、パメラは目を泳がせながら盛大に冷や汗をかいた。
聖女が恋をすることは許されていない。誰かと愛し合って結婚することも許されてはいない。それなのに恋をしてしまうということは、必ずルシリシア自身が傷つくということだ。それに、この離小城に軟禁されていると言っても間違いではないような生活のルシリシアが、想い人と心を通わせることができるはずもない。
「でも……」
パニックになるパメラと違って、俯いたルシリシア静かに呟いた。
「どうにもならないわね。私は聖女……終生、ウォンクゼアーザ様に祈りを捧げるだけのさだめ。結婚はもちろんのこと、誰とも愛し合ってはいけないと……そういう決まりだもの」
「ルシリシア様……」
普通の市井で生まれ育ったパメラと違い、物心つく前から聖女教育を施されてきたルシリシアは、しっかりと自分の立場を弁えていた。
「あの人のことを思い出してしまうけど……でも忘れないといけないわね。私はウォンクゼアーザ様に祈り、ありがたくも神の力を賜って、癒しを必要とする人々に神の力を使う……ただそのためだけに生きないといけないのだから。それ以外のことなんて……誰かを好きになる気持ちなんて、持つことさえも許されてはいない。この気持ちは……」
顔を上げてルシリシアは寂しそうにほほ笑んだ。
「捨てないといけないのよね、きっと」
自分の意思で聖女というさだめを選んで生まれてきたはずがない。それなのに、ルシリシアは健気に自分のさだめを受け入れ、そして芽吹いたばかりの小さな恋心さえもそっと消そうとしている。自分個人の感情は全部伏せて、「聖女」としての役目だけを懸命にまっとうしようとしている。
純真で廉潔で、自制心があって我慢強いそんなルシリシアの姿にパメラの胸はぎゅぎゅっと痛み、そしてパメラに一世一代の決意をさせたのだった。
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