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第15章 ましろとアスハの、町での暮らし。
世の人の常として、不便や不快なことに慣れてそれが当たり前で何とも感じなくなるまでにはすごく長い時間がかかるらしい。
でも逆に便利や快適な環境に慣れるのはほんの数日で大丈夫、呆れるくらいあっという間なんだ。そのことを自分の身の上でしみじみと体感してしまったこの一週間だった。
毎日通ってる工場での仕事はきつくないし。むしろなかなか楽しいと言っても差し支えないくらいの代物だった。
そして新しい住居。町に初めて到着したあの日、食堂でメニューを見て迷った挙句にわたしはトマトスパゲッティ、アスハは肉うどんの夕食を済ませた。
それから受付の女の人から受け取った地図を頼りにたどり着いたわたしたちの新居は町の中心部にほど近い、居並ぶ他の建物と較べても割とまだ小綺麗な五階建てのアパートだった。
話に聞いてた通り、中庭のど真ん中にどんと井戸がひとつ。昔は整然とタイルが張られてたのを容赦なく剥がして地べたが剥き出しにされている。まあ、そうしないと井戸は掘れないもんね。確かに。
大昔には実際に稼働してたに違いないエレベーターの扉は当然閉じたままだ。当たり前だけど遺跡じゃない、生きて動くエレベーターってわたしは生まれてこの方見たことない。この前のゲストハウスの片隅にもちゃんと昔のままに残存してたけど、もちろんぴくりとも動かなかった。
だから選択の余地なくでっかくてずっしりしたリュックを背負ったまま、えっちらおっちらと外付けの階段を昇る。そこで偶然鉢合わせした初めて出会うアパートの住人の女性が、例のスダチさんだったわけだ。
彼女はわたしたちの大量の荷物やいかにも町に慣れてない様子から、すぐに旅の途中にここに立ち寄った子たちだと見てとった。
「わあ。…すごい荷物だね。重くないの?てか、あなた。そんな小さい身体でそんなの背負って大丈夫?」
どうやら町で生まれ育ったスダチさんからすると、そこまで重いものを持ち運ばなければならない状況に陥った経験がなかったようで。まずアスハより何より小柄なわたしを見て、重そう!痛々しい、と心配な気持ちで胸の中がいっぱいになった、らしい。
だけど山育ちのこちらとしては、一体この荷物の何にそこまではらはらするの?と心底わからなくてただきょとんとなるばかり。
何階の部屋?ああ205号室ね。そしたらそこまで一緒に持ってあげる、と親切に申し出てくれたけど。わたしは笑って頭を下げてお礼を言った。
「大丈夫です。もう階段は終わりだから…。わたし、見た目よりだいぶ力持ちなんです。あと嵩は膨らんでるけど、意外と重くないんですよ。中身は軽いものが多いので」
「そうなの?だったらまあ…。でも、早く部屋に行ってそれ降ろさないと。重さで背が伸びなくなっちゃうよ、育ち盛りなのに」
うーん…。そこは微妙。今ちょうど十六歳だけど、一、二年前からあんまり身長変わってないから。もうあと伸びても数センチもいくかな。
わたしがよほど幼く見えたのか、彼女は心配して部屋の前まで案内してくれた。それから親切に室内の設備の使い方や井戸の利用の仕方なんかもついでに教えてくれる。
その間アスハは横から話に口を挟むこともなく、ぼうっと無言のままわたしたちについて回っていた。
そしたら明日の朝、よかったら一緒に広場に行かない?仕事初めてなんだったらいろいろ教えるよ、と気さくに告げてから彼女は手を振り自室へと戻っていった。
「…もしかしてましろ、本当はその荷物めちゃくちゃ重いの?俺には助けてくれとか言えなくて実は我慢してる?」
わあ〜すごい広いねぇ、きれいだし。とテンション上がって声を弾ませ、お上りさん丸出しできょろきょろと室内を見回しながらとりあえずリビングにリュックを置くわたしに、アスハが不意にそう切り出して問いかけてきた。…心なしかその声が、普段より気持ち重々しいような。
「へ?全然そんなことないよ。何、さっきの人の言ってたこと。気にしてんの?」
アスハは自分もリュックを床に置き、荷解きをしようと蓋を開けながら俯いてぼそぼそと独白する。
「いや、…自分がこのくらいの荷物平気だから。それよりましろのは少しちっちゃいし、テントも俺が運んでるからましかなぁと勝手に判断してて…。でも、客観的に外から見たらあんなに心配するくらい可哀想に見えたのかなって。あんたって、意外と弱音とか。吐かないからさ…」
「ああ、それはね。やっぱりあの人、根っから町の人なんだと思うよ」
わたしはあっけらかんと笑って、ちょっと萎れてるアスハを元気付けようと明るい声を出してみせた。
「ぱっと見えた範囲での話だけど。割とこの近くで生まれて、そのまま家から独立してここで一人暮らししてる人みたい。だから旅とかで遠くまで徒歩で移動したこともないし、そんなに大量の荷物を運ぶことも普段まずないんじゃないかな。それでわたしの鞄を見てびっくりしちゃったらしいんだけど、でもこっちは山の子だからね」
軽く肩をすくめて彼を見上げる。
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