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「ごめんね……。お父さんが半身不随になって、実家の定食屋をお母さんと経営しなくちゃいけなくなったの……」
梅雨入りする数日前。いつもの大衆居酒屋で一緒に吞んでいた時のことだ。
茉莉がお気に入りの酒〈シークワーサー・スピリッツ〉を口にしていた時。
突然、言われた絶望の宣告。
いつも賑わっていた周りにいる客たちの陽気な雑音が、消えた。
いや。正確には、ショックが大きすぎて頭の中が真っ白になってしまったのだ。
最後に、この都内に一緒に残った戦友もとい勇逸の親友がいなくなる。止めたいけど理由が理由だから難しい。しかも、相手が泣きながらだと尚更だ。
宣告してから、三週間後。
三人目の友人は彼女を残して故郷の沖縄へ引っ越してしまった。
(私だけでも、この現状の中で頑張ってみせる!!せっかく慣れてきた職場を辞めたくないし。それに……何のために、実家から反対されてまでッ……!)
そう、決意をした。
それから初めて。この都内で心の寄り添いが、〈亡くなったに近い、無くなった状態〉で過ごすことになった二十代前半。
ここから、茉莉にとって人生がガラリと代わってしまう。
「加藤さん!先日、プリンをお買い上げになったお客様からスプーンの入れ忘れたって、クレームが来たわよ!!」
「ちょっと!手提げ袋を貰ってないのに、このレシートには袋代が入っているわよ。というか、私手提げ袋欲しいって頼んで無いけど!この店は、こうやって客からボッタくるのかい!?」
「……加藤さん、お客様からのバースデーケーキの予約の引き継ぎをちゃんとしなきゃダメじゃないッ!今回は〈紅ほっぺ〉があったから良かったものを……。あなた、ここ勤めて、四年目でしょ。こんな新人みたいなミスを……。しっかりして頂戴ッ!!」
終いには、
「加藤さんさぁー……。最近、変だよね〜。なんていうか……、波が激しいってゆうかぁ。仕事中に急に正統派ぶって作業をしてきたり、しばらくしたら、上の空になったりさ」
━━あれ、迷惑だよね……。
このトドメの一言が、僅かに残っていた彼女の抵抗を崩した瞬間である。
次の日から、存在を薄くし勤務する彼女。居場所を無くし、生きた心地がしない。
職場では、ただ、ただ、機械のように仕事をし。それ以外の時間は、過去の楽しかった日々をすがるように思い出の一部に触れる。
精神的に病み、自暴自棄も手伝ってか。生活の蓄えである貯金の数字の桁数が、時間と共に比例して消えていく。
底が見え始め、冷静さが小さく生まれた時には、時すでに遅しだった。
そんな中、ベットで横になっている最中。一通のメールに気づく。
希望が死亡した〈無〉の心で、現代の薄板型の携帯電話でお知らせの表示をタップする。
《久しぶり!元気?ごめんね。実家の沖縄定食屋のほうが、やっと落ち着いて連絡できたよ!》
死んでいた心が、息を吹き返した瞬間だった。
途端。涙腺が緩み、両目から溢れ出てくる熱い感涙。
気持ちが高まり、唇が震え、涙が滝のようにボロボロと出てくるばかりで止まらない。
視界が滲む中、震える指先で返事をする。後、すぐに相手から返信がきた。
《そっか……。辛かったね。ごめんね。ねえ、もしよかったらこっちに帰ってくる気ない?前みたいに沖縄で暮らそう!もし、茉莉が実家に帰りづらいなら、あたしの家で暮らせば良いよ!!転職も見つかる間は衣食住は、こっちでまかせて!!だから……》
━━こっちに、引っ越してきなよ!!茉莉。
この言葉に、彼女は目が醒めた。
メンタルが氷河期に落とされた地獄のような日々から、希望の光が一筋差した今。
茉莉の瞳の奥に生まれた、意思の強い一等星。
先程から流れていた、歓喜の涙はいつの間にか止まっていた。
親友からの嬉しい一言に。活力得た茉莉はベッドから起き上がり、テーブルへ向かう。
(……ありがとう。初華)
温かい気持ちのまま、彼女は退職願いを執筆した。
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