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撫子の花
白木の窓枠から降り注ぐ日差しはやや傾きかけていた。台所の中央に置かれたブナ材の2人掛けの食卓テーブル、白いホーロー鍋や2組の食器、シンクのたらいの中に水滴が落ちた。
「撫子」
目の前の女性は5年間連れ添った妻、撫子。逆光の中の俺の顔を眩しそうに見た。
「離婚してくれないか、一緒に暮らす意味が分からない」
そう告げる俺の瞳孔は息をするように開閉し、観葉植物を背にした彼女の姿がとても遠くに見えた。椅子に腰掛けた撫子の両手は食卓テーブルの下で重ねられている。俺は一枚の薄い紙とボールペン、朱肉と撫子が使う印鑑を置いた。
ジージージー
庭のクビキリギリスが春の終わりを告げている。
ジージー ジージー
松林の春蝉が初夏の訪れを連れてきた。
「わかったわ、あなたは1度言い出すと退かないから」
ガーデニングで荒れた色気の無い指先が戸惑う事無くボールペンを握った。氏名、住所「本籍は何処だったかな」車の免許証を取り出し、撫子は目を細めて本籍を書き写していた。
そしてお義父さんとお義母さんの氏名、撫子との続柄。
(お義父さんはどんな顔をするだろう)
俺と撫子を縁付かせたのは撫子の父親だった。5年前、俺は黒塗りと呼ばれる上顧客専属のドライバーで撫子の父親である佐々木電機株式会社 重役の佐々木 秀二と懇意になった。
「安倍くん、君、今度事務方に異動するんだって?」
「そんなタクシー会社の事務方なんて大した事はないですよ」
「いやいや、北陸交通の本社所長だと言うじゃないか、どうだ、うちの娘と1度会ってみないか」
「お嬢さんとですか!?」
そして俺は佐々木電機株式会社重役の次女、佐々木撫子と結婚した。
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