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「おかえりなさい」
「ただいま帰りました」
その日、撫子の顔色は明るく玄関先まで鞄を受け取りに来てくれた。最近は朝に500円玉を手渡される事も無く夕飯に麺類以外の献立が並ぶ様になった。
(ーーー最近暑かったから、夏バテでもしていたのか)
ブナ材の2人掛けの食卓テーブルには一輪の白いマーガレットの花が硝子の小瓶に咲いている。並べられる銀のカトラリーと撫子の穏やかな笑顔。
「今夜はクリームシチュー、海斗の好きな鶏のささみだよ」
「ブロッコリー、多くないか」
「安かったのよ、子どもじゃ無いんだから食べてよね」
「分かったよ」
2週間前までの江別由紀恵との逢瀬が嘘の様だ。
(ーーーなぜあんな事をしてしまったのだろう)
深夜の言葉すら交わさない男女の関係は謎めいて刺激的だった。その挙句の一線を超えた秘密の快楽は背徳感すら曖昧にし俺は若い肢体に溺れた。
(どうして、あんな事をしてしまったんだ)
一時の気の迷いは社会的信用を失うには十分過ぎた。
「美味しいね」
「うん、美味い」
実際は味などしなかった。まるで砂を噛んでいる様な絶望感、俺はこの穏やかな時間すら全て失ってしまうのか。いつの間にか撫子の顔を凝視していたのだろう彼女は首を傾げた。
「どうしたの、ぼんやりして」
「あぁ、仕事が忙しくて」
「運転、気を付けてね」
その何気ない一言で息が詰まった。
(降格された事を知っているのか?)
まるで水の中に閉じ込められた様に耳が膨張し、撫子の声が遠く近く歪んで聞こえた。手からスプーンが落ちフローリングの床で音を立て我に帰った。
「あっ、あ、ごめん!」
「どうしたの、今日はなんだかおかしいよ?」
「そう、それが」
「それが、どうしたの?」
見上げた撫子の向こうにシーリングファンが羽根を回していた。
「それが」
俺は撫子に謝罪するきっかけを逃してしまった。
「それが」
俺は撫子に対して人の道に外れた罪を幾度重ねたにも関わらずその謝罪すら出来ない不甲斐ない男だった。
「海斗、顔色が悪いよ。風邪でも引いたんじゃない?」
「そうかも少し寒いかな」
「冷房温度上げようか?」
「大丈夫、先に寝て良いかな」
「お薬は飲まなくて良いの、出そうか?」
撫子の優しさは母親そのものだった。今の俺は悪戯をして叱られたにも関わらず素直に謝る事が出来ない子ども、いや、あれも欲しいこれも欲しいとしがみ付いている餓鬼だ。
(ーーーそれならば全てを吐き出して)
いっそ全てを吐露して頭を下げ、撫子に詰られたら楽になれるのではないか。
(楽になる、俺が楽になりたいから謝罪するのか?)
ベッドに横になっていると家事を終えた撫子が腰掛け、俺を起こさない様に気遣いながら隣に身体を横たえた。肩が触れ温もりが伝わって来る。目頭が熱くなった。江別由紀恵のキャミソールワンピースの肩紐を外したあの瞬間を心底悔やんだ。
(ーーーーあ)
眠れぬ夜を過ごしている事に気付いた撫子の指先が俺の指先を握った。俺の頬に涙が伝った。
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