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海に程近い金沢市郊外専光寺町に洋風の一戸建てをあてがわれ、撫子とは5年間を共にした。子どもには恵まれなかったが穏やかな日々だったと思う。
「印鑑はここで良いのね」
「うん」
撫子は躊躇う事なく朱肉の蓋を開き印鑑を捺した。
「これで良いのかしら」
「うん」
「離婚届は明日、俺が市役所に提出しても良いかな」
「うん」
俺は提出日に令和6年6月10日とボールペンを走らせた。撫子の表情は穏やかで、まるでこの日が来る事を予見していたかの様だった。喉仏が上下した。
(俺の不倫に気が付いて、いた?)
俺の脳内では弁護士、家庭裁判所、慰謝料に財産分与の文字が渦を巻いた。喉が渇く。自分で蒔いた種とはいえ、いざ刈り取るとなると食卓テーブルの下で脚が震えた。ティーカップの紅茶にさざなみが立った。
「撫子、あの」
「慰謝料も財産分与も必要ないわ」
「ーーーえ」
撫子は大きく天井を仰いだ。
「この家の名義は私でローンも払い終えているし」
俺は俯くしかなかった。
「離婚の理由も私が至らなかった、そうじゃない?」
俺は首を横に何度も振った。
(そんな諦めたような顔をしないでくれ)
離婚の理由は俺の身勝手な衝動だ。俺と撫子の婚姻関係は協議離婚調停のテーブルに着く事もなく呆気なく終わりを告げた。
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