撫子の花

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 離婚届をファイルにしまいながら振り向くと、サンダルを突っかけた撫子は庭へと降りて行った。  撫子は植物をこよなく愛した。 「また買ったの?」 「違うわ、増えたから株分けしたのよ」  そう撫子は言い訳したが実際は違っている。 「本当かなぁ」 「本当だよ」  俺の勤務は不規則で、帰宅時間と撫子が買い出しに出掛ける時間帯が重なる事が多かった。交差点の信号待ち、ふと横を見遣ると見覚えのある軽自動車が停まっていた。 「ーーーいる、いる」  撫子が近所の花卉農園(かきのうえん)で座り込み、芋苗によく似たポトスの鉢植えを()っていた。 「ただいま」 「おかえり!」  ご機嫌で白いビニール袋を両手にぶら下げた撫子は、玄関で仁王立ちの俺に両頬をつねられて「ごめんごめん」と笑った。 「美味しい!」 「海斗が褒めるなんて珍しい!」 「焦げてない!」 「酷い!」  お嬢さま育ちの撫子の料理は手放しで美味しいと言える代物では無かったがホーロー鍋から立ち昇る湯気は冬の凍えた身体を温めてくれた。 「クソ!どうして言う事が聞けねぇんだ!」 「またそんな大声出して、今日はどうしたの?」 「聞いてくれよ!」  タクシー会社の所長とは聞こえが良いが、有象無象の個性的なタクシードライバーを(まと)めあげ、配車センターに寄せられたクレームに対処し、路上営業中のタクシー事故の現場検証に立ち会い、相手方の保険会社と遣り取りをしなければならなかった。更に腹が立つのは現場を知らない上役からの小言、頭の痛い事だらけだ。 「そんな日もあるわよ」 「クソ!クソ!クソ!」 「落ち着いて、ハーブティーでもどうぞ」 「ーーーこれ、臭いんだよな」  怒り沸騰で帰宅した俺の感情が収まるまで撫子は無言で頷いていた。 「撫子」  夜の営みも穏やかで満たされるものだった。 「どうしたの」 「今夜は大丈夫?」 「うん、来て」 ギシッ  撫子の肌は滑らかで俺の太腿に吸い付いた。軋むベッドのマットレス、俺の首に回された白く細い腕、上下に揺さぶられた豊満な胸は撫子の花の様に淡い桜色に色付いた。 ギシッ ギシッ 「もう、出そう」  締め付ける具合も俺が解き放つタイミングも合っていた。 ギシッ 「ん、ん」 「あっ」  決して身体の相性が悪かった訳では無いが子どもには恵まれなかった。当初は「孫はまだか」と急いていた両家の両親も口を(つぐみ)、俺たちは2人で歳を取ってゆくのも良いかもね、と抱き締めあっていた。 (ーーあの日までは)  庭へと続く階段を降りた撫子は園芸用ハサミを取り出し、白に黄色、赤やピンクのの前に(しゃが)み込んだ。 「ーーーなに、しているの」  撫子が緑の茎をハサミで切り落とし始めた。 「ーーーー」  離婚届にサインをし悲嘆に暮れた撫子が無作為に花茎(かけい)を切り落とし始めたのではないかと慌てた俺はハサミを握った。 「なにをしているんだ!」 「次の花が綺麗に咲くように切っているの」 「そうなのか」 「7月になればまた花が咲くの」  振り返った撫子の頬には涙が伝っていた。 ジージー ジージー  春蝉(はるぜみ)の鳴き声が松林から初夏を連れて来た。
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