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恋ぞつもりて 淵となりぬる
静まり返る中、畳の上で速水と若菜はお互いの陣に札を並べていく。
「お前はなんで夜桜に入ったの」
沈黙を破り速水は手を止めずに言葉を投げかけた。
『何故この学校に来たのか』今までその質問はなんとなく誰もが避けてきたもののはずだった。
お喋りの雅でさえ、その質問は避けていた節があったというのに。
いとも簡単にそれを破る速水に、驚きを隠せず若菜の手が止まる。
嫌な思い出だけがぐるぐると頭を巡った。
「私は…中学の時イジメられてたから」
少しして若菜が思い切って答え速水を見ると、どうにも興味がなさそうに札を並べ終えていた。
その様子に若菜は無性に腹が立つのが分かった。
好奇心でも疑問でもない。ただ無関心で不躾な質問だと思えて。
「あんまり…そういうの聞かない方がいいと思うけど」
「そうなんだ」
答える速水はあっけからんとしていて、精一杯の抗議の視線を若菜は送るが、なんとも思っていないようだった。
速水は西田が以前から置きっぱなしにしていた音楽プレイヤーを操作して二人のそばに置く。
読み手の声が収録されたCDを取り込んだのだと、西田がこの前説明していたものだ。
「経験者なんだよな。いいよ本気でやって」
シャツの腕を捲り、札の前で姿勢を正す速水。
「言われなくてもそうする」
若菜は睨みつけながら向かい合った。絶対に負けてやるものかと並べられた札に視線を落とす。
15分間お互いに何も言わずに位置の暗記を始めた。
長くも短い時間が流れていった後。
いつの間に設定したのか、速水のガラケーのアラームが重い沈黙を破った。
速水は手慣れた様子で音楽プレイヤーを操作し再生ボタンをこれ見よがしに押して、若菜だけがそれに合わせて礼をした。
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花ーー 今を春べと 咲くやこの花」
『序歌』と言われる百人一首には入っていない和歌を音楽プレイヤーが読み上げる。
この和歌の終わりを合図に試合が始まる事になっていて、若菜はもちろん速水もそのルールは把握しているようだった。
声が消えて、一息の間が空間を埋めた後。
「あさぼらけ ありーー」
音楽プレイヤーからの声が終わる前に、若菜の手が飛び出して速水の前に並んだ札を弾き飛ばす。
『よし ののさとにふれるしらゆき』と描かれた札が勢いよく畳を滑る。
速水は唖然としながら緩慢な動きで若菜の方に視線を送った。
「いや、速すぎだろ」
「本気でやっていいって言ったのそっちだから」
驚きを隠せないまま目を丸くする速水を横目に、手早く札を集めて若菜は向き直った。
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