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葬式というのはどうも昔から苦手だった。
かず子はもじもじと立ち上がり、焼香を終えるとほっと席についた。
今日は母の兄である叔父の葬儀にでていた。深い親交があった訳でもないが、重い病気に掛かってからは何度か見舞いにも行っており、全くの無関心という相手でもない。細々と涙を流し鼻をすする音がもどかしい。
「かず子、太陽はのびるんだよ。」
他の参列者が焼香を済ませていく中、かず子は数少ない叔父との会話を思い出していた。ここ最近の入院中の話ではなく、かず子が小学校高学年、二十年も前の話だ。
「綺麗な御来光はな、どう生きていたって正解だと思わせてくれる。」
叔父は登山が好きだった。なりより富士山が好きで夏になると三回は登りに行った。それの影響ではないが、かず子も二十歳の頃一度友人たちと登ったことがあった。空は雲に覆われ、太陽どころか星すら見えない旅になったのだが、若さのおかげかそれなりにはしゃいだことを覚えている。
ただ、高校を中退してフリーターになり、親とも喧嘩ばかりして殆ど家でのついでで登った登山だった。勢いの楽しさだけが思い出となり、山のことなど覚えていない。そしてかず子は未だにフリーターである。
「かず子」
小声で母に声をかけられてハッとする。「あの、のんきさんも来てるよ」母がこっそりその人を視線でさす。ひょろりと背が高い男性がゆっくりと歩いて焼香をする。振り返ると、バチとかず子と目が合うなり、口を結んでひとつ頷いた。
のんきさんは叔父の登山仲間だったらしい。
らしい、というのはのんきさんに出会ったのが叔父の入院中、しかも叔父がほとんど口もきけなくなった頃だった。
本名も初めに名乗った気もしたのだが「のんきさん」という抜けたあだ名に気を取られて忘れてしまった。母も同じらしい。
「へぇ、姪っ子がいたのかぁ、何歳?」
もう喋らない叔父のベットの横でのんきさんは腕を組んで背筋を伸ばし、はっきりと話した。
「もうアラサーです。」「アラサー!仕事何してるの?」「カフェで…バ、バイトなんですけど」自信なさげに話すかず子にのんきさんは感情の読み取れない表情で頷くと「じゃ、暇だね」と言った。
三秒後にもう話せないはずの叔父が「ぐほ」と短い咳のような音をもらした後のんきさんがはははと漫画のように笑い「叔父さん笑っちゃったね」と言ったところで、このやり取りはジョークだったのだとかず子はやっとわかった。
「元気ないね、フリーターいいじゃない、休みとって山でも登りなよ。」何か少し会話をしたあと、のんきさんが呑気に言った。
「体力ないですし、お金もないし…あ、昔富士山は登りましたけど。」思い出したように言うと、のんきさんが嬉しそうに「へぇ、富士山!」と真面目な顔で言った。
「富士山ね昔少しガイドしてたよ。富士山は良い山だよ、何せ日本の宝だからね。」
真剣にそう話すのんきさんを見ていると、なんだか不思議な気持ちになり、何も返さず一緒にひとつの空間を見ていると、のんきさんはかず子を見た。
「今年も富士山行くけど、行く?」
葬儀が全て終わり車に乗り込むと、どっと疲れがでた。とにかく親戚と会うのは気を使う、何せ高校中退の中卒、現フリーターだ。両親が今はもう何も言わないのだけが救いだった。
家に着くと母が何やら戸棚から大量の写真をもってリビングのテーブルに広げて見せた。
「かず子、これすごいでしょ」
正直すぐにでも自室に戻って寝てしまいたい気持ちを抑えてリビングに留まり写真を覗き込む。
「全部お兄さんがとったんだよ。」
「あ、」思わず声がでた。それは多分、沢山の山の山頂からとった景色だった。「すごいね、ヤバ」
「ねぇ、綺麗だよねぇ、ママはこういうの苦手だから一度も登らなかったんだけどさ…」
母は愛おしげに数ある写真を眺めている。
「一緒に一度くらい…登ればよかったねぇ」
母の口元に力が入り、かず子は何とも言えない気持ちになる。これだから人が死ぬのは嫌なのだ、祖母や祖父の時も、近親者が亡くなるとどうも親の老いや、いつかくる自分の老い、そして死について考えてしまう。
「いつかみんな死んじゃうのにね。」母がぽつりと零した言葉の返信に困りながら、かず子は必死に写真に魅入っているような素振りをした。
指で適当に重なった写真を外していくと、ひとつの写真に目がいった。
「あ、太陽?太陽が……」のびてる。ピンとが合っていないのか全体的にブレているような写真だが、地平線の向こうから小さい太陽が顔をだして、そしてその形は地平線にそり、のびている。
叔父の言葉がまた頭の中で繰り返される。
「これ?ブレてるね、どこだろうねぇ。」母がかず子の手から写真をとると裏返してみせる。
「ふ、じさん、だって。」
平仮名で走り書きのように小さく書かれた文字を母が読んだ。もう声は震えておらず、いつもの調子のようだった。
「お疲れ様です。」
「あ、かずちゃん、一昨日は葬式だったんだよね…、大丈夫?」
バイト終わり、思わず年下の先輩に声をかけられかず子は立ち止まる。「大丈夫って何が?」きょとんとしたかず子の様子に先輩は安心したように笑うと「いや葬式ってことは誰か亡くなったってことだから」と言った。
ああ、うん、と適当に返事をして歩き出すかず子の隣を先輩がついて歩く。
「かずちゃん、私再来月で辞めるんです。」
「え!」ショック!というふうにかず子は目を開けて歩いていた足をとめてみせる。「なんで!」そう言ってからゆっくりとまた歩き出す。
「就職だよぉ、不安だけどやりたかったことやれそうだし、頑張るんだぁ、でも寂しくて。」
満足そうにため息をつく先輩を横目にかず子は少し俯いた。「そうかぁ、おめでと。今度ご飯でも行こ、奢るよ。」
「えー!辞めたあとも普通に遊んでくれる?」きらきらとした表情でこちらを見る先輩の目を避けるように、かず子は目を細めてうんうん、と唸るように頷いた。
バイトの殆どの子が高校生と大学生だ。かず子のようにフリーターで頑張っているアラサーがひとりいるが、どうやら何かの資格をとるのに勉強をしているらしい、し、美人だ。
皆、何か取り柄がある。何か。
かず子は風呂場の鏡とにらめっこをする。口を閉じて入ればそう悪い顔ではない気がする、だが、にっと笑えば前歯よりも歯茎が目立つ。足は膝小僧より下が目立って短いし、下半身ばかりに筋肉がついてがっしりしている。十代までは可愛いと思っていた自分の身長も、三十代になるとただの小さなおばさんだ。
ため息混じりに風呂場からでると母が誰かと電話をしているようだった。
「うんうん、そうなんですね、あっ、え、ああ。かず子!かず!」突然呼ばれて仕方なく電話の口元を抑える母に近づく。
「のんきさんが、かずのスマホの番号教えてって言うんだけど、いい?」
正直全く予想していなかった言葉に一瞬固まる。「いい?」もう一度母の言葉が耳に入った頃、反射的に頷いてしまっていた。
確かのんきさんは四十代だが奥さんがいたはず、などと考えながら自室に戻るとLINEが来ていた。
友達追加しますか?という通知のプロフィールは「のんき」で写真は見事な富士山だった。
そしてその日からかず子はのんきさんと「友達」になった。
のんきさんとのLINEでのやり取りはなかった。ただおじさんらしいスタンプで「よろしく」とだけきていた。
「じゃあ、また近々連絡するから!」
「ありがとかずちゃーん!待ってる!」
就職するといっていた先輩の最終日が終わり、駅で別れたあとかず子はこっそりと来た道を戻りコンビニに入った。唐揚げと炭酸ジュースをかって歩きながら食べるとなんだか涙がでた。年下の先輩は就職、三十代の自分はいつまでもバイト…それにたいして仕事ができる方では無い。
「また転職しよっかな…」ぼそっと風よりも小さな声で呟いてみる。
できるだけのろのろと歩いていたつもりだが、あっという間に家に着いてしまう。手を洗い、母に短く「ご飯食べたよただいまー」と伝えると自室に籠った。
大きなため息をついてスマートフォンをいじるがやることはない。たいして仲の良い友達もいない…LINEの友人欄を指でなぞり「のんき」でとまる。
それにしても見事な富士山の写真である。かず子はメッセージ欄に「プロフィールの写真、本当にきれいですね」とうちこみ、指をとめた。もう一度すべてのメッセージを削除すると文章をつくりなおす。
「私でも富士山登れますか…?笑」
えいや!という気持ちで送信すると、ほんの十秒もかからないうちに既読がついた、途端に着信に変わる。「うわっ、あ、はい、かず子です」なんだかかっこつかない挨拶をした事に恥つつも電話相手にぺこぺこと頭を下げる。
「あ、知ってるよー。」のんきさんの間延びした返事をきいてかず子は笑う。これは彼なりのジョークだ。
「何?富士山登りたくなった?」「あ、はい、というか、なんかしたくて。」「なんかしたくなった?え、大丈夫?悪いことしてない?」「あは、してないです!あの、はい、すみません、富士山…登りたいです、また。」かず子は笑っていた。
「いいねー。」多分、のんきさんも笑っていた。
日程はすぐに決まった。八月末でかず子はバイトを辞めるよう調節し、九月三日に登る。メンバーはのんきさん、かず子、優輝くんというかず子と同じ頃の男性と、ワダちゃんとコースケさんというのんきさんの友人夫婦、さくらさんというのんきさんの山友達、総勢六名。
あっという間の一ヶ月だった。かず子は少ない貯金をはたいて山道具を集め、バイト最終日までフルタイムで働いた。何か予定ができたことはかず子にとって救いだった。それにかなり大きい予定だ。
知らない人たちと、登山、目指せのびる太陽。
「はい、やっほー」夜七時、河口湖駅についたかず子をのんきさん夫婦が車で迎えに来た。
「こんばんは、よろしくね。」思わず優しそうな奥さんにかず子はほっとする。
「すみません、突然泊まりに来てしまって…」謝りながら車に乗り込むかず子に奥さんがにこにこと笑顔を見せてくれる。「ううん、あ、かずちゃん、東京だよね、ほら星空すごいよ」
「うわぁ」かず子は走る車の中から空を眺めた「すごい、こんな、めちゃくちゃ綺麗。」
まだ少し町や街灯の明かりが邪魔する中、それよりも強く星は輝いている。
「いいねー、楽しみだね。」運転席でのんきさんが笑った。
「おはよう!!!」「うわ!!!」
朝、耳元でのんきさんに叫ばれて飛び起きる。
「もう、やめなよ、耳痛めちゃうでしょ」台所から奥さんの声がしてかず子は身体を起こした。
「あれ、私寝坊ですか?」「全然」間髪入れずにのんきさんが返す。「でも早起きはいいよぉー、さ、ラジオ体操する?」朝から強烈すぎる。かず子は適当に首をふると洗面所に向かい、顔を洗った。
なんだか、いつもより顔色がいい気がする。
奥さんお手製の朝食をのんびりと食べて、身支度をしたら車に乗り込む。富士山五合目へと向かうのだ。
住宅街をこえて、森が深くなり、ただ富士山五合目へ向かうだけの道が一本現れる。
「ついたよ、あ、じゃあ明日宜しくね」のんきさんが振り向いて奥さんにそう言うのを聞いて慌ててかず子は深々とお辞儀をした。「すみません、ありがとうございました。」「うん、楽しんでね」
のんきさんの奥さんが運転する車がゆっくりと消えていくのを見ていると「あ、いたいた」とのんきさんが嬉しそうに声を出した。
目線の先に四人が並んで手をふっている。
「ごめんねまった?これ、姪っ子…じゃないけどまぁ姪っ子ね。姪っ子のめーこ。」「え?」突然のあだ名に驚いたが、四人の目が「よろしくね、めーこちゃん」というようにこちらをみて、かず子改めめーこはぺこりと頭を下げた。
自己紹介を簡単に済ませ、のんきさん流の体操をすると、いざ登山開始だ。
「めーこちゃんって何か運動してる?」歩き始めて十分程でめーこの後ろについていた優輝が声をかけてきた。「いや全然、車もってないのでバイトの行き帰り歩くくらいで。」「そっか、まぁ俺も普段はそうだわ、趣味で山登ったり走ったりしてるけど」「走る?」「そうそう、走るの、楽しいよ」「へぇ…」思わず引いてしまった。山を走るのが好きというのはどういう感情なのだろう。「なんか苦しいことすんのが好きなのかも、いやそれっておかしい?」へらへらと笑いながら優輝の足取りは軽い。
まだ富士山ははじまったばかり、かず子はのんきさんに言われた通り呼吸を意識しながら一歩一歩確実に登っていく。
「え?一合目?」もうすぐ本日の山小屋手前あたりで聞こえてきた会話にかず子は割って入った。
「うん、そうだよぉ、去年は皆で富士山一合目から登ったりしてねぇ、楽しかったよねぇ」そう話すワダちゃんは思い出すように目を細めた。「来年はおいでよめーこちゃん!!」大量の汗を拭いながらさくらさんが二重顎のあたりをかいた。
「またやりますか?一合目から。」コースケさんがのんきさんに聞くと優輝が「やるっしょのんきさんは」とちゃかす。
「来年?来年はさ、ゼロふじしようよ。」「ゼロふじ?」かず子だけがその意味を分かっていないようで首を傾げる。その様子を見ていた優輝が「田子の浦っていう静岡にある海…つまり海抜ゼロメートルからスタートして登るんだよ、富士山、変態がやるコース」半笑いで言うとのんきさんは真面目に優輝を見た。「まぁね、変態もいるけど富士信仰っていう富士山を神様として信仰してる人達がやるんだよ。いいよ、全身で富士山に挑むの。やろうか、来年さ。」その言葉にそれぞれが「えー」だとか「いいねー」だとか返事をする。
その後すぐについた山小屋ではその話で持ち切りだった。かず子はというと山小屋から見える星空の美しさに感動し、周りの心地よい喧騒に寄りかかっていた。深夜二時すぎ、かなり冷たい空気を顔で感じながら皆で歩き出す。
「大丈夫?」「うん」前を歩くワダちゃんとコースケさんが岩場で腕をとって助け合う。山小屋で聞いた話だが、二人は事実婚という形をとった夫婦らしい。「めーこちゃんも」コースケさんが振り返ってかず子に手を貸してくれる。「ありがとう」その手を強く掴んでかず子は大きめの岩場を進んだ。「ああ、そろそろ山頂だ、星空すげーな」優輝が独り言のようにいう。「優輝くん、何度も見てるんじゃないの?」かず子の問いに優輝は口を結んだまま笑顔をつくると強く頷いた。「何度見てもいいんだよ」優輝は元々教師だったのだが、今は山のガイドのバイトをしながら趣味を楽しんでいるという。
「はい、頑張れ」のんきさんが一番後ろのかず子に声をかける。「大丈夫です!」「いいねー!」そんなやり取りさえ「登山」なんだと感じる。
「しんどー!」さくらさんが叫び「気のせいだよー!」とのんきさんが応える。皆が肩で息をしながら笑う。
「ほら山頂、とまんないよ、ついてきて」かず子は山頂の狛犬に圧倒されつつおいていかれまいとのんきさんの声に従う。ふいにのんきさんの足がとまり「ここで待とうか。」と言った。
ここで待つんだ。かず子は息を飲んだ。薄らと明るくなってきた空は地平線で二つに割れている。夜と朝が同時に存在し眼下には途方もない雲海が静かにただそこにいて、ここが富士山の上なんだと証明していた。
「ほら、姪っ子」
叔父の、声かと思った。かず子は地平線に目をこらす。小さな、かなり小さな光が顔を出していた。だがそれはかなり小さい割に星より熱く、サングラス越しでも痛いほど強かった。
「太陽が、のびてる」歩くような速さで産まれたての太陽は大きくなり地平線にそって、ゆっくりとのびた。それは海で見るあの静かな夕日とも朝日とも違い、力強く、絶対的で、まるで覇者のようだった。
「適わないよねぇ。」のんきが背筋をのばし、腕を組んで太陽をみている。「え?」かず子もまっすぐ太陽をみたまま返した。
「敵わないよ、俺ら人間なんてすぐいなくなっちゃうんだから。」
「ほんとだ…。」かず子は泣きたいような気持ちになって喉がぐっとあつくなった。
「きれいだねぇ、私さぁ、いつか息子と登るんだぁ、それが夢なんだぁ。」隣でさくらさんが優しい声でそういった。
皆がそれぞれ御来光を見ていた。御来光もまた皆を見ていた。
「下山したらさ、また適当にやれよ、めーこ」のんきさんがかず子の肩を叩く。「適当にやります」「そーそー」優輝が笑顔で頷く。
「適当に生きて、来年、わたしもゼロふじ、やっていいですか?」
「いいねー、いいよいいよ、じゃ、今から計画たてようよ」のんきさんが真面目に言うとコースケさんが手を振っていう「早いですよ、来年です、来年」
「めーこちゃんやるならわたしも頑張るかなぁ!」さくらさんが両手を上げてバンザイをする。「じゃ、もう全員参加っすね。」優輝の言葉にワダちゃんが「えー!」と大袈裟に叫ぶ。
皆の喧騒に紛れてかず子の隣についたのんきさんが歯を見せて笑った。
「どーよ、姪っ子、楽しかったろ。」
めーこは顔いっぱいの笑顔で返事をした。
終
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