沼るホストと そのホストに沼される側の男

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沼るホストと そのホストに沼される側の男

プロローグ  無関心ってわけでは、なかったと思う。  でも、自分達の思い通りにコマの僕が、動かないから。   優しくされなかっただけ…  頑張れよは、たくさん言われた。   けど、本当に欲しかった優しい言葉は、記憶の限り掛けてもらったことはない。  こんな優しさに飢えた僕なんかを、抱き留めてくれる人なんって、現れるののかなぁ…   いつも、そんな事を思い浮かべては、虚しくなる。  ロッカールームから店内に繋がる階段を上がり。  通路を歩く。  開け放つ扉から目に飛び込んでくる色付く光は、本心を隠して笑顔を振り向く僕にとっては、ピッタリだった。  でも、この仕事に付いた理由は、ショーウィンドウで目に留まった香水が、欲しくなったから。     こんな僕にでも、買えるかなって…  思っただけなんだ。    がっかりした?  でも、そんなもんだよ。  人が、何かをする理由なんって…   0.  今日の洋服は、少しカジュアル目に。  アクセサリー系は、ちょっとハードに…  香水は…   お気に入りの香りではないけど、妥協して買った香水を付ける。  本当は、喉から手が出る程に欲しかったモノなのに買えなかった。   同じ香りを探してはいるけど、見付からない。        どこに存在しているのか…  休みの度にネットで探し回るけど…  正規品は、見付からない。  さてと…  気を取り直して、ロッカールームの扉を、閉め部屋を後にする。  階段を一歩ずつ上がりながら。  静かに、息を整え前を向く。  優雅に優しく。堂々と立ち振る舞うと、頭を切り替える。     それが、僕の仕事だから…     他の誰よりも、甘い言葉を掛けて心を酔わせてあげよう。  そうする事で自分も、本当の自分を忘れられるし。  見たくもない現実に視線を、逸らせるる事ができるから。  そのためには、決して自分は酔わないし。  些細な事で、惑わされる訳にはいかない。   酔いしれるのは、口先だけと心に留め置く。     その日も、その考えは変わらなくて…  まさか、自分が誰かに惑わされて、酔わされるなんって、思いにも寄らなかった。  「紫藤! 休憩中悪いな!」  「?…」   僕は、スマホから顔を上げた。  スマホの画面で届いたメッセージを読んでいたところだった。   「何、辛気くせぇー顔してんだ?」  ズイッと除き見られた画面は、カノジョからのメッセージで…   「何? またホスト辞めてって?」  「…………」  文句とまでは、いかないものの。   何って言うか、感情任せの言葉が散りばめられていた。   「オレが、現役でまだお前ぐらい若い頃の元カノも、文句タラタラでよ。ホストか自分か、選ばされたなぁ…」  「あははは…」  オーナーは、ヘビースモーカーとは言わないが、それなりにタバコを吸う。   それに混じってエスニック調香水が、仄かに香る。  「そこで、失笑すんな!」    「スミマセン。でも、オーナーも、似たような事あったんですね…」  「まぁなぁ…」  オーナーは、スッと休憩スペースのソファーの背もたれに腰を掛けた。   「で、別れんの?」  「まだ…なんとも…」   大体。本当に好きで付き合っているのか、微妙だったし。   向こうは、金があって…  それなりに有名なカレシが、良かった。   でも、女に媚ふる僕には嫌気がさしているようで…  知り合いの紹介だけど、特別に好きって訳じゃない。   こう言ったら殴りるかもしれないけど、ホント何となく付き合ってた。   カノジョは、僕に依存するみたいにワガママで自分勝手。  僕に褒めて欲しいのか、いつも頭を撫でて欲しそうに擦り寄ってくる。  愛らしく。   素直に想いだけを、求めてきてくれるけれど、僕を信じていないから。  疑うのかな…  それとも、信じられるから。  その甘え方が、狂喜じみて見えるのか…  何にしても、面倒くさくなって別れを意識し始めた僕は、返信を返さなくなっていた。   僕のしている事は、最低だ。  自分から別れを切り出す勇気もなければ、面と向かって突き放す事も出来ない。  深い程、自業自得な溜息を吐き出す。   「アンニュイか?」苦笑しながらオーナーは、火を着けたタバコを咥えて、ニッと歪ませた口元から煙を吐き出す。  「お前さぁ…恋人と、あんまり長続きしないけど……バイか何かな訳? いや…別に人のセクシャリティーは、自由だし。他人のそう言うのに踏み込む気はねぇけど、女と付き合っても、しっくりこないとかってなら。一旦視野かえたら?」  「…男と付き合えって?」  「相変わらず。お前は、極端なヤツだなぁ…もしもの話な?」   「はぁ…男抱けって、言われてるのかと…」     「…お前の場合は、どっちかって言うと……限りなく抱かれる側だろ?」  「はぁ??」  何っう品定めしてくんだよ!  「いや。ワリーワリー。怒んなって! 冗談。冗談!」  目眩してきた…  オーナーに関する噂でゲイなんかじゃないかと囁かれているが、今のところ僕には、確かめる勇気はない。  「大丈夫か?」  「まぁ…」  オーナーとの話は、さて置き簡単な話しだ。  愛されている扱いを、受けてこなかったから。    愛し方が、分からない。   愛とか想いを、受け止められない。  何って、真面目くさって言えるわけがない。  「あっ…そうだ。用事があったんだ」   吐き出したタバコの煙を、部屋に漂わせオーナーは、上機嫌でニヤついた。   「お前の客に馬宮様って居るだろ?」  30代後半とは、思えない程に若々しくいられるのは自身が、経営するエステサロンの影響だろうか?   「偶然さぁ…今日、街中で見掛けたんだよ。そしたらその内、伺いますだとよ…」  「そうですか…」  「で、その時。知り合いのヤローを連れてきていいかって…」  別にお客が、女だけとは言っていないから。  極稀に、本当にたまに連れ立って来ることがある。   「分かりました」  大方、面白半分で連れくる感じなんだろう。  そうなると連れは、いやいや付き合わされてかなぁ?  「まぁ…お前の所に連絡は、来るだろ? オレも、その時は顔た方がいいし…」  分かった事は、今直ぐにって話じゃないらしいってだけだ。  「じゃ…そん時は、よろしくな!」  「はい」  何事もなかったように立ち去っていくオーナーが、休憩室を出たのを見計らい。   僕はソファーの背もたれと肘掛けに倒れ込むようにして目を瞑った。   この頃、疲れ方が尋常じゃない時がある。   体調不良って程まではいかないけど、こう言う仕事が、合わないのかも知れない。  オマケに仕事外では、カノジョから愛してくれ。愛して欲しいとせがまれる…  愛する。  愛し方を知らない僕が、カノジョを、どうやって?  元々、枯渇してる愛情を僕は、再現できるのか?  って、愛情は再現するものなのか?  愛された事もないのに…  キーンとした耳鳴りみたいな感情を、押し殺して前を向く事しかできないのが、物悲しい。          1.    紹介されたけど、聞き流してしまった男の名前。  なんだったかなぁ…  コシバ様?   コシ…えっと…  「香…柴様?」  「はい?」  何も用がないのに何を、話し掛けてんだ?  「いえ…馬宮様とは、仕事上の付き合いが長いとか…」  「まぁ…そんなところですね。彼女が、目を掛けている後輩の子が、新店舗を任されるらしくて…店舗の下見に運転手で…あっ、でもここに来るのに車は、使ってませんよ」  にっこりと微笑む姿には、全然嫌味がなく寧ろ。好感度が高い。  店に来てる別のテーブルに座る客の女のコ達も、チラ見するぐらいだから。  普通にカッコ良いと言える。  声も低くて落ち着いていて、清潔感溢れるサラサラな髪に整いまくった顔は、流石に僕も、舌を巻いた。  比べるなら現役時代のオーナーと良い勝負だ。  オーナーと言えば、昨日はあれから変に考えて大変だった。  オーナーの癖は、置いといて…  バイとかゲイとか…  別に偏見はないけど、自分に降り掛かってくるとは思ってもなくて…  『お前さぁ…恋人と、あんまり長続きしないけど……バイか何かな訳?』が、頭から離れない。  自分がとか、そう思ったことは、一度もない。  だから動揺しただけと、思いたいのに…  どう言う訳か、この香柴と名乗る男に動揺している。   何って言うか、たまに肩や腕に触れそうになるのを意識したりして、自分の肘や腕をどう動かしていいのか、分からなくなり。指先までもが、チリリと痺れそうになる始末で…  全く昨日。  オーナーが、変な事を言い出すから…  ただの客の男相手に意識するのだろか?  目が合う度に意識とは、関係なく僕の目が、その姿を焼き付けそうになっていて…  一言、二言、簡単な話をしただけで意識してる事が、分かった…   絶対に、こっちに向けて手をヒラヒラして合図をしてくるオーナーの責任だ。  馬宮さんから紹介されたのは、香柴と言う苗字だけ。  「ニレくんは、この仕事長いの?」  「まぁ…数年程度です。ここだけの話で言えば、入ってくるヤツも多いですけど、それに付随して辞めてくヤツも多いので…僕なんかは、もってる方ですね」  「へぇ~じゃ…ニレくんは、頑張り屋なんだ。こう言う仕事ってやっぱり情報として、頭にニュースなんかを入れていたりするの?」  「そうですね。そう言うのが、話題に乗る時もありますから。それなりにあるので、仕事前や空き時間にスマホで、見たりはしますよ」  「そうなんだ。凄いね…」  感心した風に微笑まれても…  敢えて間を置いて微笑んでくるその姿が、チラホラと視界に入ってくる。  ワザと視界に入ろうとしてきてる訳じゃないよな?  普段から見られる事には、慣れているけどあからさまでは、仕事の集中力が半減する。  落ち着かないような…  一部の感情が、掻き乱されそうになる。  理性とでも言うのか、感覚としては、分かっている。  でも、こんなホワホワな感情を仕事中に感じるなんって、初めてだ。  この痺れる指先を、あのグラスを持つ男の指先を絡み付けられたら…  この焼き付く目で、思う存分に間近で見つめ合えたら…  きっと、理性なんって一瞬で振り切れてしまって、本能で相手を求めてしまう。  そこには恥じらいも、論理的な思考は存在していない。  全て、欠落するだろう。  あの長い指で、触れて欲しい。  そんな思いに、心が埋め尽くされていく。  いったい。どうしたんだろう。  昨日同様に、疲れが取れないのか?…  疲れ切っていて、上手く感情を制御出来ないでいるとか?  フーッと思わず溜息が、出てしまった。  仕事中に…  しかも、お客様の前で溜め息とか…  嫌気がする。  余裕がなくなってる?  また溜め息が出掛けそうになるのを、誤魔化すように僕の前に置かれたグラスのお酒に口を付ける。  「アラ? 珍しい。そんなに飲んでくれるなって! いつもは、一口とかそんな感じなのに」  アルコールは、飲めなくない。  そこまで強くもないから。自制してるに過ぎない。  「こう言う職種の人達は、皆お酒が強いのかと…」  「中には居ますよ。ザルとかワクって顔にも出ない人」  「分かった。若い頃のオーナーね!」  「はい」  「オーナーさんって、さっき顔を出した?」  「そうです」   「風格って言うか、カッコ良い人だね」  「そうよぉ~オーナーは、アレでも、元ここのNo.1だった事もあるしね」  「へぇ~っ…それは、凄い人だね」  横目でチラッとオーナーを眺める香柴さんは、柔らかい笑みを浮かべて見せる。  こう言う顔もするんだ。  それなら。こっち向いて、同じ様に笑ってくれないかなぁ…  そんな言葉が、思い浮かんだ。   今は、僕の方が笑顔を絶やしちゃいけない側だった。  自分で自分を、叱責するみたいに思い抱きながら。自然と客達の前で、この場に溶け込むように甘い表情を振り撒い魅了する。  なのに僕の気持ちは、醜く歪んでいる。  ポーカーフェイスって程でもなく。  子供の頃から容姿だけで、感情が付いていかないだけだから。冷たそうだとか、時折向けられる微笑みが、癖に突き刺さるとか、単純にそれらが、妙に受けたらしい。  僕としては、愛想を振り向くのが面倒臭いだけで、売上が伸びるならと、偽った姿のままでも構わない気がして訂正する気もなく。クールだとか物静かそうな眼差しにゾクゾクするとか、そのまま来てしまったに過ぎない。  で、いつの間にかNo.1とか、それに近い地位まで上り詰める事態に発展してしまった。  こんな所、兼ねが貯まったら。  ショーウィンドウで見掛けて心奪われた香水が、買えればいいんだ。  数ヶ月で辞めてやる!……のはずが、ズルズルと引き延ばされて数年。  ここまで来てしまった。  上に登り詰めれば、その分押し寄せる圧縮した意地やプライドと、その駆け引き足の引き合い蹴落とし…  己が商品としての価値が、金や地位に比例しているうちは、なんでもありだ。  人気が、保てられる内はまだ僕にも価値はある。  僕だって、物静かに見えるだけで…  それなりに画策したりはするよ。  地位や名誉は、それなりに維持したいし。  常に皆から求められる商品として、振舞っているつもりだから。  それはホストだけじゃない。どこに居たって誰だって起こりうる事。似たようなものでしょ?    まぁ…それが、皆の言う普通と少しズレているだけ…  それに…いつまでも、今の自分(地位)が、続くとは思えない。   簡単に実力があるヤツなんって、言うのは難しいけど、そう言う人達は、着実に経験や実力を積んていけるから。  パッと出てパッとのさばっていけるほど、甘くもない。  大抵は、長くは続かない。  続いていけるヤツらが、のさばる為にもがくわけだ。  この頃、強く思う。  早く抜け出したい。  でも、僕にはコレしかなくて…  無理して地位にしがみついて居続けないと僕は、僕でなくなってしまう。   でも、それだと僕は一生この世界から抜け出せないような気さえする。   今日は、馬宮さんは別として、少し前まで所謂。太客のお金持ち(母親と同年代)からのご指名が、急に入ったとボーイから耳打ちされた。  その人には、面識はない。   まぁ…羽振りが良さそうだから席に付けと言うことらしい。  後、粗相の無いようにと言う理由だろうか?  ケバケバしくそれでいて一応上品で、金使いが荒く。高そうな酒やらを、ご機嫌に入れてくれる。  向こうも、それは承知の上で、お金を出してくれている。  遊びだと割り切っている分、こう言う客の方が場を分かっているし。  息抜きにふらりと立ち寄ったりする。  たまにホスト狂いな客と思われる人を見掛けるが、大抵は堕落して破滅していく。  そして、飲み込まれないように正気を保つため笑顔を取り繕う。  「ニレくん! こっち‼」   甲高くもない。少し甘い声の主に急かされるように席に着いた。  猫撫で声で甘えてくるまた別の太客の女性それが馬宮様。  笑い掛けながら。フト真横のソファーに半笑った顔のラフな格好した少した年上の男が、座っている事に気が付いた。  あぁ…この人が、馬宮様が言っていた連れてくる人かな?  たまに癖で、ジーッと見詰めてしまう事があり慌てて詫びるように、申し訳ないと詫た。   「あっ、いえ…俺も、ボッーとしてて…」   なんか…場違い感が半端ねぇわ。   「初めてですか?」  まぁ…基本的に男が、ホストクラブには行かねぇーわな…  「私のお供よ! 香柴くんに任せた案件が、上手くいったから。奢りよぉ~」  「いえ…そんな事は、馬宮さんの信頼あっての事ですし。俺は、ただ仲介したに過ぎません…」  太客の馬宮さんは、エステサロンや自身のブランドを立ち上げてファッションやアクセサリーと手広く仕事を手掛けていると少し前に話してくれた。   馬宮さんから。香柴さんと呼ばれたこの男は、何をしている人なんだろう?   一目見た感想で言えば、ラフな格好で清潔感があって、カッコいい。  あのカーディガンだって○○☓とか言う所の新作じゃなかったか?  よく見ると…   靴も時計も値がはるブランド系のものじゃ…  ひょっとして…着てるのも、ブランドモノじゃ…  えっ…何コイツ?   その辺のホストよりも、金持ってんじゃねぇ?   現実では、愛想を振り撒き。     その内側では、動揺しまくってるけど、それをひた隠しつつ男に微笑み掛ける。  つまり。馬宮さんのの周りには、こう言う金持ち系で容姿の良い人間が、うようよ居るのか?   それもそうか、馬宮さんはやり手だって聞くし。   こんな場所に金を落としても、余裕で金が、余ってるって感じの客だとは思っていたけど…   その連れも同じ…   「あるんだなぁ…」  「ある?」   男に変な顔をされた。  一定数存在してる。真面目に働いて財産築くヤツら。  僕達だって、真面目に働いてるよ。    それでも、成功してる感が、眩しいと言うか、こう言う僕みたいな人間とは、比べちゃいけない気がして…  劣等感を溜め込んだ現実を、突き付けられているみたいだった。  それにいつまでも、こうしていらるわけじゃない。  今度は、小さく気付かれないぐらいの溜め息を吐いた。   2.  男に対して花みたいだって表現は、おかしいか?  所作や立ち振舞に、細やかな気遣い。   均整のとれた身体に、しなやかに伸びた背筋に見惚れるのは、こう言う空間だからだろうか?  おまけに、女受けしそうな顔だし…  絶対にモテるだろ? 女の方がほっとく訳がない。  「ニレくん。カッコいいでしょ?」   と、わざわざ訪ねてくるぐらいには、そのカッコ良さは、伝わってきている。  「そちらの方も、十分素敵な方だと思いますよ」   ずば抜けた顔面偏差値高の人間に言われても、嫌味にしか聞こえねぇ~  ってか、早く帰りてぇ…  元々、宅飲みが基本だし。   誰かと飲むとか飲まされるのも、好きじゃない。  「退屈ですか?」   その声にハッと、顔をあげる。  そこに居たのは、ニレと呼ばれたコの姿だけ。   「あれ? 馬宮さんは?」  「仕事電話が…とかで、席を外されています。もう少しすると、お戻りになられるかと…」  「そうですか…」   注がれたまま手付かずだったグラスを手に取り。一気に飲み干す。   「飲めたんですか?…」   「飲めますよ。それなりに…まぁ強いぐらいに。だから連れて来られたようなものだし」   「そうなんですね。もし飲めないのならソフトドリンクに、お替えしようかと…」    「大丈夫。それにこんな高そうなな酒自分じゃ飲みませんしね」  そんな風に俺が、言うとニレは、下を向き吹き出したように一瞬笑った。   「そうなんですか?…」   こんな良いとこ取りした人間でも、普通に笑うんだ。   「スミマセン。ツボりました…」   えらく笑いの沸点低いなぁ~   親しみやすい。   そんな印象が込み上げてくる。  「あの…」   「なんでしょうか?」  「ちなみに…この酒の値段どのぐらいなんです?」   目を真ん丸くしたニレは、耐え切れなかったのか…   盛大に吹き出しながら笑った。   一瞬だったのだろうけど、長い沈黙が俺とニレの周りを取り巻いていた。   「あの…ニレさんが、笑ってる…」   「なんか新鮮じゃねぇ?」    「確かに…」    「いや…でも、イメージが…」    「あぁ~それな…」  そんな声が、至る所からヒソヒソと聞こえてくる。  「ってか、僕にそんなこと聞きます?」  「…気になる。ほら酒に色が付くと高いとか…」   「そうですね。分かりやすく言うと……上の中…ぐらいですかね…」  と、耳元近くで囁かれた。   慌てて振り向くと、さすがの俺でもドッキとする程の微笑を浮かべている。   そんな隙のなさそうなニレの髪にヒラヒラとした紙切れが、くっついていた。  「何か…髪に付いているけど?」   ニレは、慌てたように髪を触るが取れない様子だった。   「取ろうか?」   「えっ…」   猫っ毛かってぐらいに柔らかい髪質に、最初は驚いた。   しかも、シャンプーか香水かの香りが、微かに漂ってくる。    この顔面で美笑されて、こんな香りで迫られたら。   「堕ちるな…」   「あの…まだ取れませんか?」  「取れたよ。でも…これ何?」  するとニレは、顔を見えないように伏し目がちにしながら質問に答えた。   「今日…誕生日だった後輩が居て…お客様達からのお祝いのクラッカー…だと思います…」  「お祝いとかって、やっぱり凄いの?」  「…まぁ…それなりに…」   顔が少し赤い。  大雑把にボトル空けてとかいくらとか?  この眼の前に置かれたまま…  手を付けていいのか、微妙に分からない高そうなフルーツが盛られた高そうな見た目の器うつわとか?  コールと言うのか、高い酒が入った事を触れ回るパフォーマンスが、耳にやたら響く。  「ちなみにアレって、ボトルって言うか…高いやつ入れたら。してくれんの?」  「えっ…まぁ…そう…ですね」   「そう…」   なんか微妙に焦ってる顔してる。   「男の俺でも、入れたらコールしてくれるの?」      3.  何を言っているこの男は?  テーブルに冷やされた状態で置かれたボトルを手に持ち。  平然とした顔で、僕を見詰める目は、真剣でもあるけど…   目を合わせて居られないぐらいに、鋭い視線を向けられる。  「冗談だよ。俺は連れてこられただけだから。面子は潰さないよ」  やっぱり。この男…   馬宮さんよりも、金持ってる。    サラッと、これよりも上がある事を知ってる。   「あははは…」笑えねぇ…  男の人って、けっこう酒は、好きで飲むものだとか、飲めればいいとか、高いも安いも同じだって、言う人のが多少居るから。金持ちの基準には当てはまらない…って思ってたけど…  この男が、付けてる香水って…   ○○○ってブランドが、期間限定で予約販売したやつだ。    さっき僕の髪に絡み付いていた紙切れを、取ってもらった時に香に気づいたけど…  僕も、欲しくて色々と掛け合ってみたけど…即ソールドアウトした香りだった。  どこかで売ってねぇーかと…  探してたら2倍以上の値段で、高額販売してたやつ…   買えなくはない。   でも、そんなところで買うのは…   「…プライドが…」   「プライド?」   ヤバ。口に出てた…   「いや…酒を飲んだ後って、塩辛ものとか油っぽいものを、食べたくなるなぁ…って?」  何で、疑問形に返した?   「プラドポテトの話? それだと俺にとっては、それはツマミだな…〆は、ラーメンでも良いけど…」   「ラーメン?」   「そっ! 駅前の店。知ってる?」   噂では、聞いた…   基本、インドアだから外でご飯を食べるとか…   アフター以外は、ないかなぁ…   ましてやラーメン屋と居酒屋とか、一人で行ったこともないとは言えない。  「…その上にある居酒屋もいいよ。朝方3時頃までやってるから。たまに夜中行って呑んで、〆にラーメン食うのが、最高だったりする」  「そうなんだ…」   たまに僕の知らない話をされたりして返答に困っている風に、詳しく知りたいなぁ…って興味があるように振る舞う。    それは日常でも、癖みたいにもなっていたりする。  間違っても、そうなんだなっては、言わないのになんだろう。   そう言わせてしまうのは…  「香柴さんの家は、近くなの?」  「まぁ…そんな所」   もう少し話していたい。   「教えては、くれないんだ?」    知りたいなぁ…何でも…   「知ってどうすんの?」      あれ?  「……そうだよね…」   当たり前のこと言われて、マジでガッカリする僕が居た。  買えなかったブランドの香水に嫉妬してんのかなぁ?   特別キラキラしている訳じゃない。   身に付けている小物以外は、ブランド名モノって言っても地味だし。    顔だって、この業界で言えばフツメン。でも、一般的に言えば…けっこうイケメンで、媚びたふうな仕草もない。   極稀にこう言う風に常連客で太客が、人を連れてくる時がたまにある。   で、その連れ(太客)が、他の話しで盛り上がっている間の隙を付くように、普段のあの人は、どんな感じだとか…    色々と、根掘り葉掘り聞いてくるヤツが居る中で…   この人は、そう言う事をしない。   僕や馬宮さんの話を、ちゃんと聞いているようにも思えた。   自然に気を使える人なのかもしれない。  「馬宮さん。流石に遅いなぁ…仕事で、何かあったか? 俺…少し見てきますね」   「あっ…」    その人は、腕時計で時間を気にしながら愛想笑いをしスッと席を立った。    ってか、僕に愛想笑いって…   極稀に男性客が、来店することはある。大抵、そう言う人は、店の空気にあてられたのか、大人しくなったり。場違いな空間にキョドったりするはずなのにに…   最初こそ戸惑っていだけで…   「あら? ニレくん。香柴さんは?」    「え…馬宮様の様子を見てくるって…」  「来たわよ。さっき電話で話てた時に。もう直ぐ出るから。戻っててって言ったんだけど…戻ってない?」   「スミマセン。ニレさん…」  「何?」   「ちょっと…」   ボーイに耳打ちされた言葉に僕は、本音の声が、漏れてしまった。  「帰った?」   「ハイ。お会計は自分が、済ませますからって…おそらく。馬宮様も、店を出るところだからと、おっしゃって…」  「やられた…アイツってば、そう言うヤツなのよ! 私が、連れてきたんだから。私に、奢らせなさいっての!!」  もう…戻ってこない。   名前らしい名前は、苗字だけしか知らないし。自分からも、聞けてもいない。   僕って、そんな通り過ぎられるようなキャラ?   あくまで…   あっちは、客で…  こっちは、商品みたいなものだし…   えっ…と…   何も、言わずに退席とか、帰るとか、会計は済ませたとか、    一言ぐらい声掛けてくれても、よくないか?   スルーされたみたいな?   「なんか、ゴメンナサイ。今度お詫びするから!」   「…ハイ…」     ヤベー素直に聞けない。   「あの…香柴さんとおっしゃいましたか? あの人は、どう言う方なんですか?」   本来は、聞くべきじゃない。   「う~~ん。なんって言うか、金持ちで資産家? しかも色々な所に顔が利いて太いパイプも持ってる。事ぐらいかなぁ…私が、言えるのは…」  そう言う話じゃなくて…   僕が聞きたかったのは、  「ニレくん?」  何者かじゃなくて…  「あの。スミマセン。僕…ちょっと出ます!」   「あら。走って行っちゃった感じ?」  「…ニレさんが、慌てるとか珍しいですね…」  「さっきも、吹き出して笑ってたし」   「え~っ、聞きたかった」  「楽しそうでしたよ」  「もしかして、化学変化でも起こしちゃった?」   「化学変化って…」   「そう言うもんでしょ? 普段だったら。出会いそうもないヤツら同士が、出会って起こる相乗効果的な?」   「はぁ…そう言うもんなんでかすね…」  出入り口の扉を押し開けて、通路を走り抜ける。  階段を、駆け下りる。   今ならまだ追い付けるかも知れない。       そんな淡い期待。  怪しげなネオンの光にパッと視界が、ひらける。  途端に顔めがけてポツリと水滴が落ちてきた。   「雨…」    路面は、濡れ始めたばかりなのか湿った感じで…   モワッとした空気が、土気と水分を含んだような匂いを、漂わせ始めている。   サーッと風に流れる雨粒が、霧状になってまた顔を濡らす。  こんなぐらいの雨で、家が近くなら走って行ってしまったかもしれない。   珍しく油断してた。  普段なら気なんって、抜くこともないし。気を取られることもない。  それだけ仕事を、集中しているからだ。  また席に戻ってくるだろうって…   そう言えば、下の名前聞くの忘れてた。   本人からも、言われたはずだけど、何も覚えてない。   胸がざわついた。  もう少し。    いや…  あぁ…やって、話をしていたかった。    向こうは客だけど、気乗りしない場所に連れて来られた人。    ここの店には、もう二度と来ることはない。   最悪。馬宮さんに訪ねれば、本名ぐらいは教えてくれるだろうか?   でも、そんなんじゃなくて…   僕が、知りたいのは…   …知りたいものって、なんだ?  何を、知る必要がある?  あの人の何を?   ってか、なんか考えていたら色々と腹が、立ってきた。  「まったく。急に連れて来られた店で、気前良くおごんなよ‼」  どっと、疲れた。  一息吐こうとするところで僕の目が、人影を捉える。   4.  気まぐれみたいに映ったよなぁ…と、自己嫌悪してると…   先程まで、間近で聞いていた声がした。    「まったく。急に連れて来られた店で、気前良くおごんなよ‼」  あぁ…やっぱり。   でも、不思議と嫌な印象はなかった。  だから皆からニレと呼ばれていたカレが、したように吹き出して笑った。  「え?……」   真顔で、目を見開いているなんって店では、見られない顔なんじゃないかと部外者の俺が、思うぐらいの間の抜けた表情にまた笑いが、込み上げてくる。  「あの…えっと…何笑ってるんですか?」  歯切れの悪い口調は、さっきまでとは別人で、年相応と言うよりも、幼くてその存在は、とても身近に感じられた。     フト顔を上げると、今まで背にしていたギラつく看板に目が止まってしまった。   怪しく微笑む表情は、まるで誰とも構わず心の内を見透かしているようで…   NIREと書かれた名と、隣に居る人物を交互に見渡し目が合うとニレは、気取った風もなく。ごく自然に微笑み美しく立ち迫ってくるようだった。  俺は、ニレの姿にゾクッと息を飲み込んだ。  「No.1…だったんだ…」   雨で毛先が濡れた髪を掻き分けてニレは、顔を向けてくる。  「馬宮さんから。…最初にそう紹介されたと思うけど?」  「…だっけ?」   薄く艶のある唇でニッと笑い掛けられ再びゾクとする色気染みた感覚が、俺に襲いかかる。  さっきから度々感じる。この熱く喉の奥に突っかえる苦々しい気持ちは、少し逸らそう。  「帰ろうかって、思ったら。雨降ってんの…」  「タクシー…呼ぶ?」   「いいよ。直ぐ近くだし」   「小雨でも、濡れるでしょ?」  季節は、初夏の手前。   寒いと言えば、肌寒く。   暑がりな俺にとっては、丁度良く。    「平気だよ…」     その人は、気取る訳でもなく。ただ普通に答えた。   逆にそれが、カッコいいとさえ思ってしまう。  「じゃ…俺行くから」   ヒラヒラと手を後ろに振り返す。  そんな姿もまた…   目が離せなくなる。  何って言ったら伝わるのか、何って自分に問えば正解なのか…   僕は、この人に何を求めようとしているのか…   「あのっ!」   次の瞬間に僕は、走り出していて目の前をゆっくりと歩き去るその人の腕を、掴んでしまっていた。  ビックリして僕を静かに冷静に見下してくる姿も、またたまらない。   「知りたい…」  何考えてんだ?  相手…男だし。   何ならカノジョ…居るし…   何か、オーナーに唆された感が、若干あるような気もするけど。  「アナタの事が、知りたい」   人間らしいって言うよりは、欲とか感情丸出しだけど、僕にもこんな不可解な感情が、あったんだ…   顔が熱い。  「…じゃ…ダメな誘い方ですかね?」  この人を掴んだ手が、動揺しているみたいに震えが止まらない。  こんな乱される感情は、どうしたら静まる?  「俺が、指名した訳でもないのにアフター?」  「あっ…いえ…」   「普通は、こっちが誘うんだっけ?」  ヤバい。困ってる。   「でも…男が、ホストを誘うのも、変か?」   確かに…冷静になればなるほど、居た堪れなくなる。  ってか、僕…   本業ホストなのに、何この誘い方…    かなり雑じゃねぇ?  もっとこう、いつもみたいにカッコよくは…   現実って、上手くいかないものなんだなぁ~  もっとこう。スマートに相手を思いやるように…   「じゃさぁ…駅前のラーメン屋に食いに行く?  それかその上の居酒屋とかどう?」  体温が、波打つみたいに上がったり。下がり気味になったり。  なんか忙しい。   でも、この感じ嫌じゃない。   居酒屋の個室で、ジョッキ片手に大笑いなんって、したことなかった。  居酒屋自体が、初めてだから…  テンションが上がる。  またに店側やオーナーが、企画した飲み会があるけど、苦手で参加したことなんって殆どない…   このガヤガヤした雰囲気が、耳鳴りみたいになるから嫌いで…  しかも、サシで飲むとか…   「へぇ~っ、じゃボーイさんから始めたんだ?」   「18歳でも、10代頃は、酒飲めないし。オーナーが、良い人で…裏方から勉強しろって…常識を学べ的な?」  「経験ってやつ?」  「うん。でも、今になって…大学中退は、勿体無かったかなぁ~って、思うようになってきたところかな…」    でも、あの時の僕にとっては、アレが最善だった。   チビッと、唇を潤す程度に酎ハイを含ませる。  「他にやりたい事は、なかったの?」   「これと言って…ただ親に進められて…ってぐらいの向上心しかなかったし。言われるままで、僕が口出しするとか許さなかったし」   「俺だったら。グレてるかも」  メニューに目を通しながらクスッと笑い掛けられると、途端にまた心臓の音が早くなる。  本当になんだ?   笑顔を向けてもらえる度に心臓が、ギュッと締め付けられるのは…   人を、好きになった直後みたいな。   高鳴った気分みたいで、調子が狂わされる。   それとも、酒の飲み過ぎかな?   でも、いつよりは飲んでない。   いや。飲んでるな?  話に夢中になっていて、飲むペースが乱されている気がする。  でも、悪い酔いではないくて、フワフワした気持ちが、少し新鮮だとか…  気にならないようにしているつもりが、逆に気になったりして…  「香柴さんは…」  どう言う人なんだろう?  文脈のまま聞いてみた。   「俺?…う~ん。馬宮さんから何か、聞いてる?」  「仕事の関係でとか…」   「まぁ…合ってるか? 簡単に言うと兄が、貸し出している物件のワンフロアーをエステサロン兼オフィスとして貸していて…その繫がりかな?」  貸し物件?   「不動産関係?」  「そんなところ。俺もその一部の管理とか任されたり。手伝いをしているから。割りと顔は、広いかな?」  家が、不動産関係なら裕福ではあるんだろうな…   管理を任されてるってことは、それなりにお金持ちかぁ…   しかも、お兄さんに仕事を任されてるってことは、信頼関係とかあって…  家族の仲も、良いだろうな…    羨ましいかなぁ…     ニレは、急に塞ぎ込んだように頬杖を付いた。   飲み掛けのグラスを、傾けたまま虚ろに眺めている。  思い詰めているそんな空気が、漂うばかりで店に流れるBGMの歌詞のない曲が、耳に残っていく。  落ち込んでいるのだろうか?   何の気にもとめず項垂れた頭を、そっと撫でていた。   僅かに顔を上げて上目で俺を見上げるニレは、若干照れくさそうに笑って顔を上げた。   「僕…ガキじゃないですよ」  「あっ、ごめん。なんかつい…」  「つい?」  何って言う?   慰めたかった…は、微妙に違う。   なんのためらいもなく撫でたくなった。いや…無意識だ。何って言ったら流石に引くだろ?  ちょっとした下心が、ないわけじゃない。    急に香柴さんは、戸惑うようにグラスに持ち替えて、残っていた酒を飲み干した。   やっぱりこの人も、酒強いなぁ…  僕自身も、こんな脈絡もないバカみたいな話しとか、随分としていないように思った。   普段は、セーブしながら飲む酒も雰囲気に流されて勢いで飲み干してしまった。   「ニレくん。大丈夫?」   「うん。久し振りに飲んだぁ~…」  「酔い潰されてるみたいだけど」  ニレは、フラフラの足取りで店を後にしようとするが、駅前は深夜すぎでもそれなりに交通量がある。   一人は危険だと思いニレの腕を自分の肩に回し抱えるように居酒屋を離れた。   ホストでも、酔い潰されてる事があるとか驚きだ。    もっともニレくんは、仕事場とは違い。   にこやかで、生き生きと話していた。  そりゃ…言葉で人を楽しませ喜ばせ酔わせるプロだものなぁ…  いつも、気を遣いながら仕事してんだろうから。気兼ねなく普通に話せる場が欲しかったんだろう。   俺は、こう言う世界は分からないが…  無理してんだろうな。   …って、ニレくん寝てるんだけど…   これじゃ…  ニレくんだけを、タクシーに乗せてもタクシーの運転手さんが、困るだけだなぁ…   電話で店側に助けを…ってなるとニレくんが、可哀想か…   仕方がない。   駅前のタクシー乗り場で、タクシーを捕まえて乗り込み自宅マンション近く住所を告げた。   「本当にニレくん大丈夫?」   「お連れさん具合でも悪いんですか?」  「いや…酔い潰れて…」   「あぁ~なるほど…」   タクシーの運転手さんは、ニレくんの容姿を見て何かを察したのか、それ以上は、何も言わず告げた住所の方角に向かってくれた。  「ん…?」   ポヤっと目を開けて起き上がるかと思ったが、向きを変えた。   ゴロンと、俺こ肩にニレくんの頭が乗っかる。   フワッと微かに漂う鼻をくすぐる甘い香り。  でも、それだけじゃない。    スーッと通った鼻筋に赤みを帯びた唇から漏れる寝息。   動揺するなと言う方が無理だ。  酒を飲んでいるから思考がおかしいのか…  早々にお持ち帰りできたとか…  単純に喜んでいりるとか、俺もだいぶ酔っているみたいだが、本当に別な意味で酔いそうだった。  5.  酔い潰れていても、若干意識があるのか、肩を貸せば歩けるようだから担ぎ込んで寝かせると言うよりは、リビングのソファーに座らせた。    「水…飲む?」   「ん?…うん」   俺が差し出したグラスの水を、飲み干す勢いで傾けた。   フーッと、大きく息をつく。   「気分は、大丈夫そう?」   「うん。なんとか…」   「ホストも、酔い潰れんだな…」  「そりゃ…僕だって…人間だもん」  気だるそうにソファーに深く背中を沈めながらニレくんは、クッションを抱えて寝転んだ。    「高そうなソファーだね。ネゴ心地サイコ~」やっぱり呂律が、少しあやしい。  それに表情も、やつれてるまではいかないが、とても疲れているように見えた。   「悪酔い?」  「……は、してないよ。でも、けっこう酔ってるかなぁ…」  伏し目がちな視線を、無理だ前髪が隠している。  「なんかさぁ…仕事だから。酔えない。酔ったら負けみたいな…」   あんまりにも、ショボンと背中を丸めるものだから思わず背中を、擦ってしまった。   華奢な身体も細い肩にも、力が入ってない。   「この頃さぁ…自分がしてること全部意味が、ないんじゃないかって…虚しいってよりも、どうしていいのか、分からなくなってる…」  それは、押し流され掛けて必死に何かを掴もうと、抗っているようにも見えた。  「ずっと、このままで居なきゃならない方が、苦しいのかな?……」   声のトーンが、震えている。   「…酔ってんのかなぁ?…」  「歩けてるから。そこまでじゃないよ。グラスも持てたし。水も飲めた」   何かに気が付いたみたいに顔を上げると、抱えていたクッションにその顔を隠した。  「やっぱり。酔い過ぎたかも…」  俺の手の平は、自然とニレくんの頭を撫でていた。  髪の一つ一つが、指に絡むように柔らかい。   「頭を撫でてもらうの落ち着く…」    そう言えば、さっき飲みながら軽く昔のこと話してくれた時。   『両親は、厳しくて…勉強とか礼儀作法とか世間体…とか、外聞って言うんですかね。そう言うのをとても気にする人達でした…』  両親から礼儀に勉強にと色々と厳しく育てられたと、投げ遣りに話してたな…   確か、高校も大学も言われるまま進んだけど…    ニレくんには、これと言った目標とかなくて…   黙って学校を辞めたことが、親にバレて…  家を、出される羽目になったとか…  突然、追い出されたもので住むところも金がないで、繁華街で住み込みの仕事があると聞いて、この世界に入ったとか…  …で、今のホストクラブの倉庫を間借りしながらボーイとして働き初めてから。2年過ぎた頃にホストにならないか? と、上から言われて…   だっけ?    普通は、恨み辛みで話しても良さそうなものなのに…   かなり豪快に笑いながら話してくれた。  馬宮さんの話だと、普段のニレくんは、とても物静かで客の話を親身になって聞いてくれるし。アドバイスや時には慰めてもくれるのだとか…   一緒になって、その問題を考えてくれるのだとか…   その姿に女は、射抜かれる。  どこでも、聞き上手はモテるものだが、当の本人は、その聞き耳上手で助言を乞われる事にストレスは感じないのか?   いいや…   感じでいるから。こんな風になっているんだろう。  俺の視線上に映るのは、疲れ切った顔を隠して笑顔を取り繕うプロとしての顔であって、ニレくん本来の顔じゃない。   職業柄、しんどいとは言えないだろうし。  弱音は吐けないだろう。   だから。呼び止められた時ほっとけないと感じた。  そこには、店とのギャップもあった。   それ以前に人を、惹き付けさせる。  この瞳に心を持っていかれた。    澄んで見えるのに、どこか深くて冷たく繊細でそれでいて…  人を魅了して心を、離させない。  おかしな話しだ。   こんな風に人に惹かれたのは、初めてだ。   会ったばかりの年下の男の子に、ここまで尽くして上げたいと、思ってしまったのは…  「…悩みがあるなら。俺が、聞こうか? ニレくんみたいに話し聞くのは、得意じゃないけど…言ってスッキリするなら。話した方が楽にならない?」  香柴さんは、優しそうな笑みを浮かべている。   おそらく香柴さんは、このままの人なんだと思う。  嘘つきな僕は、そんな香柴さんに憧れてしまう。    僕は、黙ってしまうしかなかった。   厳しかった両親とは、大学を辞めてから音信不通の状態が、もう何年も続いている。    今更、会いたいとか思ってない。   まぁ…元気で居るんだろうぐらいの気持ちしかないし。   厳格に育てた息子が、ホストクラブで働いているなんって知ったら。  母親は、ひっくり返って父親は、額に青筋立てて大激怒だろうなぁ…   その顔を、リアルに思い浮かべてしまったものだから。吹き出すみたいに笑ってしまった。  すると香柴さんも、安心した風に微笑んで僕の頭を、また撫でてくれた。    温かい手の平。   こんな風に親から頭を、撫でられた事あったかなぁ…   叱咤激励とか、体罰ってまではいかなくとも、罵声は普通にあった。   殴られはしないだけで、叩かれたりはしたなぁ…  叩かれた場所は、痛かったし。  気持ちは、暗く落ち込んだ。  親の笑った顔なんって、見たことない…  「僕なんかに…笑ってくれるとか、香柴さんは、優しいんだね…」   「僕なんかって…ニレくんは、頑張ってるよ」  本人は、え? みたいな顔をしているけど、構わず頭を撫で続けた。   最初は、照れくさいような様子も、あったが喉を鳴らす猫みたいに気持ち良さげに顔を上げた。  「…ずっと、探してたのかも知れない。褒めてくれる人…優しくしてくれる人…」  急に起き上がったからか、撫でていた手の平がニレくんの頬に触れた。    酔っているからか気分が、高揚しているのからか、その頬は熱を帯びていて、俺の手の平に何を思ったのか、ニレくんは頬を擦寄らせた。  「手が、ひんやりしてる…」  そうやって、縋りながら。  なぞるように俺の指に、手を添えてくる。   物欲しそうに見上げてきては、スーッと両手で包み込むみたいに俺の首へと絡んできた長い指先が、抱き締めてくる。   どこまで意識があって、どこから意識がないのか、色々な考えを脳内で巡らせてみるが、そのどれもが正しくない気がして気付い時には、キスを交わしていた。  濃くも甘くも、酔わせて嗜好を狂わせてしまえる香りに気持ちを鷲掴みされそうになりながら。  強い衝撃に耐えようと、もがく程に図々しくも、自分の方から擦り寄り縋るように相手を求めて、そのなめらかな肌に首筋に浮き上がった鎖骨を、甜め上げて吸い付こうとしている。   赤くなった耳を甘噛すると、少し反応が鈍ったように俺に寄り掛かった。   スーッと言う寝息が、聞こえてくる。  本当に疲れ果てたのか、脱力した腕が首と背中から離れていく。  正直に言えば、今ここで寝るなよ。だ…   力が抜けきった身体が、俺に覆い被さる。  何って言うか、こう言う時に使うピッタリな言葉を知ってる。     「生殺し…」   6.    どのぐらい時間が経ったのか、まだ薄暗い室内で目が冷めた。  ソファーに寝かされた僕の身体に毛布が、掛けられていた。  見慣れないリビングには、僕だけなのか、シーンと静まり返っている。  ボッーとした頭で、目を覚ましたままで居ると羽織っていたカーディガンのポケットからマナーモードのバイブ音が、鳴り響いた。  通知バーには、遅い。連絡して! と連呼されている。  何か、本当に返信すんのマジでダルい…  その時、ガチャとリビングの扉が開いた。  「起きた? 気分とか大丈夫?」  「え…まぁ…」  酔は、とっくに冷めていた。  改めて思う。    香柴さんって、声も姿もカッコいいのかも知れない。  にこやかに微笑まれる形の整った唇にドキッと心臓が、震え出す。  そう言えば、キスしなかったけ?  酔っていたし。眠かったから。  思い違いかな?  気のせいだよ。  「えっ…と…顔洗いたいかなぁ…」  洗面所は、リビングの扉を出て直ぐにある左側の扉と教えられ僕は、ソファーから立ち上がって、香柴さんの隣を通り過ぎ。最初に目についた扉を開けて、真っ先に顔を蛇口から流れる水で顔を洗った。  ポタポタと顔の輪郭を伝って流れ落ちる水滴。  ゆっくりと、顔を上げる。  首筋や胸元に無数の跡。   一瞬にして、毛が逆立つ感覚に慌てて後ろを振り返る。  「あの…」  「まだキスしかしてないよ」  昨夜の出来事が、鮮明に蘇る。  柔らかい唇に触れた瞬間の火照りにも似たあの感触。   肩や首に熱く這わされた指先と唇が、素肌に吸い付く度にピリッとなる僅かな痛みを思い出そうとすると、顔の筋力が緩んでしまつのか、表情がしまらない。   ヤバい。顔がニヤけようとしてる。    「大丈夫?」  普通に声を掛けられただけなのに、心臓が大きく躍動する。  「色が、白から目立つね」   「えっ…あ…」   「鏡、見ながらマジマジと見てたから。気になるのかにぁ…って」  僕に付いている跡を、なぞるように自分の首筋を鏡越しに指差しす指しする。  「…もしかして…付けられたことなかった?」   そんな事はないと、首を振り終えるた僕の真後ろにスッと間合いでも詰めるように香柴さんは立った。  「ふ~ん。誰から」  「誰って…」   キスマぐらい。   付けたり。付けられたりするぐらいの事は、普通にあるよ。  「へぇ……」  「あの…僕と香柴さんは…その…」  「まだキスしかしてないよ。って言ったじゃん」   息みたいな言葉が、耳に掛かる。   「あぁ~…これイケるか? って思ったら。爆睡された」   「…なんかスミマセン…」  「いや…謝られても…でもまぁ…俺、ニレくんなら。抱けるよ」   首元に優しく触れる香柴さんの唇は、少しひんやりとしていて、収まり掛けた心臓の荒々しい動きが、再び強くなる。  見える分で、数える気にはなれないけど、首とか胸にどんだけ跡と残してんだよ。  「あの…これだと…シャツから見えるし…」  はっきりしないキスマなら誤魔化しが聞くけど、見るかにこれは…   「なんって、言われるか…」   「お客さん? それか店側?」  「…どっちも…」   くすぐるように香柴さんは、僕に擦り寄り後ろから抱き締めてくる。   心臓の音が、ちっとも収まらない。  何か、いつみたいに平然とした表情に戻らない。  気持ちが緩んでいるからか、顔も緩むみたいに力が入らない。   こんな感じは、初めてだった。  今までの僕は、どんな感じだった?     『クールで、カッコいい!』  “ カッコよくしてないと、モテないから。そうしているだけだよ ”    『ニレくんって、普通にモテるでしょ?』    “ 普通に?… ”    『やっぱ。ニレさんは、カッコいいですよね。憧れるって言うか、目標みたいな存在?』  “ 僕が? ”   『ニレ。今月も、頼むなぁ~!』  “ なんか ”  『やっぱり。ニレさんには、敵わないです! 不動のって感じで!』  “ もう… ”   「疲れた」  香柴さんの腕にしがみつくみたいに顔を埋めた。   ほんの少し優しくされて、甘やかされたみたいになって…   自分が、優しくするんじゃなくて…    自分も、優しくされたくなった。   子供の頃の記憶って言うか、親との確執みたいな関係は、呪縛みたいで…   急に優しい言葉を掛けられて、優しくされて簡単にほだされて…   気が付いたら。この優しさを自分のモノにしたくなってた。   僕は、優しさの加減を、知らないで育ったから。   香柴さんからの…  優しさ? 温もりが、突然のように心地よくて仕方がない。  こんなにあっさりにも、求めていたモノに近いモノを手にしてしまったら。  今まで通りの媚びた優しさは、演じれない。  本当の僕は、皆に喜ばれるようなカッコいい人間なんかじゃない。  振りでカッコよくしているだけだよ。  それに心底、疲れていた。  僕みたいな中途半端な愛情や無い物ねだりな優しさには、本物の優しさに敵わない。  この人から感じられる行為には、優しさがあるように思えてならない。   もしかしたら。  僕の勘違いって、場合もあるし。  からかわれて居るだけで急に、嘘だよとか言われる可能性だってあるかもしれない。  自分都合に考えてしまえるほどに僕は、この人の存在に依存しようとしている。  僕の方が余っ程、我儘だ。  だとしても僕は、この抱き寄せられている腕が、離されるのも自分から離すのも嫌だ。  「ニレくん。気分悪いの?」  僕は、首を振る。  「…違う。本当は、愛されていたかった。愛情が…欲しかった」   「うん」  「優しくされたかった」  「うん」  「だから。香柴さんが、頭を撫でくれたことが嬉しかった」  僕は自分自身が、思うよりも単純で、どう見ても、我儘な人間なのは明白だ。  再び唇が、触れ合う。  絡み合う舌が、糸を引くような深いキスへと変わっていく。   フト息が、キスの合間に溢れる。  見詰められる視線に身体が、痺れたように震え出す。  シャツを、捲るように服と肌の間で、擽るように手を這わせられると変な声が、つい漏れ出てしまう。  力が入らなくなる身体を、香柴さんが抱き締めてくれる。  脱ぎ捨て合うみたいに散らかる衣服は、僕にとっては殻みたいで…  重なり合う身体は、熱に侵され続けそれが、自分の体温なのか相手の体温なのか、分からない程に入り乱れていた。  後ろから抱えれ痛みにも似た快楽の動きの中でも、前からの激しく求められる艶めかしい圧迫感に悶えて、ビクッと跳ね上がる身体を、優しく抱き留めてくれる手が、何もよりも嬉しく思えた。  「ん~っ…」  「…なぁ…何で、締め付けくるわけ?」  「分からない…」  指を絡め合いながら香柴が、僅かに腰を浮かせる。  敏感に反応するように僕は、無意識に締め付けたらしい。   「抜こうか?」  こんな異物感は、苦しいだけだから抜かれてしまった方が、楽なんだろうけど…  身体が、言うことをきかない。  「あのなぁ…急に、おっ始めたから。ゴムとかしてねぇ…のな…」  「…んっ…」  「これ以上出すと、流石にヤバいだろ?」   頭の中が、燃え尽きる寸前みたいな感覚になっていて、何も考えられなくなり快楽的に身体が、反応しているようだった。  首筋を舐められ吸い付かれる。  荒々しい息遣いで、甘噛された耳の内側を舌が、飴玉でも舐め回すみたいにするから。  また反応してしまう。   多分。気の抜けた顔しているんだと思う。  「顔がメス化してんじゃん…」  トロトロにされてる顔のことだろうか?  「抱き潰そうか?」  「………」  もう…抱き潰されてる感覚しかない。  だから。  このまま溶け合い続けていたい。  次に僕の意識が戻ったのは、完璧に翌朝だった。  初めて感じる違和感だらけの身体が、ダルいくて…  抱き寄せられて眠ったのか、香柴さんの腕の中ってのが、これ以上ないぐらいのパワーワードな気がして、妙に恥ずかしくなった。  閉じられたカーテンの隙間から差す朝日が、部屋を照らす。  昨日のドサクサに置き忘れたスマホからメッセージを伝えるバイブの音が、微かにする。  多分、ひょっとしなくてもカノジョからだろう…  でも、今は時間が許す限り微睡んでいたい。  もう少し香柴さんの体温を、近くで感じていたいからと無視をした…
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