0人が本棚に入れています
本棚に追加
綾瀬星那
私は綾瀬星那、中学3年生。
5月、雨上がりの生暖かい日だった。今日は私の所属する演劇部の役決めの日だ。私の市では7月末に演劇部のコンクールがある。そこで優勝すれば県のコンクールに行けるのだ。
私は今まで大きな役をやらずに端役をやってきた。けれど演劇部であるなら、最後くらい目立ってみたい。落ちるとしても、主役に立候補したい。
今日は掃除当番だった。少しだけ床が湿っている気がした。黒板を綺麗に拭く。上までなかなか届かないから仕方なく椅子に乗って拭く。身長が小さいから可愛いとか言われるけど不便だ。それを言うと背の大きい人に文句を言われてしまいそうだけれど。
掃除を終えて、水道で鏡を見る。
ジャージが薄く白く粉を被っていた。全力で固めた前髪にも少しかかっていた。顔を少しばかり顰めて粉を優しく払い落とす。ジャージは百歩譲っていいとしても髪の毛はやめて欲しい。リュックを軽く背負い直して部室へ向かった。
「おはようございます」
もうそこには台本を読む鹿野杏が居た。私はリュックをロッカーに押し込んで、部活日誌を手に取った。今日は当番。シャーペンと日誌片手に杏の横に座る。
「なんかやりたい役あるの?」
「小林桜役」
「マジー?」
同じだった。私も、とか言うべきなんだろうか。いや、言わなくていいのだろうか。聞かれてもいないのに言うのは違う気がする。考えても分からないから日誌を書き進めた。
基礎練まで終えて、役決めのために黒板前に固まる。杏は黒板横で椅子に座り書記をとっている。
黒板に役が書かれていく。小林桜、小林千冬、郷田宏…。杏は猫背になって黒板の文字を写している。全て書き終わって、推薦を部長のが聞いていく。小林桜役には誰も推薦を出さなかった。次に立候補を聞かれる。私は手を挙げた。
「小林、桜役、やりたいです」
あまりしたことの無い立候補に言葉が詰まる。こんなのが主役になったらどうなるのだろうと思うが、やらない後悔よりやる後悔、そんなことを気にしては何も出来ない。杏も小林桜役に立候補していた。
やはり、オーディションをすることになった。当然だった。けれど私はオーディションを受けたことがない。不安しか無かった。
オーディション当日、私が後に演技することになった。私は部室の外で台本をもう一度読む。部室の中から杏の声が聞こえる。やはり杏はとても上手だった。こんなし上手な人に勝てるはずがない。杏が演技を終えて部室から出てくる。私が入れ替わりで部室に入る。
「それでは、自分のタイミングで演技を始めてください。」
私は綾瀬星那なんかじゃない。
私は、小林桜、3年生。
行ける。
ここは舞台。そして自室。
サスライトが私を眩しいほど照らす。
私が主役。
息を吸い込む。
「ーそれでは今回は杏に小林桜役を任せます」
案の定。杏は演技が上手だから。小学生の頃の国語の音読の時から上手だったもの。ぽっと出の私に太刀打ちできる相手ではなかった。私は笑顔で杏に拍手を送った。杏の頬は薄桃色に染まり、目は輝いていた。
私は結局小林桜の妹、小林千冬役になった。身長差15cm、中3と中1なら全然有り得る。千冬役は感情を爆発させる場面があるから楽しそうだ。
7月中旬、場を繋いでいく。通し稽古もやらなくてはならないからだ。杏の台本は端は切れ、紙は所々折れ、開けたであろうページの跡が強く残っていた。どれだけ練習したのだろう。杏は秀才だ。努力がとても上手だ。それに比べ私は私にあるものだけでどうにかそれらしく見せて、努力を嫌う。そんなだから杏を越えられないんだ。勉強面もそうだ。杏はコンスタントに勉強をしているが、私は今までは定期テスト前にガっとやるだけだった。受験生の今は、そうもいかないが。
夏休みに入り、追込み期間に入った。あとは磨くのみ。アスファルトの暑い照り返しが私を阻むが、それでも意気揚々と部活へ向かう。
体育館での稽古はやはり暑い。28度。長袖の衣装だから、信じられない程に暑い。秋が舞台だから仕方がない。先輩はよく涼しい顔で演技をしていたなと思える。尊敬に値する。
「じゃあ凡人は夢を見られないの?夢を見る権利はないの?天才だけの特権なの?違うでしょう?」
なんで、なんで、なんでなんでなんで、こんな、こんな理不尽。許せない。
「そんな訳ない、凡人だって夢を見ていいでしょ。いくら天才が自分よりレベルが上であろうとも、凡人には天井があろうとも、関係ない。私には…あんたにも人生ってもんがあるから」
そうなんだろうか。そうなんだ、ろうな。そうであればいいな。
「オッケー。39分20秒。余程のことがなければ40分59秒は超えないだろうね」
まさか私がのめり込んで演技をするタイプだとは思ってもみなかった。役に入ると、その役が感情を爆発させると、私の脳内も収集がつかなくなる。そんなものなんだろうか、知らなかった。
ビーー。
ベルが鳴る。演者はスタンバイ。杏は舞台中央に立つ。杏がこちらを見たから、笑って、口だけたのしんで、と言ってみた。杏は緊張しているのか、笑い返すもなかった。
緞帳が皆の息を詰まらせる。
照明が消える。
ビーーーー。
緞帳が上がる。
緞帳が上がりきる。
桜だけを照明が照らす。
桜が、動き出す。
私は最終的に演劇個人賞を受賞した。
結果を見れば千冬やってよかったなぁと思える。けれど、やっぱり桜をやりたかった。
「嬉しいけど、やっぱ主役で取りたかった」
「もうちょっと、もっと身長が高ければね」
杏はそっぽを向いて言った。身長。中々伸びない。子供っぽく見られてしまうから、それが嫌でいつも厚底を履いている。
「いつか高校生とかになったら伸びるかな」
厚底もいらないくらい、大きくなれるかな。
「多分伸びるよ。星那だから。」
最初のコメントを投稿しよう!