鹿野杏

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鹿野杏

あたしは鹿野杏(かのあんず)、15歳。近所の公立中学校に通うよく居る女子中学生だ。 少しじめじめした5月だった。私の所属する演劇部は7月の末に市内でコンクールがある。だから台本決めや役決めを進めなくてはならなかった。最後のコンクール。最後のコンクールは華々しく大役を務めたい。台本はとうに決まっていた。今日は役決めの日だった。あたしのやりたい役は主人公の中学3年生の少女。ある程度演じやすいだろう。そして主人公となると華もある。今まで華々しい大役を務めたことはない。いつも1歩届かず、指をくわえながら袖で演技を見守ることしかできなかった。今年こそは。部室の鍵を開けながらそう意気込み、部室に足を踏み入れた。 「おはようございます」 演劇部恒例の挨拶。芸能界での挨拶がいつもおはようございますだからあたし達もおはようございますと言うらしい。的なことを1年生の頃に聞いた気がするが、もうよく覚えていない。一番乗りだから返事はない。部活日誌をめくり、今日の担当を確認する。今日は綾瀬星那(あやせせな)という友達の番だった。明日は私の番が回ってくるようだ。台本を読もうとした頃、星那の挨拶が聞こえた。短くおはよ、と返した。リュックをロッカーに押し込み、筆箱と日誌を抱えて星那が隣に来た。 「なんか役やりたいのあるの?」 「小林桜役」 「マジー?」 星那はそれだけ言うと日誌を書き始めた。星那にも何をやりたいのか聞こうと思ったが、真剣に書いているようなので話しかけられなかった。星那はこういう所真面目でいいんだよな。そんなことをしているうちに部員が流れ込んできた。おはようございますで部室が溢れかえった。だいたい集まると部長の星野奈緒(ほしのなお)が出席を取り始めた。そろそろ基礎練の時間だ。 基礎練を終えて、黒板の前に座る。副部長のあたしは黒板の横で椅子に座り、書記をする。奈緒は仕切る。いくつも書かれた役の中で小林桜が1番目立っている気がした。推薦が出ていく。小林桜に推薦であたしは上がらなかった。そして推薦者は出なかった。推薦の声がある程度収まる。奈緒が立候補者を募る。あたしは手を挙げた。 「星那、何やりたいの」 星那もやりたい役があるようだった。星那は少し間を置いた。星那は表によく出るような子じゃなかったから緊張しているのだろうか。 「小林、桜、やりたいです」 オーディションだ。実力は私と互角くらいだろう。私より実力があるであろう部長が手を挙げるならまだ良かったのに。奈緒は黒板に星那の名前を書く。 「杏は?」 「小林桜やりたいです」 星那の隣に私の名前が書かれる。その後も次々に名前が書かれていくが、小林桜の立候補者は私と星那以外いなかった。2人でオーディションだ。オーディションは慣れている。それ以上に星那が主役に立候補したのが予想外だった。詰まる息を静かに吐く。奈緒の文字をノートに写していった。 オーディション当日。オーディションは文化祭などの公演より緊張する。至近距離に部員が並んでいる。どんな公演でもここまで近いのはありえない。部員の視線が突き刺さる。指先が冷える。声が震えている気がする。思うような演技ができない。本当に演技の上手い人はこういう所で燃えて実力を発揮出来る人なのだろうか。 「では、自分のタイミングで演技を始めてください。」 目を瞑る。詰まりきった息を頑張って全て吐き出してから深呼吸をする。窓から湿った風が私の髪を靡かせる。ここは舞台上で、サスライトがあたしにだけ当たっている。大丈夫、できる。目を開く。演技を始める。 「ーそれでは今回は杏に小林桜役を任せます」 オーディションで初めて私の名前を呼ばれた。いつもは惜しかったけどねとかそんな言葉をかけられるのに。良かった。 本当に、良かった。 星那は隣であたしに向かって拍手をしている。落ちた時はこの瞬間が辛い。先輩の…友達の幸せを笑顔で拍手したいから。今はこうやって拍手されている。単純にただただ嬉しかった。 星那はあたしの妹役になった。星那の落ちた理由の1つに少し身長が小さすぎるというのがあった。それでも妹役とはいえ、全然脇役ではない。むしろ星那のイメージに合っていて、ハマリ役になるのではないだろうか。 7月の半ば。場を繋いでいく。そろそろ通しをやらなくてはならない。あたしの台本は端が大きく破れ、演技プランでページが埋まっている。それに対し星那の台本は所々破れてはいるが、綺麗だった。そしてページも注意されたこと以外だと、自分の台詞のマーキング位しかない。そういうところだよ、と思った。 夏休みに入り、蝉が鳴き喚く真夏日の中、30分かけて学校へ行く。こういう日は部活をバックれたくなるが、主役が居ないと立ち稽古どころじゃない。それは分かっているから汗をかいて学校に向かう。脂汗も滲み出て、今にも溶けてしまいそうだった。地球温暖化くそくらえ。とか思うが、別に何を対策している訳でもない。八つ当たりだ。八つ当たり。 「じゃあ凡人は夢を見られないの?夢を見る権利はないの?天才だけの特権なの?違うでしょう?」 ここ最近星那の演技を見ていて感じていた。もしかして、あたしより演技が上手いのではないか、と。星那は役にのめり込んであたかも自分がその役だと言うような演技をする。いや、目付きも、雰囲気も何もかも違う。そこにいるのは星那ではない。それに対し私は良くも悪くも台詞を読むあたしだ。恐らくあたしは下手ではない。主役をやれるくらいには演技力はあるだろう。けれど、違うのだ。星那とはタイプが違う。そうじゃない。星那には素質があるのだ。あぁ、そう言うとまるであたしが妹役みたいではないか。妬んでいるみたいではないか。 「そんな訳ない、凡人だって夢を見ていいでしょ。いくら天才が自分よりレベルが上であろうとも、凡人には天井があろうとも、関係ない。私には…あんたにも人生ってもんがあるから」 そんな訳、ない。こうやって天才は凡人という芽を気が付かぬうちに潰している。 こんなになるなら、あたしが妹役やれればよかったのに。 だがそれは、不可能な話だ。 ビーー。開始5分前。セットは完璧だ。演者は舞台にスタンバイ。舞台中央に立つ。大丈夫、出来るだけのことをした。けれど 上手袖を見る。スタンバイをする星那が居た。袖を見るあたしに気が付きにっこり笑っている。頑張って、と言っているのだろうか。けれど私からしたら煽られているとしか思えない。 だめだ、そんなことを本番前に考えては。これは市内コンクール。ここで勝てなければ残るは文化祭しかない。 大きな緞帳が空気を詰まらせる。 舞台上が闇に包まれる。 全員に緊張が走る。 ビーーーー。 緞帳が上がる。 緞帳が上がりきる。 照明が私だけを照らす。 息を吸う。 凡人は、天才に勝てない。 そう、綾瀬星那という天才にあたしは勝てない。 演劇個人賞は、彼女の手に渡った。 そして、あたしの夏は終わった。 「嬉しいけど、やっぱ主役で取りたかった」 彼女は笑顔でそう言った。なんで、あたしの前でと(いか)るあたしをあたしは制した。 「身長がもうちょっと、もっと高ければね」 いつか高校生にでもなったら伸びるかな、と髪の毛をクルクルといじりながら星那は言う。 「多分伸びるよ。星那だから。」
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