ロープ

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「あの、これって」と俺は言い、カエサルの首輪を指差した。そこには首輪からリードと思われる短いロープがあった。 「はい。この子、リードをちぎってしまったんです」と北野さんは言い、顔を伏せた。当のカエサルは微動だにしない。 「切れるものなんですか?」 「はい。根気よく噛むんです。この子。今日、散歩に出かけた時に思いっきり引っ張って、ブチン!です。これで3回目です」と北野さんは言い、カエサルの顔を両手で挟み撫でまわした。カエサルは「クーン」と弱々しい声を出して反省しています、と言う雰囲気を出した。  思わず、俺は笑ってしまった。 「失礼。そうですか、凄いですね、カエサルくんは」と俺は言った。  俺に欠けていたのはロープを切る気持ちなのかも知れなかった。すぐには切れなくても、根気よく。また笑いが込み上げて来た。得られる自由は短いかも知れない。けど、それでも何度だってトライする。その先は何処かに繋がっているかも知れない。そんな事を考えていると無性に笑いたくなってきた。 「リードは無くて連れて帰れますか?」と俺は言った。 「あ。大丈夫です。何とかします」と北野さんは言った。その時だ。カエサルは走り、俺のリードを咥えてきた。 「良かったら使ってください」とすんなりと言葉が出た。 「えっと。貴方のですか?そこまでして頂く訳には。それにお宅のワンちゃんが困るんじゃないですか?」と女性は両手を顔の高さでパタパタと振った。  確かにあのリードは俺の物だ。だけど。 「ウチの犬、もう居なくなっちゃったんです」と俺は視線を外し、上を向いた。空がいつもよりもずっと広く感じられた。「カエサルくんみたいな子が使ってくれたら嬉しいです」 「えっと。そんな大切な物を……」と北野さんは上手い具合に勘違いした事を言い、俺とカエサルを交互に見た。「では、有り難く頂きます」  急に電子音が鳴った。すると北野さんは勢いよく姿勢を正し、ジャージのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出し耳に当てた。「はい。北野です。申し訳ありません。はい。はい。申し訳ありません。後、1時間後、いえ、50分で向かいます。では。失礼します」  北野さんはスマホをポケットにしまい、俺に向き直った。「すみません。仕事がありますので、これで失礼します。あの、お詫びとリードのお礼がしたいので、連絡先を教えて頂けませんか?」と早口で言った。 「お礼……そのリードを大事に使って頂ければそれで充分です」 「でも……」 「大丈夫です。今日はカエサルくんと遊べて楽しかったですし。それに連絡先なんて聞いている場合じゃないでしょう?」と俺は手首を軽く叩いた。 「何から何まで本当に申し訳ありません。私、よくこの公園に来るんです。今度お会いした時にちゃんとお礼します」と北野さんは言い、カエサルの前にしゃがみ、俺が使うはずだったリードを着けた。  去り際、カエサルは俺の方を向いて気持ちの良い声で吠えた。俺は腕を挙げてそれに答えた。  1日はまだ始まったばかりだった。
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