思いがけない話

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思いがけない話

 ここ数日屋敷に帰って来ないシモン兄上に、僕は落ち着かない気分で仕事が忙しいのだろうと自分に言い聞かせていた。だからセバスに兄上が辺境に帰っていると聞いて、その事を兄上から聞かされていなかったせいで胸の奥がザワザワしてしまった。  なぜ兄上は僕に言ってくれなかったんだろうか。まるで内緒ごとの様に…。  僕は湧き上がってくる悪い方への考えを押しやるかの様に首を振った。兄上はいつも僕を好きだと言ってくれる。僕たちが心を通い合わせてもう二年が経とうと言うのに、それを信じない理由もない筈だ。  けれども僕は考えない様にしている現実を知っていた。兄上は辺境の後継者で、近いうちに妻帯していずれ跡継ぎを作らなければいけないって。ああ、頭では理解していても、僕の心はそれを拒絶してしまう。  兄上が誰かのものになるなんて、それが形式的なものだとしても僕の狭い心は燃える様な嫉妬に焼き尽くされてしまうだろう。それは考えるだけで辛いことだった。  「アンドレ様、…いかがいたしましたか?どこか具合でもお悪いのですか?」  セバスに余計な心配を掛けさせて、僕はまだ事実でも無い事を想像して一人で自分を追い込んでいる。そんな自分を馬鹿馬鹿しく思いながら、僕は苦笑してセバスに答えた。 「…ううん。大丈夫。ちょっと学校の勉強に根詰めちゃったみたいだね。今夜は早く眠る様にするよ。」  僕はそう言っていつもより早々に自室に戻った。余計な事を考えないために気を散らすように勉強ばかりしていたのは本当だった。僕は17歳にもなるのに、上手に息抜きさえ出来ないのかと苦笑してしまった。     ふと誰かに口づけされた気がして、僕は微睡の中から抜け出した。今やすっかり慣れた兄上の匂いに一気に覚醒して、僕に覆い被さった兄上を見上げた。 「…シモン、お帰りなさい。」  シモン兄上は灰色の瞳を蝋燭の灯りで揺らめかせて微笑むと、もう一度僕にそっと口づけた。 「ああ、ただいま。さっき帰ったんだ。起こすつもりはなかったんだが、アンドレに会いたくて顔だけ見に来たんだ。」  頬に少し湿った兄上の長い髪を感じて、僕は微笑んだ。そして同時にこの不在の期間のまとまりの無い感情がむくむくと湧き上がって来た。  「シモン、辺境に帰省していたの?僕全然知らなくて…。なぜ僕に教えてくれなかったの?」  ああ、こんな責めるような事を言いたかったわけじゃない。まるで小さな少年のようにいじけた言い方になってしまった自分の不甲斐なさに、僕は無意識に顔を逸らした。  すると兄上の唇が僕の首筋に優しく触れた。その甘やかすような感触と温かさに、僕はもう一度視線を戻した。目の前には少し嬉しげな兄上の表情が見えて、僕は躊躇いつつも顔を戻した。  「最近ようやく私を名前で呼ぶようになってくれて、それはそれでくすぐったいね。兄上も悪くないが、アンドレの前ではただの男でいたいからね。」  妙に口数の多い兄上に違和感を覚えて、僕は思わず口を開いた。 「…何かあったのですか?辺境で何か…?」  すると兄上は僕を抱き起こすと、自分の胡座の間に引き寄せた。少し向かい合う格好になった僕は、兄上がこれから話し始める何かを息を呑んで待った。  「姉上と話をしに帰っていたんだ。辺境の後継についてね。そして父上にも承諾してもらった。」  兄上から後継の話が出て、僕はドクリと心臓を震わせた。一体どんな話になるのかまるで予測がつかなかった。ああ、最悪だ。僕の想像は悪い方にしか向かわない。 「兄上は辺境の立派な跡継ぎですから…。」  動揺して掠れた声を振り絞って取ってつけたような事を呟くと、兄上はクスッと笑った。 「どうかな。姉上が男だったら、私など放り出されていただろうに。たまたま姉上が女だったせいで、私にお鉢が回って来ただけだ。アンドレは年が離れているからあまり知らないかもしれないが、姉上の若い頃の勇猛果敢さと言ったらなかったんだよ。」  思いもしない事を言われて、僕は兄上の話がどこへ向かうのかすっかり分からなくなってしまった。僕が目を見開いていると、兄上は優しく微笑んでもう一度僕にそっと口づけた。 「私はずっと考えていたんだ。アンドレを一生私の側に縛り付けておくにはどうしたら良いかと。そしてそれはアンドレを悲しませては叶わないってね。…私は早まったのかな?アンドレに確認もせずにそうしてしまって。  でもアンドレが共に居ない人生など想像もつかなかったんだ…。」  兄上の言葉が僕に染み渡ってくるに従って、僕は胸がドキドキして来た。 「…シモン。僕だってシモンの側を離れる未来など考えることも辛いのに…。」  すると、ホッとしたような表情を浮かべて兄上は僕に思いもしない事を言った。 「姉上に未来の後継を託したんだ。私には後継者を作ることは出来ないからと。アンドレを愛しているからそれ以外の道はないとね。幸い、姉上は半年前に二人目の男児を産んだだろう?  もっとも姉上の子なら女児だったとしても後継の才能はあるだろう。彼らが大人になる頃は男も女も無くなっているかもしれないしね。」  僕が考えないようにしていた最悪のシナリオを、こういとも簡単に霧散させてくれた兄上に、僕は呆然として見つめることしかできなかった。それは考えられないような犠牲と貢献だったのだから。 「…でもたとえ内々ではそう取り決めがあったとしても、貴族界は放っておいてはくれないでしょう?それに、お義父上はなんと?」  兄上は僕の動揺を宥めるように手を握って、殊更優しく言った。 「なんだ、喜ぶかと思ったのに。真面目なアンドレならそう反応するだろうとは思っていたよ。だが、私が子種の無い身体であると噂になればそれは簡単な事だ。  将来一時的に辺境伯になっても、後継者を姉上に託すのは何らおかしな話にはならないからね。」  貴族界で子種が無いと言うのは大きく名誉を損なう。例えそうであっても、それを公にしない様に敢えて妻帯したりするのが普通だった。  それなのに兄上は僕との未来のために敢えて噂の的になるつもりなのだ。僕は思わず兄上に抱きついて言った。 「シモンがそこまでして僕との未来を考えてくれたなんて、もう十分だから。お願いシモン。もう僕はこれ以上シモンに犠牲を払って欲しく無い…!」  それは僕の本心だった。僕を愛する事で兄上をこれ以上苦しませたくはなかったんだ。
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