116.第10話「雪の上の足跡」

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116.第10話「雪の上の足跡」

a7bcc447-78f9-46a3-a923-f1a1fed59c20  12月5日、日曜日、午後5時、会場は満席だった。  プログラムには、指揮者の森川先生のプロフィールが載っていたが、私が知る以上の事は書いていなかった。特に「年齢不詳」と書いてあるのが、面白かった。  最初は、ワーグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガーへの第一幕への前奏曲」という曲だった。とても吹奏楽ではマネできない迫力と音質だった。その迫力は最後まで続いた。  次は、ステージの中央にグランドピアノは運ばれ、シューマンの「ピアノ協奏曲 イ短調」を聞いた。ピアニストは二本松市出身のプロだったが、私の知らない人だった。とても繊細な音楽に聞こえた。  休憩が終わり、最後はリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」だった。バイオリンのソロがとても印象的だった。  第3楽章の「若い王子と王女」は、「アンダンテ」のマスターの西村さんと一条さん、そして、片平先生と星高陽先輩へのプレゼントだと、以前、森川先生が話していた。その曲は、先生の言う通り、2人へのプレゼントのような、甘美でメロディックな曲だった。 「特に、この『シェエラザード』の第3楽章は、今、恋をしている2人に贈る。・・・(指揮者)」 プログラムにはそう書いてあった。  8分の6拍子にのって、恋の音楽が流れていく。曲はそんなに長くなかったが、一番前の席で聞いている西村さんと一条さん、そして一番後ろの席でひっそりと聞いている片平先生と変装した星先輩にも、心に響いている事と信じていた。 「なっちゃんは今、誰かに恋しているの?」 隣で聞いていた美咲が、私に尋ねてきた。 「わからない。美咲は?」 「好きな人、まだいない」  アンコールの曲は、私には分からない曲だったが、拍手は鳴り終わらなかった。先生は観客席からたくさんの花束をもらっていた。あの、吹奏楽部の3年生の奥村留菜先輩も、手渡しで、花束を渡していた。 「森川先生って、やはりもてるのね」 美咲が笑っている。 「森川先生の指揮の後ろ姿、格好良かった」  私は、美咲と会場を後にした。部屋に戻り、1人で夕食を食べた。そして、そろそろ休もうかなと思ったら、森川先生からメールが来た。 「二次会に来てみないか?」  二次会は、駅前の飲み屋さんだった。高校生としては、入れない場所のような感じもあった。私は、先生の隣に座った。 「この子が、松オケに入りたがっているんだ」 周囲の人に私をそのように紹介していた。もちろん、私は、アルコールではなく、ジュースと焼き鳥を注文した。どうやら、森川先生は、私に入団許可を出したようだった。  30分くらい過ぎると、団長の大河内鷹道さんが、隣に座った。 「そう言えば、森川先生、奇妙な話を聞いたのですか、この謎を解いてくれますか?」 団長の大河内さんは、先生に話を切り出した。 「ここの隣に、安くて、美味しい食べ物を出してくれるという旅館『大宗』が、リニューアルしたのです」 「この二本松市を流れる川の改善工事のためですか?」 「そうです」 「学校や、色々な人との飲み会で、利用させて頂いています」 「今日のうちの演奏会のお弁当、その『大宗』に、注文したんですよ」 「そうだったのですか?」 「その時に、配達してくれた女将の話なんですがね・・・」 「何かあったのですか?」 「その女将が言うには、その『大宗』に、変な客がいるという事なんですよ」 そこまで言うと、団長は3杯目のビールと枝豆を注文した。 「変な客・・・?」 「そうなんです」 「そう言えば、シャーロック・ホームズの小説にも、同じ様な話がありましたよ」 「どういう内容ですか?」 「ヒゲのある男が宿に入った。しかし、いつも姿は見せない。食事もドアの外に置いておくように指示されている。そして、ホームズが出した結果は、そのヒゲのはやした男は、すでにもうその部屋にはいない。いたのは、女の人間だった」 「今回は、男なんです。でも、ずっと同じ男らしいのです」 「では、何が変なのですか?」 「その『大宗」の女将さんが言うには、一週間前くらいに変な容貌の男が、『大宗』に来たそうなのです」 「変わって・・・?」 「つまり、その男は、帽子をかぶり、サングラスをかけ、マフラーで顔を鼻まで隠して、黒の手袋をして、黒のブーツを履いて、そして、大きめの黒い色のコートを着ていたそうです」 「まるで、犯罪者のように自分の身分を隠そうとしているようですね」 「そのようです」 「でも、逆に目立ちますよ。この二本松で、そんな格好をしていたら・・・」 「そうかもしれないな。極寒でもないとね」 「でも、目立ちすぎ・・・」 「そうですね。それに、彼は、両手に大きなバックと、事務用のバックを持って着たそうです。事務用のバックというのは、コンピュータでも入りそうなバックだったそうです」 「それで・・・?」 「そして、その男は、『少し長く滞在したい・・・』と言って、前金で10日分の宿泊費を払ったそうです」 「前金で・・・」 「そうです。そして、『一番、奥の部屋がいい』と希望したそうです」 「その男の希望は、かなったのですか?」 「丁度、一番奥の小さな部屋が空いていたので、そこに、もう一週間、滞在しているそうです」 「その男は、何をその部屋でやっているのですか?」 「女将さんも分からないそうです。しかし、『何日か滞在している人がいるか聞いてくる人間がいても、部屋に通さないで欲しいし、電話が来ても、つながないで欲しい』と、最初に言われたそうです」 「名前は、本名なんですかね?」 「分かりません」 「変な客という意味が分かりました」 「それだけじゃないのです」 「他にもあるのですか?変な所が・・・?」 「はい。その男が言うには、『掃除も布団の上げ下げも自分でするから、部屋に入らないで欲しい』とか、『食事は、部屋の入口に置いておいて欲しい』とか、言われたそうです」 「先程の、シャーロック・ホームズの小説に似ていますね」 「しかし、『大宗』の人間が、食事を下げに行くと、男はいつも、奥の机に向かって、コンピュータを打っているそうなんです。だから、顔もよく見ていないそうです」 「コンピュータオタクなんですかね」 私が、話に交ざる。しかし、2人に無視された。 「そして、何かあると、部屋の入口に紙がおいてあるそうです」 「紙が・・・」 「そうです。その紙も、ノートの切れ端だったり、何も書いていないコピー用紙だったり、原稿用紙だったりと、様々なようです。 「何が今まで、書いてあったのですか?」 「例えば、『郵便をお願いしたい』とか、『二本松ではなくて、福島か郡山で、郵便を出してくれ』とか、『小包を出してくれ』とかいう外部への連絡だそうです」 「その宛名は?」 「東京が多いと言っていました」 「毎回、同じなのですか?」 「その時によって、宛名は違っているそうです。でも、同じ東京の住所が多いと話していましたけど・・・。しかし、宛名の控えは、このようになると思わず、行っていなかったそうです」 「その郵便の大きさや小包の大きさは?」 「それが、普通の封筒の時はなくて、いつもA4版かB4版の封筒らしいです」 「その封筒の触り心地などは、聞きましたか? 「はい。封筒は、厚かったし、触った感じから紙か何か、同じ大きさの物が入っているようだと話していました」 「その『大宗』で働いている人の中で、その変な男性の顔を見た事がある人は、誰もいないのですか?」 「今の所、いないようです」 「珍しいですね」 「本人が、わざと、逃げているようなのです」 「じゃ、わざと、誰とも会わず。背中しか見せていないと・・・」 「そのようです」 「トイレやお風呂は?」 「それが、トイレは、気が付くと、行っているようだし、『大宗』のお風呂は、24時間、入る事が出来るので・・・」 「森川先生、そんなにお酒を飲んで、推理、大丈夫?」 「正式に依頼された訳じゃないから・・・」 「でも・・・」 「だいたい、答えは出ているさ」 「さすが、名探偵。相談して良かったよ」 団長の大河内さんが、先生の肩を叩いた。 「今、隣の『大宗』の女将さんをここに呼びますから、森川先生の推理を聞かせてあげて下さい。」 団長の大河内さんは、携帯を取りだし、呂律の回らない口調で電話をしていた。  少し経って、中年の女の人が大河内さんの隣に座った。 「大河内さん、こんな時間に呼ぶなんて、珍しいですね」 その女性が最初に話した言葉だった。 「すまないね」 「今日、お弁当を持って来てもらった時の、女将の疑問を解決してあげようとおもってね」 大河内さんは、機嫌がいい。 「こちらが、うちのオーケストラの指揮者で、名探偵という噂の高い二本松高校で教鞭を執っている森川先生」 先生は、首を少し前に曲げて、お辞儀をした。 「こちらが、旅館『大宗』の女将の尾形和子さん」 「すみません」 「この女の子が、自称『名探偵の助手』で、森川先生の学級の生徒で安藤なつさん」 私は、おどおどしながら、挨拶をした。 「あの変なお客の事が、彼を見ないでも分かったのですか?」 「完璧とは、言えませんが・・・。」 先生は説明を始めた。 「まず、その男が、正体を知られずに、この二本松に来た事は、確実です」 「なぜです?逆に、話題にされたかったのかも・・・」 「それはないでしょう。この二本松市には、有名な岳温泉があります。そこで同じ行為をすれば、瞬く間に有名になります。それに、二本松駅前にも、いつくかのホテルがあります。しかし、その男は、少し、駅から奥になっていて、小さな宿である『大宗』を選んで、宿泊した。だから、そう思うのです」 「まあ、大きい旅館ではありませんからね」 「すみません」 「いいえ、本当の事ですから・・・」 「でも、食事やお風呂の素晴らしい点や、料金の安さを考えて、『大宗』を選んだと思うのです」 「そうですか?」 「じゃないと、駅前のホテルを選択するはずです。旅館より、ホテルの方が、お客の顔を見られずに済みますから。それをしなかったのは、『大宗』さんのサービスをどこかで知っていたのか、以前に『大宗』さんに来て、知っていたのでしょう」 「なるほど・・・」 大河内さんが納得する。 「もっと、詳しく考えるなら、その男の人は、二本松市の出身の可能性がある。『大宗』のサービスも知っていたし、10日間、前金で宿泊代を支払えば、『大宗』さんに宿泊出来る事も知っていた。そして、一番の可能性は、二本松市に知り合いがいると困るので、顔を隠していると思うからです」 「そうかもね」 「そして、その男の人は、二本松市から郵便を出す事を、嫌がっていた」 「はい」 「福島や郡山から郵便を出してもらうように、お願いしていた」 「はい」 「それは、東京の相手に、自分が二本松市にいる事を隠したかった証拠ですよね。この二本松市の郵便局から郵便を出せば、消印に『二本松市』という記録が残る。だから、この男の人は、東京あたりから10日くらい隠れたくて、この二本松市に来たと考えるのが、適当だと思います」 「そうですね」 「そして、この『大宗』さんの一番奥の部屋で何かをしている」 「何をしているのでしょう?」 「たまに、用事があると、紙がおいてあるのですね」 「はい。部屋の入口に・・・」 「ノートの切れ端だったり、何も書いていないコピー用紙だったり、原稿用紙だったり・・・」 「そうです」 「でも、よく考えてください。ノートやコピー用紙はともかく、原稿用紙を持ち歩く人間は、滅多にいません」 「そう言われると・・・」 「安藤くん、原稿用紙を持ち歩く人間と言うと、誰を考える?」 先生は、いきなり私に振ってきた。 「国語の先生とか、大学の先生とか作家とかですか?」 「国語の先生は、この時期、10日も隠れる事は、考えられないよ」 「すると、作家ですか?」 「そうだと思います」 先生が微笑む。 「締め切りの追われた作家が、東京から逃げて、自分の知っている二本松市に逃げてきた。そして、料金が安く、サービスの良い『大宗』に宿泊した。そこで、集中して、コンピュータで作家活動をおこなっている。もう1つの大きなカバンには、プリンタでも入っていたのでしょう」 「筋は通っていますね」 女将の尾形さんも納得する。 「あのように、顔や容貌が分からないように『大宗』に来たのは、『大宗』に知り合いでもいて、顔を見られるのが嫌か、とても有名な作家で、誰かが知っている可能性があるからでしょう」 「なるほど」 「でも、プロ意識はあったから、出来上がった原稿は、きちんと東京の出版社に送ったのでしょう。それも、二本松市からではなく、福島市や郡山市から郵送してもらうようにお願いして・・・」 「何か、私達に出来る事はあるのでしょうか?」 「そのうち、仕事が終われば、帰るでしょう。だから、気にしないで、このままにしておいた方が、良いと思いますよ」  先生は、そこまで話すと、スクリュードライバーを頼んだ。私は、温かいウーロン茶を頂いた。  女将の尾形さんは、先生に感謝の言葉を残して、帰って行った。また、大河内さんも、大変ご機嫌で、来年の演奏会の曲について、演奏したい曲を、先生にくどいていた。  二次会が終わりに近づいてきて、三次会に行く準備を他の人達がしていた。 「安藤くん、帰るぞ」 私は先生とグリーンマンションに歩いていった。 「指揮者がいない方が、話したい事がある人間もいるのさ。だから、こういう飲み会では、指揮者や団長は、最後までいない方がいいのさ」 二本松市民オーケストラの定期演奏会の打ち上げは、午前まで続いたらしく、マンションの2階の廊下をドヤドヤと多くの人が帰っていく足音が私の眠気を妨げた。  翌日、12月6日、月曜日の朝。私はいつもより大分早起きをして、202号室のチャイムを鳴らした。私の予想通り森川先生はまだ準備の途中らしく、二日酔いの顔で玄関に現れた。 「あと、5分待ってくれ。急いで支度するから・・・」 先生は、玄関のドアをそのままにして、私の前で躊躇なく着替え始めた。私は、既に、12月の上旬になっていたので、コートをしてマフラーに手袋という完全防備の服装でいたが、今年は暖冬ということもあり、雪などは、まだまだ降ってこなかった。  森川先生の玄関には、私が昨日の演奏会の時に贈ったカスミ草の花束が飾られていて、なぜか私の心をホッとさせていた。わざわざ、数ある中から私の花束を選んで、玄関に飾ってくれるなんて・・・。まあ、偶然にしても少しうれしかった。  そして、部屋の中から出てきた先生の両手には、花束がいくつか抱えられていた。 「安藤くん、丁度良かった。これ、持ってくれる」 先生は、その花束を私に預けた。 「花屋のアルバイトか」 まだ先生は花束を抱えてきたので、仕方がなしに先生と2人で花束を持って、高校へと歩き始めた。 「先生、どこかにこの花束、売りに行くんですか?」 私は冗談で尋ねた。 「はいはい」 笑顔で言い返してきた。高校までの道のりを、2人で花屋のアルバイト姿の私達は、みんなの注目を浴びていた。  高校の玄関まで来た。 「安藤くん、1つは教室、もう1つは図書館に飾ってくれないか。教室の前のロッカーに花瓶が入っているはずだし、図書館は片平月美先生に聞いてくれ」 花束を持った森川先生は、職員玄関に消えていった。 「はーい」 少し機嫌良く答えて、昇降口から入っていった。そして、また、誰も登校していない教室で森川先生に会った。 「安藤くん、毎日、朝、水を交換してくれないか。そうすれば、生花は長持ちするから。あっ、それに、司書の片平先生には、『演奏会、聞きにくれて、ありがとうございました』と、私が言っていた事を、伝えてください」 「はいはい」 「『はい』は、1回ね」 森川先生にそう言われてしまった。  私は、図書館用の花束を持って、教室を出た。しかし、どうも、私は森川先生の使い走りのようだった。  音楽の時間、音楽室に花束が飾ってあった。授業中、音楽の松村美香子先生はずっと昨日の演奏会の話をしていた。森川先生の指揮の事、曲の説明や、演奏会をする難しさなど・・・。そして、森川先生の音楽性を褒めちぎっていた。やはり、松村先生は、昔の森川先生の事を何か知っているらしいと、私は感じた。  また、理科室にも花が飾られていた。それから、お昼休みの地学準備室にも。森川先生はカフェオレのカップを机の上に置いたまま、昼寝をしていた。大分、昨日の疲れが溜まっているようだった。それとも、飲み過ぎたのか・・・。  しかし、なぜかその寝姿からは、森川先生の優しさが伝わってくるようで、憎めない人だと思った。それに、この花束の心配り方など・・・。  それからまた、私達、高校生は二学期の最後を飾る期末考査の時期に入った。そして、また、図書館は賑わいをみせていた。  私も期末考査で赤点を足らないように、必死で勉強した。期末考査次第では、冬休みに登校し、補習を受けなければいけないと、先輩方に聞いたからである。私は久しぶりに勉強に集中したせいもあり、森川先生の部屋に行く事がなくなった。    週の土曜日。いつものように「アンダンテ」で、先生とお昼を食べていた。マスターお気に入りの一条のり子さんは、同じ時間にキッチン前のカウンター席に座った。そして、二本松市民オーケストラ団長の大河内さんと、旅館「大宗」の女将、尾形さんが、「アンダンテ」に入って来た。 「先日は、ありがとうございました。森川先生に話していただいたように、あのお客さんは、有名な作家さんでした」 「そうでしたか・・・」 先生がカフェオレの入ったカップをあわてておく。 「でも、名前は伏せて欲しいという事なので、言えませんが・・・」 「それは、結構です」 「あのお客さんが帰る時、森川先生の話をしたら、大変、驚いて、『森川先生の住所と名前を知りたい』と、いう事なので、教えてしまいました。よろしかったですか?」 「まあ、大丈夫でしょう」 先生は、飄々と答えた。 「では、これで失礼します。貴重な時間、すみませんでした」 そう尾形さんは話すと、大河内さんと帰って行った。  翌週、先生の部屋には、東京から郵便物が届いていた。私は、後から見せてもらおうと思って、その郵便物を眺めていた。 難関の期末考査が終了した。14日、火曜日の朝を、私はホッとして迎えた。それは、自分自身、期末考査がなかなかの出来映えだったと思ったからだ。期末考査のために、とても集中した事もあり、充実感があった。久しぶりに、昼休み、地学準備室に行くと、昼寝をしているものと思っていた森川先生が起きて、カフェオレを飲んでいた。そして、 「安藤くん、今回の期末考査の数学、頑張ったようだね。数学、満点だよ」 驚いた。あの苦手だった数学が満点だなんて・・・。別に森川先生に問題を見せてもらった訳でもないが、少し自信がついたような気がした。 「今回は、今までより少し気合いを入れたのです。しかし、他の教科はまだ、分かりませんが・・・」 「他の教科の先生方も、安藤くんの事、ほめていたよ。期待していいんじゃないかな」 そんな風に森川先生に褒められるのは、最近では全くなかった事なので、気味が悪かった。しかし、この12月の寒さの中、地学準備室の外の弓道場では、弓道を練習する、2人の弓音が聞こえていた。  3年生が引退し、あのグランドマンションに住む2人の2年生が男女それぞれの部長になったと聞いた。 「で、安藤くん、何か私に用事があってきたんじゃないの?」 森川先生にそう言われ、やっと自分の用事を思い出した。そして、窓の外の弓道部の方から、森川先生の方へと、向きを変えた。 「先生、今日の夜、空いていますか?少し、疑問な点があるので・・・」 「またですか・・・。勉強の事では、なさそうだね・・・。今日は大丈夫だよ」 「先生方って、最近は忙しいんですか?」 「まあ、年中忙しいけど、今は期末考査の結果や成績、そして特に金、土曜日は忘年会が多いからね」 「日曜日もですか?」 「日曜日は、違うけど・・・」 「それじゃ、分かりました。今日、帰ったら、メールをください。何時頃ですか?」 「7時から8時くらいかな」 「では、お願いします」 私は丁寧に挨拶をすると、地学準備室を出た。私は、今日、貸し出し当番になっている図書館に向かった。図書館は、期末考査が終了しても、来月から始まる大学入試に向けて勉強している3年生で、溢れていた。カウンターの隣に座っていた國分有香がボーッとしていた。 「どうしたの?有香、ボーッとして?」 私は、元気のない有香に声を掛けた。有香は目をうるうるさせながら、 「谷川先輩ね。東京の大学、受験するって。だから、私と一緒に過ごせるの後、3ヶ月くらいって言われた。どうしよう?」  あの図書部の旅行以来、有香と谷川先輩は、ずっと付き合っていると、有香から聞いていた。しかし、キス以上は発展しなかったようだ。 「受験勉強の邪魔をしたくない」 最近は谷川先輩から声が掛からないと、会わないらしい。 「でもね、星先輩は二本松大学を受験するんだって。地元の国立大学に進学するなんて、親孝行だって、うちの親が言っているし、それに、もし、彼女が後輩なら、彼女、思いでしょう」 「有香、星先輩の彼女、知っているの?」 「知らないわ。いるか、どうかも分からないし。でも、Mr二本松高校に選ばれるくらい先輩だから、女の子の1人や2人は、その気になれば、何とかなるんじゃない。  それより、私よ。どうよう。最近、谷川先輩からメールは来るけど、その内容、段々短くなってきているし・・・」 「あのさあ、有香。今は受験勉強に集中させてあげたら・・・」 私は、有香を励ましたが、目は司書室にいる片平先生を見ていた。片平先生は相変わらず、新しくきた本の、図書分類に忙しそうだった。 「近くに好きな人がいる幸せか・・・」 「えっ、何?なっちゃん」 「何でもないわ。有香」 私は有香に言ってはみたものの、自分の心の中では、有香が話したことを繰り返してみた。 「なっちゃん、どうしたの?ボーッと天井なんて見つめて。何かいるの?」 「ううん。何でもないわ。期末考査の結果が気になっていただけ・・・」 「私だって、気になるわ。前回の中間考査が大変だったから、今回の期末がヤバイと・・・」 有香も必死になって今回、勉強をしたらしい。  午後7時30分、先生からメールが来た。私は、自分の部屋の鏡で服装をチェックしてから、202号室のチャイムを鳴らしに行った。  202号室の玄関には、もう既に私の花束はなかった。 「もう、あれから随分経つし、当たり前か」 いつもの席に座った。いつもと同じように、森川先生、台所でカフェオレとミルクティーを作ってくれていた。  奥の机の上を見ると、演奏会で私が森川先生にあげた花束がドライフラワーになっていた。それを見て、なぜか心がほっとしてしまった。 「安藤くん、ここに来るのも久しぶりだね」 「そうですね。勉強に力、入れていましたから」 「だから、少し痩せたのかな?」 「そう言っていただけるだけで、うれしいです。社交辞令でも」 「そうなの?」  私は、今日、202号室に来た本当の理由を思い出し、森川先生に尋ねた。 「先生、それより、地学の斉藤広先生から宿題が出て、困っているんです」 「それこそ、安藤くんの得意分野だろう。地学準備室と図書館に自由に出入りできる君が、一番解ける問題だろう」 「それが、本とかには載っていないんです」 「で、どんな宿題?」 「『なぜ、夕日は大きく見えるのに、昼間の太陽は小さく見えるのか』って。前に同じような問題を私に出した森川先生なら、解けるかなと思いまして・・・」 「簡単じゃないか。太陽が、寝る前に地球に寄ってきて、『おやすみなさい』って挨拶をするからだよ。だから、朝の太陽も夕方と同じく、大きく見えるのさ。『おはようございます』って挨拶に寄ってくるから・・・」  私は、この森川優という人間に、呆れてものが言えなかった。この前の夕日の話といい・・・、今回の解答といい・・・。 「私はバカにされているのか!」 そう思ってしまった。 「安藤くん、何て宇宙は、神秘的なんだろうね」 やはり、森川先生は、私をバカにしていた。 「先生、私は、本当の事を聞きたいのです。神秘的とかロマンチックな事ではなく」 「安藤くん、錯覚だよ」 「何が錯覚なんですか?」 「だから、人間の目の」 「太陽の挨拶がですか?」 「そう」 「何がそうなのですか!」 「だから、太陽みたいなあんな大きな物体が、大きくなったり縮んだりするわけないだろ。まさか、地球が太陽の引力に負けて、寄っていくわけもないからね。そんな事をしたら、人類は滅んでしまうさ。  本当の太陽の見た目は違わないのさ。何が変わるって、私達、人間のいい加減な目が変わるのさ。つまり、錯覚さ」 「意味がわかりません」 「昼間の太陽はどこにある?」 「上です」 「夕方の太陽はどこにある?」 「横です」 「安藤くんの答え方もいい加減だね。人間の目と同じだよ。」 私は、少しムッとしていた。森川先生は、話を続けた。 「つまり、昼間の太陽は、私達の頭上にあって、その周囲には、見えるものは何もない。まあ、本当は星がたくさん見えるけど、太陽の光があまりにも強くて見えないから、太陽しか見えない。  しかし、夕方や朝方の太陽は、地平線の近くにある。つまり、私達人間の目には、太陽だけじゃなくて、地平線や山々や、その近くにある建物などが太陽と一緒に目に映るのさ。  だから、人間の目は、太陽とそれらの物を勝手に頭の中で比べるんだ。だから、私達の頭の中で大きいはずの太陽と、太陽と一緒に移る地平線や山々、建物を比べて、それらのものがとても小さく見えて、太陽が大きく見える。昼間の太陽は、周囲に比較する物が存在しないから、小さく見えてしまうんだ。だから、人間の目の錯覚さ。以上、証明終了。QED」  森川先生の話している事は良くわかった。さすが数学の先生?でも、何で数学の先生がこんな理科の分野までわかるんだ?大学時代は、生物科だったとしても・・・。それも何も「QED」 までつけなくても・・・。私は忘れないように、持ってきたノートに書き始めた。  森川先生は既に、3杯目にカフェオレに入っていた。そして、いつの間にか、私にもミルクティーを注いでいてくれた。 「先生、実は、ミステリーがあるんです」 「ほお、安藤くんにも解けない謎がこの世に存在するのか?」 「先生、それって嫌味ですか?」 「で、安藤くんにも解けない謎って何?」 森川先生は、やはり、私の話題に興味を持ったようだ。根っから、このようなミステリーが好きな性格だという事は分かっていたから・・・。 「あのですね。このグリーンマンションの事なんです」 「へえ、このマンションがね」 「はい。このグリーンマンションは、セキュリティシステムがあって、玄関の1枚目のドアを入ると、自分の部屋の暗証番号を入力するか、行きたい部屋の番号を押して、その部屋の中にいる人に、2枚目のドアを開けてもらわないと、マンションに入れませんよね」 「そうだね」 「そして、この1階は、レストラン&カフェの『アンダンテ』と駐車場になっていますから、人が住んでいるのは、私達がいる2階より上ですよね」 「そうだね」 「2階より上に行くには、エレベータを使うか、非常階段をしようする他、ないですよね。それも、1階の外からは、鍵がないとその非常階段の扉は開かない。中からは開きますが」 「そうだね」 「でも、その非常階段って、外にあるじゃないですか。今、まだそんなに寒くないけど、最近、うっすらと雪も積もりましたよね。朝だけですが」 「そうなの?そんなに早く、安藤くんは起きたの?」 「期末考査のためにです」 「で?」 「3日前なんですが、私、6時頃たまたま玄関を開けて、廊下に出たのです。そして、非常階段の所まで行くと、うっすらと積もった雪の上に足跡があるのです。それも、上から下に行く。上がっていった足跡はなかったんです」 「それは、上から降りてきたんだろう」 「しかし、2日前も同じで、非常階段を下りていく足跡しかなかったのです」 「それで?」 「私、それで気になって、その非常階段を上に上がってみたのです。そしたら、何と、その足跡は、6階の最上階から続いていました。どう思う?」 「どうって?」 「普通、こんな寒い時、6階の人が非常階段で下りてくると思いますか?エレベータで降りてくるよ。誰だって」 「よく確認したね。忙しいのに・・・」 「はい、大変でした。何せ、ここのエレベータ、途中の階で一度、エレベータの外に出ると、自然にドアが閉まって、一階戻る仕組みになっているので。エレベータを出て、離れると勝手にドアが閉まっちゃうでしょ。何回もエレベータのボタンを押しましたよ」 「それで、名探偵の安藤くんの推理は?」 「グリコです」 「何、それ?」 「お手上げです。分かりません」 私は、ピンクのティーカップをテーブルの上に置くと、両手を上に上げた。先生は、その私に手を見つめた。 「安藤くんの観察力は素晴らしいね。適切な所をしっかりと観察している。それに、物体を目だけでなく、脳にまでしっかり記憶させている。その事が素晴らしい。  しかし、後、欠けているのは、その事実を組み合わせる能力かな・・・」 私は、ほめられたのか、けなされたのか分からなかった。しかし、一応、文句は言わず、先生の推理を待った。何か反論すると、それの百倍も返ってきそうなので、辞めておいた方が良いと思ったし、横道にそらされそうな気もしたのだ。 「安藤くんの謎は、まとめると、なぜ、降りる足跡しかないのか?なぜ、その時間帯なのか?なぜ、2日続きなのか?なぜ、6階からなのか?なぜ、エレベータを使用しないのか?という点かな。  しかし、解答は全て、安藤くんの話の中に入っていると思えるのだが・・・」 「えっ、私の話に解答があるのですか?」 「多分ね」 「という事は、先生はもう解答が分かったんですか?」 「でも、100%じゃない。証拠もない。全て空論さ。でも、かなりの確立で当たっていると思うけどな」 先生はすでに、5杯目のカフェオレの準備をしていた。 「安藤くん、トイレの場所はわかるね」 私は、我慢していたので、速攻でトイレを借りた。でも、なぜ私がトイレに行きたいのか分かったのか?やはり、森川先生は普通の人間じゃないかも・・・。  私がトイレから出てくると、テーブルの上に置いたピンクのティーカップには、温かいミルクティーが準備されていた。さすが気配り名人。 「安藤くん。私の考えを話そうか・・・」 「はい、是非、お願いします」 私は、懇願した。 「その足跡を付けた人を、仮に『彼』としよう」 森川先生は、私に、話し始めた。 「その『彼』が降りる足跡しかなかったという事は、2つの事が考えられる。  『彼』がこの6階に住む住人だということ。または、外から来た『彼』が、上りはエレベータを使用して、6階まで行ってということ」 「そうですね」 「でも、『彼』は下りの時、非常階段を使用する方法を選んだ。それは、先ほど、安藤くんが話した事で結論される」 「私、何か言いました?」 「言ったよ。一度、その階で降りると、自然とエレベータは1階に戻ってしまうと・・・」 「それが何か関係するのですか?」 「大有りさ。そのために、『彼』は非常階段を使用せざるお得なかった。つまり『彼』は6階から1階へ一気に下りたのではなく、1階1階、つまり6階から次は5階へと、1階ずつ用事があったのさ。それも、急いで。  エレベータを使用して1つの階で降りてしまうと、エレベータはまた元の1階へ戻ってしまう。ボタンを押して戻ってくるのを待っている暇が面倒だったのさ。それで、非常階段を使用した」 「すると、『彼』は2日も続けて、このマンションで何をしていたのですか?それも、早朝、ストーカーですか?」 「何を言っているんだ。『彼』は2日間じゃないよ。毎日、そうやっているのさ」 「毎日ですか?」 「そう。『彼』は毎日、朝早く、同じ階の部屋を回って、新聞を配っているのさ」 「でも、そんなの、1階の入り口のポストに入れておけば、いいじゃないですか?普通、マンションはどこでもそうですよ」 「それが、このグリーンマンションでは違うんだな」 「何が違うのですか?」 「引っ越してきた時、チラシが入っていなかったかい?『グリーンマンションに引っ越してきた皆さんへ!二本松新聞をとると、毎朝、部屋まで新聞をお届けします』というのを・・・」 「そう言われてみると、あったような・・・。でも、なぜ、それが出来るんですか、彼に。だって、暗証番号か、早朝に誰かドアを親切に開けてくれないと、このグリーンマンションには入れないのですよ」 「だから、『彼』はこのグリーンマンションの住人なのさ。  そう、チラシにも書いてあったじゃないか。だから、このグリーンマンションの人はほとんど、『二本松新聞』をとっている。『彼』は、朝、起きると、1階に配達された新聞をまず、6階に持っていく。そこまでは、足跡がつかない。しかし、6階の各部屋に持って行く時、足跡がついてしまう。それからは、今、説明した通りさ。  安藤くんは、二本松高校の図書館で毎日、新聞を読めるから、新聞をとっていないようだけど・・・」 鋭い所をつかれた。まさしくその通り。でも、森川先生に言われてみると、全て納得してしまった。さすが、警察までもが認める名探偵。それとも、私がただバカなだけかも・・・。  時計はすでに10時を回っていた。今日は、以前のように、203号室に泊まる訳にいかず、そっと気になる事を甘い声で聞いてみた。 「先生、今月の24日の夜、誰かと過ごす約束なんて、もうしてあるのですか?」 「24日?金曜日だけど・・・。今の所、何の予定もないし、人と会う約束もないよ」 「それじゃ、お願いがあります。その夜、私のために空けていただけますか?」 あまりにも、とんでもない事を我ながら、言ってしまったと後悔した。 「急な予定がなかったら、いいよ」 あっさり先生は承諾してしまった。森川先生は、その日が何の日か知っているのか!その日は、クリスマス・イブだぞ。いいのか・・・。 「急な予定が入っても、私の予定と優先させてください」 またまた、思い切った事を、調子に乗って発言してしまった。 「はいはい、分かりました。時間はいつ頃から空けておけばいいの?」 「先生の都合は?」 「いつでも」 「それじゃ、午後全部」 「午後全部って12時から、夜中の零時まで?」 「それじゃ、午後6時頃からで。夕食、作ってきますから、楽しみにしていてください」 「はいはい、分かりました」 「先生、今日はありがとうございました。いろいろ、勉強になりました。さすが、名探偵ですね。更に私の中にある森川優のレベルが、上がりました」 「そうかい、ありがと。気をつけてね。寝坊しないように・・・」 「先生こそ。おやすみなさい」 「はい、おやすみ」  先生は、私の部屋が隣なのにもかかわらず、私が部屋に入るまで、玄関の外に出て私の姿を見守っていてくれた。さすが、気配り名人。私のドアの閉まる音に続いて、202号室のドアの閉まる音がした。  私はまた、森川先生の優しさに寄りかかってしうのか?でも、彼の頭脳はすごい。そう感じた夜だった。  私は、24日の事が気になり、ドキドキして眠れなかった。森川先生の今、一番欲しい物って何だろう。何でも先生は持っていそうな気がする。誰に聞いてみよう。合唱部の松村先生や天文学部の春美先生なら、昔の森川先生の事を何か知っていそうな気がする・・・。そう思って、松村先生にメールをしてみた。  夜が更けていった。    私は翌日の朝、とても早起きして、パジャマの上にジャージを着て、6階から非常階段を下りてくる、新聞配達の男の人を確認した。私は、軽く挨拶をして、また、部屋に戻り二度寝してしまった。気が付くと、203号室のチャイムが鳴っているのがわかった。  目をこすって玄関を開けると、そこには森川先生が立っていた。森川先生は既に、背広姿で登校スタイルになっていた。 「こんな事だろうと思ったよ。早く、シャワーを浴びないと、間に会わないぞ。私は先に行くからな。遅刻しないように・・・」  先生は勢いよくドアをしめた。私は時計を見て、急いでシャワーを浴びた。
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