117.第11話「二本松神社の幽霊」

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117.第11話「二本松神社の幽霊」

4fb3bc10-86b1-43f2-bcb0-79f9d8f5d7b7  12月24日、午後6時、202号室のチャイムを鳴らした。両手がふさがっていたが、森川先生はすぐ玄関のドアを開けてくれた。 「どうしたの?そんなに・・・」 「今日の夕食の材料とか、いろいろです」 私は、そのまま部屋に入り、テーブルの横に勝手に荷物を広げた。森川先生は、いつものようにコーヒー豆を挽くとコーヒーを作り、私のためにダージリンをティーポットに入れ、沸騰する直前で止め、牛乳を注いでくれた。私は森川先生を呼んだ。しかし、森川先生はゆっくり準備をして、ミルクティーを持ってきた。私は、テーブルの上にできたてのピザとナポリタンを準備しておいた。 「飲み物を準備するの、早かったね。ごめんね、安藤くん」 「いいえ。大丈夫です。それより、これが今日のクリスマス・イヴのために作った私の料理です。さめないうちに食べてください」 「すごいじゃないか、安藤くん。料理ができるなんて・・・」 「一応、1人暮らしをしていますので・・・。それに『アンダンテ』で、何回も見ていますし。でも、味は保証できません」    ガーリックの利いたピザを食べ始めた。 「美味しいマルガリータだ」 森川先生は、喜んでくれた。 「先生、これ、私からのクリスマスのプレゼントです。いつもお世話になっていますから」 私は緑色の手編みのマフラーを森川先生の首にかけた。 「編み物もできるなんて、安藤くんは、すごいじゃないか」 「すごいでしょ。先生の好きな色で編んでみました」 「ありがとう。使わせてもらうよ」 そう言うと、森川先生は、一度首にまいたマフラーを片付けた。 「これは、私から安藤くんへのクリスマスのプレゼントです。どうぞ」 私は森川先生から貰った包みを開けると、銀色のペンダントが出てきた。 「先生、私、ペンダントしたことないので、付けてくれますか?」 私はおねだりした。ペンダントをかける森川先生の手が震えているのがわかった。私は今日に限って、胸元が開いている服を着てきた。わざと・・・。 「先生、手、震えている」 私は森川先生の手を握った。 「森川先生、ケーキもありますからね。これも私のお手製のミルクレープです」 やはり、森川先生はミルクレープが大好きだった。松村美香子先生からの情報は間違いなかった。  2人でいろいろな話をした。ケーキを食べ、カフェオレとミルクティーを飲んだ。 「森川先生、クリスマス・イヴですから、シャンパンでも飲みませんか?先生という立場ではダメですか?」 「そんな事ないよ」  私はまた少しおねだりをしてみた。森川先生は少し変わった新しいグラスを2つ準備してくれた。私は昔から父がアルコールを飲ませていた。大きくなっていきなりお酒を飲んだら、急性中毒になるからと話していた。  「安藤くんは、アルコール、大丈夫なんだね」 「父が、大学に行くと、いきなりお酒を飲まされるから、今のうちに練習しておいた方がいいって、中学生の時から飲まされていました。  父は、大学入学の時、大変だったらしいのです。最初の飲み会で、朝、気が付いたら、知らない先輩の家にいたそうで・・・。だから、家でなら認めるから、飲んでおけって。でも、喫煙はしていませんよ」 「すごい考えのお父さんだね」 「姉もそうでした。知っていたでしょう・・・」 森川先生は無言だ。 「でも、先生って変ですよね。先生に怒られると思いました。『高校生なのに』って・・・」 「安藤くんは、私に怒ってほしかった?」 「そんな事ないです。でも、私はそんなに飲めるわけじゃないですから。代わりに先生はどんどん飲んでください」 「・・・」 「そういえば、昔、音楽の松村美香子先生と付き合っていたのですか?」 「誰に聞いた?」 「本人です」 「他の人には秘密だ。面倒くさいから・・・」 「はいはい、分かりました。今日の素直な先生の行動で、許してあげましょう」 「安藤くん。私の話し方に、最近、似てきていないか?」 「さあ、どうでしょう?好きな人や憧れる人に、行動が似ていくそうです」 「誰に、言われたの?」 「片平月美先生」 「片平先生に何を相談したの?」 「内緒です」 「それより、私にお酒を飲ませて、何をされても責任、持てないよ」 「大丈夫です。好きな人に体を預けてみろって、言われました。森川先生を絶対、離すなって」 「誰に?」 「図書部の交流会で行った『みどり屋』の女将の青山櫻さんに・・・」 「お前達、何を話していたんだ?」 「森川先生の事」 「安藤くん、あまり挑発しない方がいいよ。いつもより、胸元の開いている服は着てくるし、制服より少し短いスカートは、はいてくるし・・・」 「わかりました。特別な日には、女は覚悟を決めるのです」 「それは、誰に習ったの?」 「先崎春美先生です」 「いつ?」 「11月の天体観測の時。いろいろ、森川先生の事、知っているみたいでしたよ。ただの大学の先輩と後輩というだけの関係じゃないような・・・。何かあったのですか、春美先生とも。隅に置けませんね。もてる男は・・・」 「安藤くん、相当、酔っているだろう。いつもと大分、違うぞ。いつもは、そんな言い方をしないだろう」 「だから言ったでしょ。特別な日にしか、言えない言葉もあるって・・・」 私は少し酔っていたのは事実だ。 「先生、今日は高校生より、女を意識した服装できてみたんです。どうですか?少しは、『なつ』に女を感じますか?」 「ビデオに撮って、正気の時の安藤くんに見せるぞ」  森川先生は時計を見た。私のシャンパングラスは、すでに空いていた。 「ちょっと待っていて・・・」 森川先生は部屋を出て、すぐに帰ってきた。 「先生、何をしてきたの?」 少し口が回らない。 「内緒」 「今日は、いつもと違って内緒っていうのが多い!」 「後で、答えがわかるから・・・」 「まさか、私の部屋で下着泥棒?」 森川先生は、一発、私の頭をこづいた。   森川先生が私に水を飲ませる。 「なつ、201号室が見たいと言っていたね」 「はい」 「それじゃ、見に行こうか」 「いいのですか?」  森川先生は、私の手を引くと、そのまま202号室を出て、201号室に入っていった。201号室は温かかった。先程、森川先生が来て、暖房をつけてくれたのだろう。気遣い名人だ。 「へえ、201号室って、こうなっているんだ」 私は少し感動した。201号室の部屋の壁一面には、本棚が敷き詰められ、二本松市民オーケストラで使用した楽譜が所狭しと入っていた。また、今までの演奏会のポスターやプログラム、そして小物の打楽器や私の楽器が大量に置かれていた。先日、演奏会の打ち上げの後も、まだ、残っていた。 「まだ、片づいていないんだ」 私は素直な感想を話した。壁に掛かっていた時計が12時になった。 「安藤くん、お誕生日、おめでとう、16才だね」 「森川先生、ありがとう。先生に一番初めにお祝いしてもらいたかったの」 私はまた甘えてみた。私の携帯のマナーがなり始めていた。多分、美咲や有香からのお祝いメールだろう。私は携帯に出なかった。  私は、近くにあった椅子に座った。 「これから演奏する曲は、天才バイオリニスト、パガニーニの作曲した『24の奇想曲』の中の最後の第24番目の曲。  この曲は、変奏曲になっていて、有名な最初のテーマが11回、変奏している。100年前、パガニーニはヨーロッパ中を演奏旅行し、各国の人を驚かせた。彼の作曲したバイオリンの曲は、当時、難しすぎて、彼にしか演奏できなかったらしい。  でも、今では、演奏できる人はたくさんいる。安藤くんのお姉さんの玲も、演奏できるさ」 「ですね」 「それでは、『安藤なつ』へ、誕生日プレゼント」 森川先生がそう言うと、私は拍手をした。  4分の2拍子の有名なテーマ。そして、第1変奏、第2変奏と続く。最後の第11変奏まで演奏が終わった。上手だった。玲姉と同じくらいに・・・。 「今までの誕生日プレゼントの中で一番、良かったです。ありがとう、先生」 アンコールを言おうと思っていると、先生はバイオリンを片付けてしまった。 「先生は冬休み、何か予定はあるのですか?」 「知り合いの弁護士に頼まれてね。東京に人探しに行かないといけないんだ」 「先生という公務員がそんな内職していいのですか?」 「内職じゃないよ。ボランティアさ」 「ふ~ん」 私は202号室の後片付けをして、部屋に戻った。    翌日、12月25日。私は福島市にある実家に戻った。実家で年を越した。玲姉も実家に戻ってきた。色々な話を聞いた。  2011年、1月6日、木曜日。いつもより早く3学期が始まった。私は、毎朝、早起きし、森川先生と一緒に登校する事を今年の自分への約束にした。今日は、森川先生が202号室から出てくるより早く、外に出て、一緒に行く事に成功した。先生はコートを着ていたが、その中に私が編んだ緑色のマフラーをしてくれていた。朝から気分が良くなっていくように感じる。久しぶりの高校までの道のりは、冬休みにずっと家にいた私にとって、大変だった。運動不足を感じた。 「先生、人捜しはどうでした?」 「まあまあかな」 「見つけたという事ですね」 「ああ、見つかった」 先生は相当疲れているようだった。 「先生、今度一緒に、隣の二本松神社に、初詣に行きませんか?もちろん、昼間ですけど。土曜日か日曜日。誰かに見られたら、偶然会ったって言えばいいし・・・。  いつも二本松神社の隣に住んでいて、行った事ないし」 「それでは、予定表を確認しておくよ。お昼にでも地学準備室に来なさい」 「はーい」  私は、久しぶりの学校への、誰も歩いていない道を森川先生と2人きりで歩いた。3年生の半数以上は、既に大学入試などで、学校には来ていない。 朝、1年2組に行くと、既に何人かが登校していた。私は机の中に教科書を入れ、いつものように図書館に行こうとすると、机の中に封筒が入っているのに気が付いた。周囲を見渡し、誰も見ていないのを確認すると、自習用のノートにその封筒を隠して、教室を出た。図書館に行く途中、その封筒を見ると、宛名は「安藤なつ様」となっているが、差出人の名前はなかった。それ以降、何故か、その封筒の事は忘れてしまった。  昼休み、地学準備室でカフェオレを飲んでいる森川先生と話した。 「明後日の土曜日、『アンダンテ』で昼食を食べた後なら、時間が空いているよ。」 「分かりました。で、今日の夜は、空いていますか?」 「遅くてもいいなら?」 「それじゃ、帰ったら、メールをください」 「はいはい。それより、今日、天文学部の定例会だから、忘れないように・・・」 「はい。森川先生。これから図書部の貸し出し当番なので、これで失礼します」 「分かった。でも、その言い方、私の真似?」 「癖です」  私は礼儀正しく地学準備室のドアを閉め、急いで図書館に向かった。  図書館は、大学入試のために勉強をしている3年生であふれていた。もちろん、部長の星高陽先輩はカウンターで自習をしているし、司書の片平月美先生は隣の司書室で、星先輩を心配そうに身ながら片付けをしている。やはり、星先輩の進路が気になるのだろう。  副部長の谷川英一先輩もカウンターで自習をしているが、その隣で國分有香がべったり、寄り添っている。有香は私が来た事に気が付いて、私をカウンターの奥に呼んだ。 「これ、渡してって頼まれたの・・・」 茜色の封筒を私に渡した。 「誰から?」 「知らない」 「何故?」 「ここのカウンターに、『なっちゃんに渡して』って置いてあったから・・・」 「何、それ・・・」 私は、封筒を裏返して差出人を見たが、名前は書いていなかった。 「なっちゃん、有香ちゃん、ちょっと手伝って・・・」 司書室から片平先生の声が聞こえた。私は、その封筒を先ほどの自習用のノートに挟むと、司書室に行って、有香と片平先生の手伝いを始め、封筒の事はまた忘れてしまった。 放課後の天文学部の定例会は、来年度の天体観測の予定を決める事だった。3年生が卒業すると、1年生が3人しかいないので、天体観測に詳しい田中一男くんと安斎順くんが予定を考えてくれた。2人は予定を決めるとさっさと定例会を終了させた。私が最後に地学準備室に残り、鍵を閉めた。そして、私は地学準備室の鍵を返すために、管理室に寄って鍵を返した。それから、図書館には向かわずに、真っすぐ下駄箱に向かった。すると、私の下駄箱に一枚のピンク色の封筒が置いてあった。 「今日は、3通目だ。どうしたのだろう?」 3つ目の封筒を同じ自習用のノートに挟み、昇降口を出た。  図書室をいつもより早く出て、今日、部活動のない清水美咲と途中まで一緒に帰った。そして、3通の手紙の事を話した。 「なっちゃん、それきっとラブレターだよ」 「なっちゃん、可愛いからいいなあ。私なんて・・・」 美咲は冗談ぽく話した。 「私から見ると、美咲の方がスタイルのいいし、背も高いし、顔立ちがはっきりしていて、男からもてそうなのに・・・」 「なっちゃん、明日、その手紙の内容、教えてね」 二本松西小学校の角の信号で、美咲と別れた。  部屋に戻ると、私は気になっていた3通の手紙を自習用のノートから取り出した。  教室の机の中にあったのは、同じクラスの小野豊くんからで、まあラブレターと言えばそうなる手紙かもしれない。彼は野球部でスポーツ抜群のクラスの人気者だった。私以外でも、寄ってくる女子はたくさんいるのに。それにクラスの何人かの女子が、小野君を好きな事を知っている。  2通目の有香から貰った手紙は、図書部の2年生で、幽霊部員の清川隆先輩からだった。 「友達として付き合いたい」 手紙にはそのように書かれていた。まあ、これも一種のラブレターだろう。でも、ゲームオタクの清川先輩はちょっと・・・。  3通目の地学準備室に置いてあった手紙は、今度、天文学部の部長になった田中一男くんからだった。まあ、これも一種のラブレターなのであろう。でも、どうやって断ろう・・・。  3人共、「返事が欲しい。私の写真が欲しい。写メを撮ってもいいか?」と、書いてあった。少し、気味が悪いので、写真は全く考えなかったが、手紙はどうしよう・・・。また、メルアドも書いてあり、「できれば、返信を・・・」と書いてあった。面倒くさがりの私は、もちろん、無視してしまった。「まあ、後で隣の住人に相談してみるか・・・」と、思って、今日はいつもより多めに出た宿題を片づけ始めた。  私の性格上、宿題は出されたその日のうちに行わないと、気が済まないというか眠れない人間だった。他の人にノートを貸すことはあっても、借りることは決してなかった。どうしても分からない時は、202号室に駆け込むという卑怯な手も、高校生になって覚えたので、今まで何回か森川先生には世話になっている。それに、数学以外の教科の事を聞いても、森川先生からは、「知らない」という言葉を聞いた事がなかった。「自分で考えたら・・・」とか「この参考書で・・・」と、言われたことはあるが・・・。  古典の現代訳が終了し、宿題の最後の因数分解に入った時、森川先生からのメールが届いた。何故か先生とこんな関係にある今の自分が、とてもわくわくし、嬉しかった。そして、とても人生を楽しんでいるような気がした。私は、森川先生から出された因数分解の宿題と、例の3通の手紙を持って、202号室に行った。    既に、先生は私のためにミルクティーを準備していてくれた。 「先生、毎日、帰りが遅いですね」 「会議が毎日、入っていてね。いろいろな考えの先生がいるから会議が長引いて・・・で、何の相談?」 私はいきなり3通の封筒を取り出した。 「ジャーン。今日、いきなり3つもラブレター、もらっちゃった」 少し自慢げに言ったが、先生は全く動じなかった。 「人間は、人生の中で3回、もてる時期があるというから、その1回を安藤くんは今日、使ったね」 あっさり言われてしまった。私にとっては少し拍子抜けだったが、ある程度、そのような答えを言われると思っていた。しかし、この人は、気をもむとか、焼き餅を焼くとかは、ないのだろか?また、相手は誰とか、聞かないのだろうか? 「みんな、バレンタインデーが近いから、焦っているんじゃない?」 留めの一発を言われてしまった。そう言われればそうかもしれない。あと1ヶ月、彼女のいない男にとっては今のうちに・・・。と言うことは、みんな、私は、彼氏がいないと思っているという事になる・・・。それも、ちょっと嫌だなあ・・・。 「で、安藤くん、相談って何?」 「あのですね。この3人にどう、断ればよいかと思って・・・」 「断っちゃうの?」 「だって、・・・」 「一方通行かもよ」 「それでもいいんです」 「それじゃ、『好きな人がいる』って、はっきり断ればいいじゃない」 「もし、『誰が好きなの?』って、聞かれたら?」 「人には、はっきり言ってあげた方がいい時と、やんわり言ってあげた方がいい時と、少し含みを持たせて言ってあげた方がいい時と3つの断り方がある。この場合、3人共、全く見込みが無いとしたら、今からはっきり断ってあげるべきだろう。それが、これからのお互いの立場を上手に関係づけるのに適切だと思うよ。  それに、まだ、お互い若いし。それが、お互い、既に恋の経験があったり、人生の経験があったりするのなら、相手のわかる程度にやんわりと断るのも、手だけどね。  まあ、例外もあるけど。でもここは、はっきり断ったら。どうせ、学級の誰かと、天文学部の誰かと、図書部の先輩あたりだろう?」 森川先生の話していることは、理解できた。でもなぜ、そこまで相手を言い当てることが出来るのだろうか。封筒の中身や名前も言っていないのに。やはり、森川先生は、私にとっては、恐るべき相手。敵にしないで良かったと、これ程思った時はなかった。 「さすが、名探偵ですね。先生のおっしゃる通りです。おそれいりました」 「何を丁寧に・・・」 「で、どういう断り方を進めますか?」 「手紙が嫌なら、1人ずつ『ごめんなさい』と言って、逃げれば。どうせ、相手も直接、なつに手紙を手渡ししていないんだろ」 「どこかで、見ていたんですか?」 「相手が学校で分かっていれば、安藤くんはあんなに落ち着いてはいない。名前は学校が終わって、ここに来てから、確認したんじゃないかな・・・」 「私、そんなに顔に出ます?」 「出ます」 「そうですか・・・」 「ですね」 「それで、デートの時の私の服装の好みは?」 「寒くなければいいんじゃない?でも、デートでなく、お参りだから。あくまでも・・・」 やはり、この人に聞いても無駄な質問だった。 「安藤くんに任せるよ。あまり女性の服装、わからないから・・・」 「わかりました。今日は忙しいですか?」 「宿題があるんだ。先生にも・・・」 「そうなのですか?因数分解、教えて貰おうと思ったのに・・・」 「それって、『教わる』じゃなくて、『答えを聞く』じゃないの?」 「違います。宿題はきちんとやっていく主義なのです。それでは。先生は、忙しいようなので今日は帰ります」 私は、ティーカップを片付け、玄関で先生を呼んだ。 「おやすみなさいのキスは?」 私は、冗談でそう話してみた。 「子供には、早すぎる」 「はーい」 私は、202号室を出ていった。先生は、私が203号室に入るまで、廊下に出て見守っていてくれた。 「これも、小さな幸せかもしれない」  私は因数分解の宿題と、明後日の服装と3人の断り方で頭がいっぱいになり、ついに眠ってしまった。  1月8日、土曜日。私は服装に迷っていた。結局、森川先生の好きな緑色のセーターにフリルのついたスカート。それに、先生に貰った銀のネックレスをして、マフラーにコートを着込んで、「アンダンテ」に行った。既に「アンダンテ」には、先生が来ていて、入口にコートが掛けてあった。いつものカウンターに座っている先生は、先日と同じようにワイシャツにネクタイと、少しお洒落をしていた。 「先生、今日もそんな堅苦しい格好なのですか?」 「神様の近くに行くんだろ。多少、服装を考えないとね」 私達はいつものオムライスとナポリタンを食べていた。そして、2人のカフェオレとミルクティーの時間になった。最近あまり話しかけてこなかったマスターの西村貢さんが、今日は私達に近づき、小さな声で話しかけてきた。 「森川先生、最近、隣の二本松神社で出るって噂なんですよ」 「何が?」 「幽霊が・・・」 「誰から聞いたの?」 「何日か前から話は聞いていたのですが、昨日、たまたま神社でバイトしている巫女さん達がここに食事に来て、話しているのを耳にしたのですよ」 「ほう」 先生は、あまり関心がないようだった。 「これから、2人で初詣に行くなら、気を付けてくださいね」 私は、また、話を聞かれていたと思った。 「マスター、いつもそうやって私達の話を聞いているんですか?それに、もうお昼ですから、幽霊なんて出ませんよ」 「悪さはしない幽霊らしいですから、大丈夫でしょう」 マスターに付け加えられた。 「先生、今度、名探偵のその頭脳で、幽霊なんて捕まりませんかね?」 「それは無理ですよ」 「名探偵でも、幽霊は無理ですか?」 「怖いのは幽霊なんかじゃないよ。生きている人間が一番、怖いのさ」 「へえ、先生は幽霊を信じないのですか?」 「そういう訳じゃないけど、幽霊は願いが叶うと成仏してくれるけど、人間はなかなかそうはいかない。欲望が強いからね。1つ願いが叶うと、次々と段々欲望が強くなっていく。だから、人間の方が怖いのさ」 「そんな。先生も、人間ですよね」 「・・・」 そこに新しいお客さんが「アンダンテ」に入ってきたので、マスターは私達から離れ、カウンターから出ていった。私と先生は、これを機会と、会計を済ませ、コートを着て、「アンダンテ」を出た。 「安藤くん、そのペンダントをしてくれたんだ」 「先生こそ、その緑のマフラー、無理して・・・」 「無理していないよ。丁度、良かったから・・・」 社交辞令でも、先生にそんな事を言ってもらうと、何だか顔が赤くなってきてしまう。  二本松神社は、久安年間、1145年、地頭安達藤久郎盛長が守護神として熊野大神を祭ったことを始まりとしている。特に丹羽光重公が二本松に移封すると、茶屋商家が立ち並び、門前町として栄えた。  太陽は照っていたが、まだ1月の寒い日差しが私達を包んだ。2人で二本松神社の長い階段を歩いていった。まさか、手をつなぐ事はしなかったが、私は周囲を警戒していた。 「誰にも見つかりませんように・・・」 2人で二本松神社にお参りに来た所を同級生に見られたら、噂になって大変だ。それでも、森川先生は途中、私が足を階段でつまらせると、手を出して助けてくれた。 「しかし、大分、長い階段だな・・・」 既に、初詣に時期は過ぎていて、階段で出会う人はそんなにいなかった。私も、この二本松神社のすぐ隣に住んでいながら、お参りに来るのは初めてだったので、こんなに神社の本殿までの階段が長いとは、思ってもいなかった。いつも運動していない文化部の、これが辛い所だった。しかし、森川先生はそんなそぶりを全く見せず、私に気を遣いながら階段をゆっくり上っていってくれた。  階段を登り切ると、そこに大きな門があった。門は、足元が一段高くなってあり、気を付けて門をくぐった。すると、目の前の彼方に本殿が見えた。それまでに、お守りなどが売っている場所や、能舞台、社務所が並んでいた。売店に2、3人しか参拝の人はいなかった。  私達はまず、お賽銭を準備して、お参りをした。横には「お参りの仕方」と書いた立て札が貼ってあり、「二礼三拝」と書いてあった。 「この幸せが長く続きますように・・・」 私は、神様にお願いした。隣の彼は、一体何をお願いしたのだろか? 「森川先生、何をお願いしたの?」 「内緒・・・」 「森川先生、誤魔化している・・・」 肘で先生の背中をつついた。  そして、私は森川先生におねだりをして、おみくじを買ってもらった。そして、そのおみくじには「吉」と書いてはあった。 「待ち人来たる。難問、多し」 私は少し、複雑な気持ちになって、おみくじを結ぶ場所を探していた。  ふと見ると、いつも間にか森川先生は、この二本松神社の神主さんらしき人と話していた。そして、先生はその人と、私が今、おみくじを結んだ場所に来た。 「ここです。ここ」 そのおみくじを見ていた。そして、また神主さんらしき人と話をして、私の所に来た。 「彼は二本松神社神主の菅野謙権さん。彼と話した。幽霊が出るというのは、本当かもよ」 「どういう事ですか?」 「夜中になると、この神社に幽霊が来て、おみくじを増やしてくれるらしい」 「変な幽霊・・・」 「でも、面白いよね」 「何故ですか?」 「だって、お寺なら幽霊ってわかるけど、神社に幽霊は、あまり関係ないかもしれないと思って・・・」 「そうですか?」 「日本人は、たぶん、お寺と神社の区別があまりつかない人が多いからね。日本人は宗教が混ざっているから。こんな日本人のような人種は、世界中、どこを捜しても見つからないよ」 「そうなのですか?」 「そうさ、正月に初詣をして、節分で豆まき、バレンタインデーでチョコを渡し、お彼岸でお寺にお墓参り、七五三をして、クリスマスを祝う人種が、世界中のどこにいるんだい?」 そう言われると、日本人はあまり宗教に左右されていない人が多い。 「今、菅野神主さんに依頼されて、少し調査してと言われたから、少しそこのベンチで待っていて・・・」 「森川先生、ここの神主さんと、知り合いなんですか?」 「ちょっとね」 「私も捜査に参加させてください」 「捜査じゃないよ。ただ調べるだけ・・・」 「私を『名探偵の助手』として、認めてください」 「はいはい。それじゃ、少し、結んであるこの列のおみくじを開いてみて?」 「神様に怒られませんか?」 「菅野神主さんに断ったから。それに、祟られるのは、2人一緒だから・・・」 「あまり、説得力ないですけど・・・」 森川先生は既におみくじ専用の結びの所に行って、結んであるおみくじを開いて見ていた。私も、助手として結んであるおみくじを開いて、先生に渡した。  しばらく経った。 「なあ、なつ。先ほどなつが引いたおみくじ、何だった?」 「『吉』でした」 「もし『大吉』なら、どうしていた?」 「そうですね、その時に気分で、結ぶか、持ち帰りますね」 「『大吉』以外なら、持ち帰る?」 「『大吉』以外なら、そうですね・・・持ち帰らず、木の枝に結びますね。全部」 「なつもそうか・・・」 「私、何か悪い事でも言いました?」 「いいや」 森川先生はそう言うと、少し考え、売店に行っておみくじをたくさん買って、私の所に戻ってきた。 「おみくじ専門の会社が山口県にある『女子道社』という所で、全国の7割、5000か所の20種類を製作している。  ところで、おみくじの種類、なつは言えるかい?」 「種類ですか?えーっと、大吉、中吉、小吉、凶、大凶、それに、吉かな・・・」 「普通12種類あって、良いとされている方から、大吉、吉、中吉、小吉、半吉、末吉、末小吉、そして、凶、小凶、半凶、末凶、大凶となっている」 「何か、森川先生、神社の神主みたい。いろいろと知っていて・・・」 「常識だよ。で、その12種類の中の6種類。つまり、大吉、吉、中吉、小吉、末吉、凶がおみくじに使用されているらしい。  じゃ行こうか・・・」 「帰るのですか?解決もせずに、名探偵が・・・。それも、そんなにおみくじ買って・・・」 「帰らないよ。菅野神主さんが待っているんだ」  私達は先ほどの菅野神主さんが入っていった社務所に向かった。既に、境内には、誰も参拝する人はいなかった。社務所の前の椅子に座ると、いかにもバイトらしい巫女さん姿の女子高校生が、お茶を持ってきてくれた。森川先生が何も言わない所を見ると、二本松高校の生徒ではないらしい。私がその巫女さんの持ってきたお盆の上のお茶をもらって飲んでいると、菅野神主さんが出てきて、森川先生の隣の椅子に座った。その部屋には、紅葉の時期に撮影したと思われる山門の写真が飾ってあった。 「森川先生、何か分かりましたか?」 「菅野さん、大体、分かりました」 「やはり、昔から変わっていませんな。森川先生は・・・」 「そうですか?年は取りましたよ」 「まだまだ、若いじゃないですか。で、どうでした?」 「まず、今、私がここの売店から買ってきたおみくじを見てください」 森川先生が言うと、先ほど買ってきたまだ開いていないおみくじを出した。 「ここの二本松神社の売店では3種類のおみくじを売っています。そして、自動販売機では2種類のおみくじが。つまり、ここで販売されているおみくじは全部で五種類という事になります」 「そうですね。毎年、同じ所に発注して、購入しています」 「山口県のですか?」 「詳しいですね。先生・・・」 「・・・。ところが、こちらおみくじを見てください」  森川先生は、先ほど、私と一緒に枝から外したおみくじを開いて神主さんに見せた。 「ここにあるのは、先ほど、そこのおみくじを結ぶ専用の場所から外したおみくじです。ここで確認しただけでも、6種類はあります。その中には、ここで発売されていないおみくじが3種類もあります。もっと、詳しく見れば、もっと種類が出てくるでしょう」 そう言って、枝から外した大きさや模様、形の違っているおみくじを差し出した。 「そして、例えばですが、このおみくじです」  森川先生は、1つの『大吉』と書いてあったおみくじを神主さんに見せた。 「このおみくじは『大吉』と書いてありますが、今年のではありません。紙の古さから考えても、2~3年前の感じがします。紙がだいぶ傷んでいますよね。でも、そんなに紙が悪くなっていない。これは、このおみくじを大切に保存していた証拠です」 神主の菅野さんは、ふむふむと、うなずく。 「人には、いろいろと癖があります。書き方、話し方、素振り手振り、そして、紙の結び方まで。ですから、枝におみくじを結ぶのにも、それぞれの結び方があります。10人がおみくじを結べば、10通りの結び方があるくらいです。少しずつ変わります。  しかし、今、あの枝のおみくじを調べてみたら、私が外したおみくじは、2種類の結び方しかありませんでした。それもこんなにたくさん、外したのに。つまり、このおみくじは、2人の人間がたくさんあの枝に結んだ事になります。それも、一晩で。昨日の夕方には、あの枝にはおみくじはこんなに結んでなかったと言っていましたよね。先ほど・・・」  神主の菅野さんはうなずく。 「肝心なのは、私が外したおみくじが全部『大吉』だったという事です」 先生は、枝から外した大きさや模様の違うおみくじを1枚1枚開いて、神主さんに見せた。 「で、森川先生の推理は、どうなのでしょうか?」 「そんな、推理ではないです」 先生は遠慮して、考えついた事を話し始めた。 「私が思うに、何者かが、この1週間、今まで集めた大量のおみくじ、それも『大吉』のおみくじを真夜中にこの二本松神社に来て、結んだという事になります。まあ、彼らにとっては、奉納したと思っているのでしょうが・・・」 「それは誰なのでしょうか?」 「それは、私にもわかりません」 「森川先生にも分からない事が、あるのですか?」 「もちろんです。私は神様ではありませんから。でも、ある程度の可能性というか、その誰かの範囲は考えられます」 「先生、その範囲とは・・・?」 「受験生だと思います」 森川先生はあっさりと答えた。 「森川先生、何故、受験生なのですか?」 「実は、1週間前の新聞におみくじの事が記事で出ていたのですよ。そこに、『大吉』のおみくじも、自分の家に持ち帰らず、神社の枝に結んで奉納しないと、願いが叶わないとか成就されないとか・・・。  同じ日にテレビでも特集を行ったと、二本松高校の先生方が話していました。多分、それを見た高校や大学の受験生が、今まで集めた『大吉』のおみくじを、夜、そっと結びにきたのでしょう。二本松にいる受験生だと思います。特に、中学生にとってはそろそろ推薦と言われる県立Ⅰ期入試が近いので・・・」 その説明を聞いて、私は、神主の菅野さんと同じ様にうなずいてしまった。 「で、森川先生、どうしたらよいでしょう?」 「多分、もうおみくじを結びにはあまり来ないと思いますよ。そんなに『大吉』をとっておく人はいないでしょう。  『大吉』を集めるといっても難しいでしょう。それに、二本松神社のこの石段です。夜、ここまで登って来るのは、とても大変な事です。二本松神社の方が迷惑でなかったら、このまま神頼みにさせてあげたら?幽霊騒ぎも、すぐ終わるでしょう」 「そうですか。でも、夜、ここに子供が集まるのはどうもなあ・・・」 「まさか、昼間、ここに来て、おみくじを10も20も枝に結んでいく勇気のある中学3年生がいたら、最初からこんなになりませんよ。それに、ここに夜、集まるのは至難の業だと思いますよ」 「なぜです?」 「この階段を上ってくるのは、毎日は大変でしょう。受験生なら、そんな暇は毎日ないし、暴走族や不良にとっては、そんな体力は大変でしょう。これに、この二本松神社の境内には、バイクや自転車で上ることは、困難です」 「そうですな・・・」 神主の菅野さんがそう言った所へ、先ほどのバイトの巫女さんがお菓子を持ってきてくれた。私と森川先生は、それをご馳走になり、席を立った。 「では、これで失礼します」 「いろいろと、ありがとうございました。それにしても、森川先生、若い彼女さんができましたね」 そう神主の菅野さんは私を見ながら言った。先生は何も答えず、笑顔を見せて、社務所を後にした。  私は何故かうきうきした気持ちで、境内を後にした。そう思ったとたん、門に足を取られ、転倒した。おみくじにあった、 「待ち人来たる。難問多し」  体を支えて、立ち上がろうとしたが、右足が腫れていて、1人では歩けなかった。森川先生は、転んだ私の近くに寄って、腰を下ろし、くじいた足首を見てくれた。 「安藤くん、それでは無理だな。この階段をその足で降りるのは・・・」 そう言うと、森川先生は私を背中に背負った。そして、この二本松神社の階段を、私の事を背負って、降り始めた。 「まさか、この階段、私を背負ったまま、一番下まで降りる気なのか・・・」 既に階段の両脇にある提灯には、火が入っていて、情緒的だったが、今の私はそんな気持ちにはなれなかった。右足が痛くて、それどころではなかった。 「安藤くん、痛くないか?」 「それより、重くないですか?」 「大丈夫。困った時はお互い様さ」 「下まで私を背負って行くのですか?腰、壊すよ。それに、お互い様って、私、森川先生に何もしていないし・・・」 「でも、受験生も最後は神頼みか・・・。 安藤くんは、去年、神頼みはしなの?」 「しましたよ。でも、神様にお願いしても、合格できませんでした。インフルエンザという強敵が出てきましたから・・・。  でも、もっと大切な人生に巡り会えました。福島第二高校落ちて、あの松川の河原で森川先生に会って、高校迷って、私立高校あきらめて、県立の二本松高校に来て、また森川先生に出会いましたから・・・。  神様は、今の人生を選択させたかった」 「福島の私立高校に行った方が、もっといい人に出会ったかもよ」 「今が最高と思う事にしていますから・・・」 「安藤くん、ここで少し休憩・・・」 森川先生は二本松神社の坂の途中のベンチに私を降ろし腰掛けた。やはり、私は重かったのだろうか・・・? 「日本の音楽は昔から閉鎖的だったが、ヨーロッパでは、昔からキリスト教と共に成長してきた。つまり、キリスト教が布教するために音楽も必要とされてきた。そして、音楽は、大衆音楽と教会音楽が中心となって成長した。しかし、大衆音楽が口伝えで成長したので、楽譜があまり残されなかった事に対して、教会音楽は、典礼や印刷技術が発展して、後世に残っていったんだ。  その中で、キリスト教でミサという中心的な典礼がある。キリストが最後の晩餐において、パンと葡萄酒により肉体が再現すると定められた事例に基づき、信仰はそれを拝領してキリストと一体となり、神に許しを乞うという内容のものだ。その中で、イギリス人のウイリアム・バードが作曲した『ミサ』が有名なんだ」 「イギリス人なら、英語なのですか?」 「それがラテン語なんだ。『ミサ曲』は歌の歌詞はほとんど決まっているが、宗教革命の前はカトリックが中心で、すべてキリスト教はラテン語だったんだ。だから、1543年に生まれ、1623年に死んだ、ウイリアム・バードはイギリスのエリザベス朝最大の作曲家だが、ミサ曲はすべてラテン語。そして大変なのは、当時、歌う事ができたのは、全て男のみ」 「それでは、暗い曲になりますね」 「ところが、そうじゃない。例えば有名な1605年頃に作曲された『三声のミサ曲』は、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・ディの六つから成っているが、歌のパートは、上からカウンターテノール、テノール、バスだ」 「先生、カウンターテノールって何?」 「つまり、テノールの上のパートさ」 「男子って、テノールが一番上じゃないのですか?」 「だから、そのテノールより上の音域さ」 「出るのですか?」 「出すのさ。つまり、男子が第二次成長期に入る幼いうちに、去勢、つまり、男のあそこを切っちゃうんだよ」 「痛いじゃないですか?」 「でも、それによって、一生、声は変声しない。教会で必ず、カウンターテノールのパートはあり、必ず聖歌隊も必要になってくるから、一生、失業しないで済むこという事になる。今でいうと、女声のアルトからソプラノの音域で作曲されている」 「それって、今も歌うんですか?」 「そうだよ」 「それじゃ、今も、その・・・去勢っていうか・・・」 「現在は、たまにそういう職業の人もいる」 「それじゃ、その人達しか歌うことが、できないのですか?」 「違うよ。私も高校の合唱部で、カウンターテノールのパートを歌った。勿論、今はほとんど、裏声で歌うから、きちんとした音程を練習するのも大変だけど・・・」 「森川先生に悪いと思いながら、松村先生に聞いちゃいました。高校時代、2人とも、福島高校で合唱部に所属していたって。そして、付き合っていたっても・・・。  松村先生が盲腸で入院した時、森川先生に代わりに練習を見てもらったって・・・。2人が高校3年生の時、森川先生が指揮で、松村先生がピアノ伴奏をして、全国大会で金賞を取ったとも。顧問の先生以上の音楽性があったって。でも、お互いの大学の進路が違って、別れたって・・・」 「・・・」 「大丈夫です。嫉妬していませんから・・・。でも、今も松村先生、森川先生の事、好きみたいですね・・・」 「・・・」 「森川先生って、都合が悪くなると、いつも無口になりますね。解りやすいというか・・・」 「・・・」 「森川先生は、神様はいると思うのですか?」 「さあね」 「森川先生なら知っているかなと思って・・・」 「それは、無理。でも、人々は太古の昔から、信仰を求めながら、世界中で『神よ、神よ』と祈り続けている。面白いのは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が同じエルサレムを聖地として、崇拝して、そして争っていることだろう。まあ、仏教のお釈迦様は、どちらかというと、神というより、人間の煩悩を取り除く事に力を入れていた人らしいけど・・・」 「さすが、社会の先生、物知り!」 「数学です」  森川先生は少し、椅子に座って、今まさに変化していく1月の空と雲の色を見ていた。この人は、神様を恨むくらいのとんでもない事が、過去にあったのだろうか?また、松村先生に聞いてみよう・・・。今、空を見つめる先生の目を見ると、なぜかそんな気に私をさせるのだった。 「いつも話しているけど、神様が作った人間のレールや運命なんて、ないのさ。自分の進むべき道は、自分で決め、自分でレールを敷き詰め、その上を人間はまた、確認しながら未来へ向かって歩いていく。間違ったと思えば、そこでレールを敷き直せばいい。神様はそんな事はしてくれない。人間は、良い事があると神を讃え、悪い事はあると神に祈る。しかし、それは自己の行動であり、自分が知らないうちに敷いたレールかもしれない。元々、それでレールが終わっていたのかもしれない。  いくら『神よ、神よ』と言っても、この世に生まれた者は必ず死を迎え、形あるものは必ず壊れる。これは自然の道理さ。ただ、その期間が長いか短いかの違いさ。もし、神様がいるとしたら、それは自分自身の中にいるレールを敷いている自分なんじゃないかな・・・」 森川先生は、まるで何かを悟ったように、誰に語るでもなしに、静かに話していた。そして、私の目に狂いがなかったら、先生の目にはかすかに涙が浮かんでいるようだった。昔を思い出し、まるで自分自身を納得させているようだった。 「安藤くん、君ならあの雲の色を何色と表現する?」 先生が言った方角を見ると、まさに夕日に染まっている鮮やかな雲が、空に浮かんでいた。 「そうですね、茜色ですかね」 「難しい言葉を知っているんだね」 「常識です」 「日本人は、昔から美的感覚というか色について、優れたものを持っていたようなんだ」 「どういう事ですか?」 「いま、安藤くんが話した、『茜』にしても赤にしても、英語で表すと『red』 になる。しかし、日本にはその他に『red』 を表す言葉として、『紅』や『朱』、『緋色』、『小豆色』、『臙脂色』、『赤橙』などがある。普通の人間じゃ、それらの色を区別するのは難しい。でも、その対象によって日本人は色の名前を使い分けたのさ。  日本人の色の使い方、言い方にはそれなりの心が存在するのさ。素晴らしい民族だと思わないか?」 「さすが美術の先生!」 「だから、数学だってば・・・」 「えへっ」 「さあ、行こうか安藤くん」 森川先生は、また私を背中に背負うと、ゆっくり二本松神社の階段を降りていった。  そして、森川先生は、私の知らない言葉で、それも、裏声で歌を歌っていた。 「 Kyrie eleison, Chrisie sleison, Kyrie eleison. Et in terra pax hominibus bonae voluntatis bonae voluntatis. Laudamus te. Benedicimus te. Adoramus te. glorificamus te. Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam. Domine Deus, Rex caelestis, Rex caelestis, Deus Pater omnipotens. Domine Fili unigenite Jesu Christe Jesu Christe, Jesu Christe. 」  先生はウイリアム・バードの「三声のミサ曲」の中の「キリエ」の部分だと教えてくれた。  部屋に戻ると、先生は湿布を持って、203号室に来てくれた。私の右足に張り、私を担ぎ上げ、ベッドに横に寝かしてくれた。森川先生は部屋を出ていった。 「また、今日も誰か知らない受験生が、あの二本松神社の階段を『大吉』のおみくじを持って、登っていくのだろうか?」  私はいつの間にか、眠ってしまったようだ。  翌日、9日、日曜日の朝。ドアをノックする音で目ざめた。森川先生が朝食を持って、立っていた。 「安藤くん、ここで看病してあげたいんだけど、二本松大学の古い友人が、尋ねてくるんだ。二本松大学の美術科の三田村茂樹っていう同級生が・・・。だから、午前中だけ、面倒を見てあげるよ」  森川先生はずっと、お昼まで、私のそばにいてくれた。
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