120.第14話「再び、松川の釣り人」

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120.第14話「再び、松川の釣り人」

0a6d1094-bd37-43bb-9370-ac84b834e329  3月1日、火曜日。卒業式が始まった。しかし、中学校とは違い、卒業証書をもらったのは、生徒代表の星高陽先輩だけだった。それに、出席した在校生は、各学級の代表2名と入場行進や君が代を演奏した吹奏楽部だけだった。私は高橋光太郎君と、1年2組の後期に学級委員になっていたので、卒業式に学級代表で出席した。しかし、大学入試で卒業式に出席できない3年生もたくさんいたようで、3年生の席には空席が目立った。  卒業式が終了する頃には、残りの1、2年生が校庭に集合し、3年生を見送るために列を作っていた。  私が体育館を出て、校庭に出ようとすると、合唱部の新川純子が私の肩を叩いてきた。 「遠藤伸先輩が呼んでいるよ」 私は、言われた方向に向かった。そして、伸先輩の荷物持ちとして、空の紙袋を持ち、先輩の後方から一緒について、歩いて行った。  伸先輩の人気はすごかった。伸先輩が歩くと、後輩から花束や贈り物がたくさん手渡された。それに、手紙も。遠藤先輩は、男子だけでなく、女子からも・・・。私が持っていた紙袋は、たちまち一杯になってしまった。そして、他の人から空の紙袋を貰って、そこにまた、花束やプレゼントを入れた。   そんな事で、伸先輩は歩くたびに停まっていたので、いつの間にか卒業生の列の最後尾になっていた。やっと、在校生からの祝福が終了したと思ったら、今度は校門でみんなに囲まれて、記念撮影だ。伸先輩の胸元にネックレスが光っていた。いつもなら男装をしている伸先輩には、珍しい。 「話をしたい」 伸先輩は、3年生男子から声をかけられても全て断っていた。  生徒指導の国松先生が先ほどまでの背広姿とは違い、ジャージに着替え、校門に来てきた。 「生徒諸君、そろそろ帰宅するように・・・。保護者も待たせているし、お昼の時間だから・・・」 国松先生が言い始めると、少しずつ、校門の生徒の数が減っていった。伸先輩の人気は高かった。そしてもう1人、星高陽先輩も後輩の女子から囲まれていた。 「片平先生の気持ちは、穏やかでないだろうな・・・」 先ほどまで素敵な服装をしていた片平先生の姿は見えなかった。 「このような星先輩の姿を見るに耐えず、図書館に逃げてしまったのだろう」 そんな事を話していた森川先生はいつの間にか、校門から姿を消していた。 「なっちゃん、そろそろ行こうか?」 伸先輩が声を掛けてきてくれた。 「いいのですか?まだ、伸先輩と話したい人がいるようですよ」 「ぐずぐずしている奴は、苦手なんだ」  伸先輩は、自分の家の方に向かって歩き出した。途中、伸先輩を待ち受けていて、手紙を渡す男子が何人かいた。  亀谷地区にある伸先輩の家までは、高校から10分とはかからなかった。家に行くと、伸先輩の両親が待っていてくれた。 「こちら、いつも話している安藤なつさん」 「いつも、お世話になっています」 しかし「いつも話している」と、いう伸先輩の言い方が気になった。  居間のテーブルの上には、豪勢な昼食が準備してあった。伸先輩は部屋に戻ると、いつものようなシャツにジーパンの格好で現れた。 「先ほどの方が、綺麗でしたよ」 「何か、窮屈で・・・」  胸のネックレスは、外していなかった。右手にもそれとお揃いの鎖をしていた。シャンパンで乾杯をした。4人でグラスを鳴らした。ケーキのデザートまで頂いた。 「なっちゃん、俺の部屋に行こう」 昼食終了後、伸先輩に誘われた。  伸先輩の部屋は、私の知っている女の子とはまるで違う雰囲気だった。たった1枚の写真を残しては。  それは、机の上にあった、着物姿の伸先輩と森川先生のツーショットの写真だった。 「いつの間にこんな写真を・・・」 あまり追求しない事にした。 「なっちゃん、今日は、荷物持ちをさせて、悪かったな。重かったろう」 「大丈夫です。しかし、伸先輩、やはり、男にも女にも、もてますね」 「そうかな・・・」 伸先輩は、誤魔化していた。 「なっちゃん、それより、お願いがあって、呼んだんだ。  ああ見えて、多分、森川優先生はとても弱い人間だ。それを、無理して森川先生は、ここまで耐えて生きていている。俺が卒業すると、高校で森川先生の秘密を知っている生徒が、安藤なつしかいなくなる。森川先生は自分から他の人によりかかる人間じゃないから。彼の本当の心を知っている人間が欲しいんだ。だから、森川先生をしっかり見守ってほしいのさ。  たぶん、これから俺が話をする事は、安藤なつの心にしまって、彼を支えてほしいんだ。彼の唯一の弱点は、名前の通り、その優しさにあるから・・・」  そこまで伸先輩は話すと、いつの間にか持ってきたグラスにワインを注ぎ、私の分にもワインを入れた。そして、私にグラスを持たせてきた。  伸先輩は何気なしに、机の上に飾ってあった写真を眺めた。 「なつ。何から話そうか?まず俺の事からかな・・・。お前、俺の事、どう思う?」 「『どう思う』と言われましても・・・」 「そうだよな。いきなり、同姓の先輩から、どう思うと尋ねられてもな・・・。  つまり、知っているかもしれないけど、俺、あまり、女の子の格好とか、好きじゃないんだよ」 「それは、知っていました」 「そうか。気づいていると思うが、心は完全に男なんだ。つまり、俺は同一性障害っていう病気なんだそうだ」 「知っていました」 「先生か?」 「いいえ、地学準備室の前で遠藤先輩と森川先生が話す声が聞こえて・・・」 「じゃ、ずっと知っていて、俺に付き合ってくれていたんだ」 「・・・」 「でもな、一度、合唱部のレッスンをしただけで、それを見抜いた人間がいたんだ」 「それが森川先生だったのですね」 「そう。それで、俺の中の何かが、はじけたんだ」 「それじゃ、今の伸先輩の心境は?」 「悪いけど、まだ男さ。でも、なぜか、森川先生の前だけでは、女になれるんだ。何故は自分でも分からない。森川先生の前なら、スカートもはける。着物も着ることができる。そこに証拠写真があるだろ」 「そうですね。見ました」 「なつには、悪いけど、それ、俺の宝物さ・・・」  伸先輩はワインを一口のんで、一息をついた。 「よく見ると、森川先生と伸先輩って、お似合いのカップルですよね」 「いいよ。お世辞を言わなくても」 「そんな事、ないですよ」 「無理するな。なつだって、森川先生が好きだろ」 私は、否定できなかった。 「なつにお願いがあるのは、1つは、俺が森川先生を好きだという事を理解してほしいんだ。というより、森川先生しか男として見ることができないんだ」 「大丈夫です」 「森川先生が安藤なつの事を気にしているのは、分かっているさ」 「伸先輩の方が、森川先生の1番目に最適です」 「なつ、森川先生が好きか?」 「はい」 私は、誘導尋問にひっかかったように、答えてしまった。 「俺も好きさ」 伸先輩は、片手に持ったグラスを見つめていた。 「伸先輩も森川先生の事、好きだった事は、知っていました」 「大丈夫、なつの邪魔はしないから・・・」 「そういう事じゃなくて・・・伸先輩は好きな女の子っているのですか?」 「いないさ」 伸先輩は、あっさりと答えた。 「森川先生の過去の呪縛ですか・・・」  2人で1本のワインを空けた。ほとんどは、伸先輩が飲んだのだが、私は自分が酔っているのがわかった。危ない話なら、このまま男っぽい伸先輩に絡みそうだ。 「たぶん、森川先生は明日から、学校に来なくなるぞ」 「それ、どういう意味ですか?」 「前、福島第二高校の嶋津泉から聞いただろう。森川先生と嶋津泉のお姉さんの事」 「はい」 「その事件の後、森川先生はみんなの前から姿を消した。  奈津子さんの部屋に、たまにいた事はわかっていた。しかし、先生には負担が大き過ぎたらしい。今まで何度も先生は、辛い思いをしているという事だったけど・・・。  それで、みんなで捜した。嶋津の両親も泉も。そして、なつの両親も姉の玲も・・・。  お前は、受験で、大変だったようだが・・・」 そうだった。昨年、みんな私を構っていなかった。突然、姉が帰ってきたと思ったら葬式に行って、その後、夜、遅くまで家を空けたり、親は電話をし続けたり・・・。 「で、先生が見つかった」 「どこにいたのですか?」 「自分の家の風呂場で右手首を切っていた。見つけたのは、嶋津泉さんさ。姉のハンドバッグから先生の家の鍵を見つけて、2人で住んでいた家にいたようだ。  でも、神様は、森川先生を奈津子さんの所へ連れていく事を許さなかった。もっと生きなさいと・・・」 「私、その後、松川の河原で、先生に会いました。あの日、誘拐事件があった日です。そういえば、右手に包帯、巻いていました」 「それはとんでもない、偶然だな。先生が病院から退院した直後だな、それは・・・。  そして、森川先生はすぐ転勤願を出して、3年間しか勤務しなかった福島第二高校を去ったのさ。二本松市の市議会議員が裏から手を回したらしい。そんないきなりの転勤は出来ないからな。  嶋津泉がとても怒ってね。森川先生がいなくなったから、合唱部、全国大会に行けなかったって・・・。何せ、それまで無名の福島第二高校の合唱部を、3年連続で全国大会、金賞にした男さ。そして泉さんが部長になった年に、転勤したからな」 「でも、泉さんは森川先生を許したのですか?」 「許すも何も、他に手段がなかったろう。先生が死ぬより、生きていた方が、泉さんにとっても、いいに決まっている。何せ、泉さんも森川先生を好きなのが、手に取るようにわかるから・・・」 「そうなのですか?」 「酷ないい方かもしれないけど、なつも俺も、奈津子さんの代わりかもしれないな・・・」 「私はそれでもいいです。先生の心の傷が癒されるならば・・・」 「俺もそうかもな・・・」 そう話した伸先輩の目には涙が浮かんでいた。伸先輩も先生をとても愛しているのがわかった。 「森川先生は強い人なのですね。みんなの前では全くそんな素振りを見せない」 「逆なんじゃないかな。みんなの前で強がらないと、彼のガラスのような心が砕けてしまうんじゃないかな。だから、平静を装っているのさ。  そして、部屋で1人になって、嶋津奈津子さんが描いた絵を見つめながら、自分を責めているんじゃないか。『なぜ、救えなかったのか?』と。神様に向かって。そして、自分に対して・・・。  それが森川先生の弱点さ。だから、俺は、なつに森川先生の過去からの呪縛を解いてほしいのさ、まだ、なつは16才かもしれないけど、森川先生の事を1番に考えられる人間だからな・・・」 「そんな事、ありません。今の話を聞いていると、伸先輩の方が先生を支えるのに、1番適しているように思います」 「森川先生は、時に、俺やなつに癒しを求めているのかも。ごめんな、なつ。先生は、なつの事を本当に好きだと思うよ」 「いいのです。私も先生の心を支えてあげることのできる、人間の1人でいたいのです。でも、私、1人じゃ・・・。だから、今、話したように、伸先輩も先生を支えてあげてください。私より、心も体も大人だし。特に私の体じゃ、先生は男として満足できないと思うし・・・」 「何、言っているんだ。このナイスバディーのお嬢様が・・・」 「だって、伸先輩の方がスタイル、いいし、胸も大きそうだし・・・」 「なつ、森川先生にはライバルが多いんだ。でも、その中で先生の心まで理解して支える事のできる人は、とても少ない」 「頑張ります。でも、伸先輩も先生の所に来て、一緒にいてあげてください、その時は、私、邪魔しないで、203号室で大人しくしていますから・・・」  伸先輩は笑っていた。 「なつ、でもな、1番のライバルは誰かわかるか?」 「泉さんですか?あんなに綺麗ですし、奈津子さんの妹ですし・・・」 「もっと強敵が、お前のそばにいるだろ!」 「あっ、玲姉!」 「そうだな。まあ、彼女は全部知っているから・・・」 「わかりました。でも、玲姉には、全てにおいて負けそうです。心も体も、先生を思う気持ちも・・・」 「何を弱気で・・・」 「それは、伸先輩が玲姉を知らないからです。高校の時、玲姉の先生に対する気持ちは、とてもすごかったのですから・・・。今になって思えば、大変でした」 「姉に取られないようにな・・・」 「そちらも頑張ります」 「でも、『なつ』って2人の時、呼んでもらっているのか?」 「いいえ、いつも『安藤くん』です」 「『なつ』と呼んでもらえるのは、まだ先かな?」 「『安藤さん』とは呼ばれません。でも、『なつ』だなんて・・・」 「俺も『遠藤くん』だけどな・・・。でも『なつ』と呼ばれたいか?」 「どうしてですか?」 「だって『奈津子』さんの事も『なつ』って呼んでいたんだぞ」  私は伸先輩の家を後にした。部屋に帰ると、ベッドに倒れ込んだ。202号室の住人が帰ってきた様子はなかった。そして、駐車場には森川先生の車はなかった。  その週、森川先生がグリーンマンションの自分の部屋に戻ってきた様子はなかった。そういえば、森川先生からメールが入っていた。 「当分、出勤しないので、1人で登校してくれ。ごめん」  3月4日、金曜日。二本松高校に登校すると、片平月美先生も心配していて、私に話をしてくれた。 「なっちゃん、森川優は、必ず帰ってくるわ。それが、森川優という男よ」 松村美香子先生は、何でも知っているように、私を励ましてくれた。  そして、私はそのまま福島の実家に向かった。そして、両親に遠藤伸先輩から聞いた内容を両親に確かめた。そして、遠藤先輩から聞いていなかったのは、森川先生が自殺未遂をした時、血液が足りなく、嶋津泉さんと、玲姉が病院で輸血した事だった。 「森川先生の体には、私の血と嶋津泉さんの血が流れているのよ」 電話で玲名姉が嬉しそうに話していた。  森川先生のスマホに何度、連絡しても、圏外だった。玲姉から先生の実家の場所は聞いていたが、そこに先生のいる気配はしなかった。  3月6日、日曜日。もしも、と思い、私は最初に先生と偶然的に出会ったあの場所に、自転車で急いで行ってみた。その場所にも先生の姿はなかった。  私は少し残念に思って、松川の河原を下流に向かって自転車をこいで行った。あの時と同じように、太陽はすでに吾妻山に寄りかかり、空の雲は茜色になり始めていた。近くに松川にかかる国道4号線が見えてきた。  私は空の雲を見ながら、自転車を走らせた。そして、目の前に既に河原があることを忘れ、勢いあまって、ブレーキをかけ過ぎ、昨年同様、自転車と一緒に河原の土手に落ちてしまった。  すると、そこには、空の雲をボーッと見つめる懐かしい人が横たわっていた。1年前と同じ格好の先生が、そこにいた。私は、痛いのも忘れ、涙が出てきてしまった。 「安藤くん、大丈夫か?そんなに痛いのか?」  私は痛さを忘れ、先生に抱きついてしまった。とても会いたかった。とても抱き締めたかった。そして、離したくなかった。私の涙は止まらず、先生に手から肘へ伝わっていった。先生の右手には、包帯は見当たらなかった。  また安堵感で涙がこぼれた。そこに生きている先生がいれば、それで良かった。 「先生、会いたかった」  先生はハンカチを出して、私の涙を拭いてくれた。 「ここで会うのも、1年ぶりかな・・・」 「少し場所がズレていますけど。  でも、あの時のお互いの気持ちが、全く違います」 「そうだね」 「先生、ごめんなさい」 「何が?」 「伸先輩が嶋津泉さんから聞いた話と、姉の玲から1年前の事故の話、聞いてしまいました」 「誰だって過去はあるさ。それが1人1人、いろいろなものがあるだけ・・・」 「でも、先生は他の人より重い荷物を持ちすぎ。頑張りすぎです。他の人に少し分けてもバチは当たりません」 「しかしね、安藤くん。誰に頼んでも、自分の過去は、自分で解決するしかないんだ。わかち合えることもできない。自分で吹っ切る他ない。自分自身の過去にケリをつけるのは、自分自身以外にはいないのさ」 「先生は決着、ついたのですか?」 「どうかな。ついているなら、ここにはいないかもよ」 先生はまた、空に浮かぶ雲も見つめた。 「先生、ここで一緒に雲を眺めていていいですか?」 先生は何も言わなかった。体を横にして、河原の土手に寝ころんで、流れゆく少し茜がかった雲を見つめていた。私も先生の真似をして、体を横にして、同じように少し茜がかった雲を見つめた。  時間がゆっくりと流れていくのが感じた。何かもが、自分と関係のない世界のようだった。空に浮かんだ雲が、私達の時間を留めていた。そして、その雲も、徐々に色を変え始めていた。  先生が小さな声で言った。 「なつ、時間が解決してくれる問題もあるのさ。全てが推理小説のようにはいかないのさ。これが現実なんだ。答えは1つじゃないから・・・」 私は、隣に先生がいる幸せを知っている。好きな人が目の前から消えて、初めて、その人の大切さを知った。私にはこの人しかいないのかもしれない、という気持ちが改めて感じた。  私はこの人を頼りに、この1年、生きてきたんだと。そして、これから、彼を支えていきたいと確信した。  しばらくして、先生が上半身を起こし、私に向かって質問した。 「なあ、安藤くん、あの人を見てご覧」  私も上半身を起こし、先生に言われた方角を見た。その方向には、この松川で釣りをしている男の人がいた。昨年を同じようなシチュエーションだ。まさか、また犯罪の匂いがするのだろうか? 「安藤くん、彼を観察してみて、考えた事を言ってご覧・・・」  私は、1年前の復活戦のような気持ちでゆっくり考えた。1年間、森川先生と一緒に過ごして、観察力は昨年と比べものにならない程成長したように思っている。  完全にこのスタイルは昨年と同じ。周囲にパトカーなどの警察のいる様子はない。釣りをしている男の人は、昨年の男の人と違って、完全に釣りの準備をしている。釣り道具一式、椅子、服装、浮きをじっと見ている姿、魚を取る網。年齢は60歳くらいで、完全に定年退職して、この時間に、ここにいてもおかしくない。  昨年と男の人の状況は全く違う。ここは松川。違いは、釣っている場所が、昨年より大分、下流になっていること。さて、森川先生を納得させる推理は何だろう。先生の顔を見ても、先生は向かいにある信夫山を見ている。今年は暖冬で、雪はほとんど降っていない。信夫山もいつもの冬と違って、雪景色になっていない。松川の河原も全く、雪はない。  私は思いきって、先生に言ってみた。 「ただの釣り人・・・」 森川先生は私に向かって、にこっと笑うと、 「安藤くん、成長したな。正解だよ」 先生は今まで私に言った事もない「正解」という言葉を言ってくれた。でも・・・疑問が残る。 「先生、私、適当だよ。だって、ここ松川だよ。魚、釣れない川でしょ。それなのに、正解だなんて・・・」 「それだけでしょ。安藤くんが疑問なのは。他はきちんと、考えたのでしょう」 「一応は。でも、この松川は、高湯温泉と姥湯温泉から流れる硫黄の川でしょう」 「でも、昨年と違うのは?」 「あの釣っている人の位置ですか?」 「安藤くん、今日は冴えているね。正解さ」 1日に2回も、森川先生に「正解」と言われるなんて、きっと何かある。そんな気がした。 「観察力がこの1年で、はるかに成長したよ。そうなんだ、昨年より、あの男の人の位置が、大分下流にいるだろ。それが観察する上で大切な事なのさ。あとは、わずかな知識なだけさ」 「そのわずかな知識って、何ですか?」 「つまり、昨年の男の人がいた所は、もう少し上流の松川。  しかし、いいかい、今、あの男の人が釣りをしている場所は、もう少し下流に行くと、阿武隈川に合流する地点だ。つまり、阿武隈川の流れがこの松川に入ってきている場所なんだ。  絶好の釣りのポイントでもある。本当の淡水にしか棲めない魚にとっては、あの位置には、泳いでこられない。ある程度、松川に水に慣れた小さな魚は、あの位置が他の魚に食べられない、絶好の安全地帯という事を、体で知っているんだ。つまり少し淡水に硫黄が混ざって、淡水でしか生きられない魚が来ない場所さ。  つまり、あの位置は人間しか、天敵がいない事を・・・。わかるかい」 「わかりました」  釣りをしていた男性の竿に、魚がかかり、男の人は魚を釣り上げた。男性は、その魚を釣ったと思ったら、何とまた川に放してしまった。 「先生、あの人、魚、離しちゃったよ」 「『キャッチ・アンド・リリース』っていうのさ。魚を釣って、持ち帰るのではなく、魚を釣る事自体を楽しむため、釣った魚をわざと川に戻すのさ。そうすると、川の魚は減らないだろ。乱獲にもならない」 「初めて聞きました。その『キャッチ・アンド・リリース』って」 「まあ、世の中、いろいろ、あるという事だよ」  森川先生はまた土手に寝ころんだ。少し紫色になった雲は絶えず私達の頭の上を流れていく。まるで、この小さな世界の事など、まるで気にしていないような流れだ。  私達の悩み等、とてもちっぽけだ、と言わんがごとく・・・。そして、また、紫色の雲は、悠々と流れていく。 「なつ、今、あの紫色の雲に憧れているだろ」 「そうですね。先生には何も隠せないですね。悠々と自由に漂っていて、気持ち良さそうです」 「でもね、なつ。今は悠々としている雲でも、形は変わるんだ。  あの雲の形は、今、一瞬なのさ。空模様によっては、白い雲は、黒くなり、雷を落としたり、夕焼けで赤くなったり、紫になったり。そしてまた、月明かりが漏れる薄さだったり、とても厚く、太陽も遮る雲になったり。その環境で変わるのさ」 「まるで、人間と一緒ですね」 「安藤くん、たまには良いこと言うね。人間もまた、自然の中で生かされているからね」 「『生かされている』・・・全くその通りですね。『生きている』とは違う感覚ですね」 「全く違うね・・・」    私と先生は、空に浮かぶ赤い、形が変わりつつある雲を見つめた。先生は、私と同じものを見ても、いろいろな考えができる人間だと思った。そして、少しの言葉で相手の心のイメージを変えてしまう力を持っている。私には、その名探偵の助手の足下にも及ばない。そんな力はない・・・。 「先生・・・」 「何?」 「まさか、学校、辞めないですよね」 「安藤くん、何故、そう思うの?」 「ただ、嫌な予感がしたから・・・」 「辞めてほしいの?」 「絶対にイヤです」  先生は私の前で、赤くなりかけている空を見て笑った。 「辞めないよ。ただ、この時期、ここでボーッとしていたいだけさ。今の私は、過去の亡霊に振り回されているのさ。情けないけど・・・」 「そんな事・・・。私の方こそ、先生の昔の話、ぶり返して・・・」 私は、言葉がつまってしまった。早く、話題を変えないと・・・。 「先生、今日はここに、どうやって来たのですか?」 「自転車」 「1年前とは違うのですね」 「あの時は、自転車が降ってきたからな・・・」 「すみません。あの時は・・・」 「いいよ。感謝するのは、私の方かも。私の方がな安藤くんに助けてもらったのかもよ」 「それは、逆です。あの時、先生に出会ったからこそ、リストの『前奏曲』を聞いて、二本松高校に進路を決定して、また、先生に出会えたのですから・・・」 「でもね。あの時、私が安藤くんに話した言葉は、私が自分に対して話した言葉のような気がするんだ。安藤くんが、ここに1年前に来なかったら、今の私はいなかったかもな・・・」 「そうですか?」 「そうだよ。しかし、安藤くんは玲に似ているな・・・」 「みんなにいわれます。姉に似ていると・・・」 「私も、あの時、一瞬、玲が私の前に来たと思ったくらいだからな・・・」 「玲姉も話していました。  今でも、先生の事、好きだって。尊敬しているって。今の安藤玲があるのは、森川優のお陰だって・・・。随分、褒めていましたよ」 「ふぅ~ん・・・」 「先生、玲姉とは何かあったの?」 「ノーコメント」  先生は、私に顔を向けていなかった。 「先生、先生の家に一緒に行ってもいい?」 「いいけど、いろいろ、詮索しないね。1年前のままだから。焼き餅も焼かないでね」 「はいはい」 「何か、変?」 「何が?」 「・・・」  私と先生は、自転車を土手にあげ、ゆっくりと走り始めた。 「さあ、ゆっくり行こうか」 先生は私に合わせて自転車をこぎ始めた。そして30分もかからないで、先生の家にたどり着いた。  森川先生の家は、2階建てで、今風の感じがした。玄関を開けると、線香の匂いが漂ってきた。  家の入ると、部屋の壁一面にいろいろな絵が飾ってあった。その絵の色彩感覚やバランス感覚に私は心を打たれてしまった。  何と、素晴らしいのだろう・・・。 「この絵、ほとんど、奈津子のなんだ・・・」  私は仏壇に線香をあげ、そこに飾ってあった、先生の両親と幼い妹の写真、森川先生と一緒に写っている奈津子さんの写真を見た。  奈津子さんはとても綺麗で美しかった、あの福島市音楽堂で遠藤伸先輩と一緒にいた嶋津泉さんにやはり似ていた。  先生はいつの間にか、窓を開け、掃除を始めていた。私は、奈津子さんの描いた絵を1枚1枚見ていた。心が捕らわれていた。私は、完全に嶋津奈津子さんには勝つ事ができないかもしれないと、その時に強く思った。  その中で、1枚の大きな絵を見つけた。バイオリンを弾いている先生だった。題名は「宿命」となっていた。奈津子さんは、この絵を描きながら、何を感じていたのだろうか?将来の2人の生活なのだろうか?それとも・・・。しかし、奈津子さんは、主に風景画を得意としているようで、壁一面にいろいろな場所の風景画が飾ってあった。 「奈津子とは、絵を描くために、日本のいろいろな場所に出かけたな」 「いいわね。絵を描くために、旅行するなんて」 「でも、絵だけを描くために、旅行した訳じゃないし・・・」 「でも、素敵な風景が、たくさんあるわ」 「風景が得意だったから・・・」 「先生、いつから学校に来るのですか?」 「金曜日の夜かな・・・。」 「11日ですか・・・。何かまだ、あるですか?」 「奈津子の一周忌・・・」 「その事を知っている人って、学校で誰かいますか?」 「先生では、皆川友美先生と松村美香子先生かな。先崎春美先生と片平月美先生も知っているかも・・・。渋川渉教頭先生にも話しておいた。生徒は、安藤くんだけ。まあ遠藤伸も、知ってはいるか・・・」 「学校以外では?」 「嶋津の家と私のわずかな友達かな・・・」 「この事は黙っておきますね・・・」 「はいはい」 「それじゃ、先生が二本松に戻る時に、メールを下さいね」 「はいはい」 「『はい』は1回でいいって、先生は話していましたよね」 「はいはい」 「・・・」    私はこのまま、先生の家に泊まっていっても良かったが、今はこの奈津子さんの絵に囲まれて1日を過ごす自信がなかった。先生も、私をこの家で今日の日を過ごす事はできないだろうと思った。  森川先生は、私の家の前まで車で送ってくれた。 「またね」 太陽は大きく傾き、1日の終わりを告げていた。  私はその夜、自分の家から、玲姉に長電話をした。 「思い出は美化されるものよ。周囲の人々や新しい環境、出会う人々によって・・・。なっちゃん、森川先生の辛い思い出を美化させてあげてね」 優しい口調だった。 「春休み、福島市に帰るから、その時、森川先生の昔話をしてあげる」  私は、夜、寝ながら、森川先生と出会ってからの1年間を振り返った。  今まで生きてきた17年間の中でも、たくさんの事があり、いろいろと学ぶ事が多かった1年間だった。私はもうすぐ高校2年生になる。森川先生は、来年どうなるのだろうか?  暖冬の今年は、まだ雪がたくさん降っていない。南の方では、桜予報が毎日、変更になっている。先生の心の桜が咲く日はいつ来るのだろうか?先生と再会する日が楽しみだ。  しかし、私は2011年3月11日、金曜日の夜に森川先生に会う事は出来なかった。それは、あの日、日本を震撼させる出来事が起こったからだ。
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