110.第4話「二本松高校の合唱部」

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110.第4話「二本松高校の合唱部」

7e89a0df-aa8c-45e8-810a-7ca2b610a336  福島の夏は暑い。この二本松の夏も暑い。6月に入ったが、もう夏の暑さが漂っている。そんな夏の気配のする6月の放課後、第二理科室から合唱部の歌声が聞こえてきた。  6月9日、金曜日。私は悶々としていた。 「森川先生、何で第一理科室と第二理科室を合唱部のパート練習に貸すことの承認したのですか?」 私が森川先生に詰め寄った。理科室の責任者は森川先生ではないが、森川先生が、「ダメ」と、一言、言えば、理科室を合唱部には貸さない事になっていた。もう1人の天文学部副顧問の先崎春美先生が管理責任者なのだ。 「森川先生にお任せします」 先崎先生は、みんなにそう話してしまっていたので、合唱部に理科室を貸すかどうかは、森川先生の一存になってしまったのだ。 いつもなら、この時期、合唱部は音楽棟から一番離れたこの理科室でパート練習は行わないらしい。しかし、今年は特別で、合唱部顧問の松村美香子先生という20代の若い女の先生が盲腸で入院してしまい、大会が近いのに、全体練習ができない状態になってしまっていたのだ。他に副顧問の先生はいるが、名ばかりの顧問で、「音楽」の「お」も知らず、毎年、大会に引率するだけだと聞いていた。  今の合唱部は、せいぜいパート練習をする以外に練習方法がなくなり、生徒が放課後、自習をしている普通教室でなく、理科室をパート練習の場所として目をつけられたのだ。 「でも、森川先生、理科室にピアノがないのに、練習できるのですか?」 「今回、うちの合唱部が自由曲として選択した松下耕さん作曲の『あいたくて』は、ピアノ伴奏がない無伴奏の曲なのさ」 「随分、合唱に詳しいのですね」 「ああ、合唱部部長の遠藤伸さんが、理科室を借りたいと言いに来た時に、いろいろ聞かされたからね・・・」  私の二本松高校の合唱部は、なぜか女子ばかり。顧問の松村美香子先生は東京の音楽大学を出て、この二本松高校に初めて勤務した先生らしい。  今年は、無伴奏の女声四部合唱に挑戦しているらしい。合唱部は40人くらいいるらしいが、実際何人、入部しているかは、私にはわからない。いつもは、校舎とは、別に離れている音楽棟やその近辺で練習しているし・・・。  音楽棟は校舎とは別棟で、1つの大きな音楽室と音楽準備室が入っている。音楽室で主に合唱部と吹奏楽部が練習しているのだ。2つの部活動で練習日が決まっているようで、金曜日と土曜日が吹奏楽部。他の曜日が合唱部が音楽室を使用する権限があるらしい。音楽室を使用できない時は、音楽室周辺の外でパート練習をしたり、開いている2年生の教室で個人練習をしたちしているらしい。  音楽室は南側はガラス張りになっていて、中の様子がうかがえる。しかし三面は壁で、音が校舎の方に響かないようになっているらしい  そして今年は、部長の遠藤先輩がリードを取って、大変気合いが入り、パート練習をしっかり行っているらしい。  遠藤先輩はどちらかというと、女らしいというより、男性的な所があり、そこに女子部員がついていくのだろう。  ところが、今度の大会の前になって、顧問で指揮者の松村先生が、盲腸で緊急入院してしまった。だから、3年生の先輩達が、練習会場の確保に四苦八苦していた。普通は2年生の教室を使用するが、今年、冷房工事が入ってしまい、パート練習の場所がなくなっていた。まさか、この暑い中、外で練習をしては、倒れる女子高校生が多くなってしまう。それで、第一理科室や第二理科室が、目をつけられたのだ。それで、放課後は、この第一理科室と第二理科室の間にあるこの地学準備室が、合唱部の声にはさまれて、落ち着かなくなっている。  その合唱部の声が両隣から響いている地学準備室で、森川先生が、放課後、居眠りをできるという事の方が、私にはすごいと思っている。 「そんなに自習をしたいなら、図書館に行って行えばいいじゃないか。図書部なのだから。カウンターに自分の席があるのだろう・・・」 「最近、司書の片平先生と、星先輩への私の目つきがバレそうで・・・。よく、3人になる時が多くて、気まずいのですよ・・・」 「それは、安藤くんの問題で・・・」 「だから、夏休みが始まるまでの間、この地学準備室に避難しようかなって思って・・・。私をここにおいてもらって、いいですか?」 「自分の教室は?」 「ダメです。1年生の教室は森川先生が吹奏楽部のパート練習に貸しているじゃないですか」 「そうだったかも・・・。  でも、ここだって、合唱部の間に挟まれているよ。それに、私もここにいるし・・・」 「先生はここにいても、いつも寝ているじゃないですか」 「そう?」 「先生、私は一応、高校生です。宿題とかたくさんあるし、家に帰ると、自炊もしなくてはならないので、宿題は学校で行いたいのです。特に誰かの数学の宿題が多いし・・・」 「数学の宿題は、あまり出さないけどな・・・」 そういえば、実際、森川先生は、数学の宿題をあまり出していなかった。しかし、なぜか、森川先生は、狸寝入りを始めていた。  私が、教室に荷物を取りに行くと、吹奏楽部は休憩中のようで、教室に譜面台が散乱し、吹奏楽部員の姿は見えなかった。その代わり、私のクラスでは、合唱部の新川純子さんが、教室で1人、ボーッとしていた。純子さんは、二本松市出身の子で、中学校の時も、合唱部に入っていたと話していた。いつも、ポニーテールに眼鏡をかけて、歌っている姿が魅力的な子だ。 「どうしたの、純子さん。合唱部、サボリ?」 「ちょっと、お腹が痛くて・・・。でも、本当に痛いのは心の方なの」 「恋?片想い?」 「違うわ。先輩の事と部活動の事」 「やはり、片想い?」 「だから、合唱部は女子しかいないし・・・。それに、私、女子好きじゃないから!」 「それじゃ、何?」 「今、顧問の松村先生がいないでしょ。だからずっと、パート練習。私はソプラノのパートなんだけど、うちのパートは音楽室で練習しているの。で、一番難しい場所が、2つ分かれたりして、ソプラノのパートも2つに分かれて練習したりするのだけど・・・」 「で?」 「コンクールの曲に、ソプラノのソロが出てくるの。で、3年生でそのソロを歌いたいっていう先輩が2人いて、練習が気まずくて、2年生と1年生が困っているの」 「どちらが、ソロを歌うか、松村先生は決めていかなかったの?」 「そうみたい」 「純子さんからみると、どうなの?」 「3年生の吉川かおり先輩と南優子先輩がソロを争っているんだけど、2人とも、上手なの。何でも、2人とも、声楽で音大を狙っているらしくて、それぞれ別々の声楽の先生についているほどだから。で、残りのソプラノの3年生がどうしていいかも困っているみたい。2人の間に入って・・・」 「部長は?」 「部長さんの遠藤先輩は、アルトのパートなの。だから、ソプラノのパートで決めるか、松村先生に聞きに行くと言っているけど・・・。でも、今の私達は、パートの気まずさが怖くて・・・」 「先輩、2人で歌ってもらえばいいじゃない」 「そうはいかないの。2人とも、プライドが高くて、歌い方も大分、違うの。だから、一緒になんて歌ったら、大変よ」 「それじゃ、くじ引きとかじゃんけんとか・・・」 「そんな事、私達、1年生が言えるわけがないでしょ」 「難しいね。女は・・・。もう1つの部活動っていう悩み事は?」 「最近、合唱部の練習に生徒指導の国松先生や渋川教頭先生が見回りに来るの」 「顧問の松村先生が入院したからじゃない。顧問が不在中、ケガでもしたら大変だから・・・」 「合唱部よ。運動部と違って、ケガとか・・・」 「だよね」 「昨日なんて、練習を見に来た事のない副顧問の先生が見回りに来たの。私、初めて副顧問の先生の顔を見た」 「合唱部、何かしたんじゃない?」 「私に聞かれてもね。なっちゃん、何か聞いていない?」 私は全く知らなかった。でも、森川先生なら・・・。 「わからないわ」 その場を誤魔化した。 「そうかなぁ。私、そろそろ、練習に行くね。先輩に睨まれるから。ソプラノの3年生の先輩って、怖いし・・・」 「睨まれないように頑張ってね」 純子の背中は、少し傾いていた。純子は、肩でため息をついているようだった。  私は、今日の図書館での自習をあきらめ、地学準備室に足を向けた。純子の話を聞いたせいか、なぜか私の心も、もやもやしたものが残った。こんな時に森川先生と話をしたり、森川先生の責任のなさそうな顔を見たりしていると、なぜか私の心が落ち着いていくのだ。もしかすると、森川先生は私の胃薬かもしれない。  地学準備室のドアを開けようとすると、中から声が聞こえてきた。誰かいるらしい。それも、女子の声。 「では、お願いします」 「はいはい、わかりました」 「では、失礼します」  地学準備室のドアが開いた。私は、今、地学準備室の前に来たように振る舞った。地学準備室から出てきた人に会釈をした。彼女は合唱部の部長、3年生の遠藤伸先輩だった。彼女は、髪を短く切り、女の子のあこがれる異性の雰囲気を持った女の先輩だった。ここが、共学の学校ではなく、女子高だったら、女生徒からのファンレターが集まる存在に違いない。女の私から見ても、顔立ちが素晴らしく、美しいというか男前というか・・・。行動がハキハキしていて、話す内容もしっかりしている。男子も顔負けの実行力と、純子から聞いていた。  そんな、彼女がまたなぜ今、ここに?この時間にこの地学準備室にいるのは、森川先生しかいない。また、どこかの教室でも、合唱部が借りたいと言われたのだろうか?図書館とか・・・?仕方がない無責任さ。我、顧問として情けない。 「失礼します」  私は地学準備室に入っていった。 「森川先生?」 「何?」 「また、どこかの教室を貸してくださいとか、合唱部の部長さんに頼まれたのですか?」 「違うよ」 「それじゃ、何をお願いされたのですか?」 「安藤くん、それって、女の嫉妬?」 「そんなんじゃ、ありません。ただ、廊下まで聞こえたから」 「隠す事でもないけど、明日、遠藤さんからデートの約束を申し込まれたのさ」 「デ、デートって、女子高校生とですか?」 「そうだよ」 「OKしたのですか?」 「一応」 「森川先生って、男っぽい女性が好みだったのですね」 森川先生は笑いながら、座っていた椅子から落ちそうな感じで私を見つめていた。まるで、私が遊ばれている猫のようだった。 「合唱部顧問の松村先生の入院している福島医大に、一緒に行って欲しいと頼まれたのさ。松村先生が、遠藤さんに、私を医大まで連れてくるように頼んだらしい」 「なぜ、森川先生が指名されたのですか?」 「私は松村先生でないから、そこまではわかりません」 淡々と答えていた。  先生は私のためにミルクティーを出してくれた。一応私は、宿題をする準備をした。 「という事で、明日の土曜日の午前中は、福島医大に行ってきます」 私は、いろいろな教科書を、地学準備室の机の上に出しておいたが、どんな数式も英単語も年表も頭の中に入ってこなかった。「もしかして、私は、嫉妬をしているのだろうか?」と、思ってしまった。と言うことは、「私は、森川先生の事を・・・」と、自問自答してしまって、宿題どころではなくなっていた。  私は先ほど、新川純子から相談された内容を森川先生に話した。 「そうか、先生達も警戒しているのか」 森川先生は何かを知っていると思った。 「その話、聞かせて下さい」 私は頼み込んだ。 「まあ、安藤くんなら、話しても大丈夫かな」 森川先生は必ず前置きをする。 「実はね。あれは松村美香子先生が入院する前の週だったから、4日の金曜日だね」 森川先生は地学準備室にあるカレンダーを見る。 「私が松村先生に呼ばれ、校長室に行ったんだ」 「何か悪さをしたのですか?」 「違うよ。松村先生が私にお願いしたい事があると言うんだ」 「それは、それは・・・」 「校長室に入ると、渋川涉教頭先生と生徒指導の国松先生がいた。そして、何枚かの写真を持っていた。その写真には、二本松高校合唱部の練習中の姿が映っていたんだ」 「盗撮ですか?」 「そうだった。それも、最近、撮影されたものばかり・・・。国松先生によると、ネットで二本松高校合唱部の写真が高値で販売されているらしいとの事だった。写真には、音楽室の中で制服姿で練習する合唱部の姿ばかり。それも、ローアングルからの・・・」 「パンチラですか・・・」 「いいや、チラではない。完全に狙った写真も多かった」 「合唱部だけ・・・?」 「そう」 「吹奏楽部はなし?」 「そう」 「それは合唱部が可愛い子が多くて、吹奏楽部がブスが多いって事ですか?」 「違うと思う」 「何がですか?」 「撮影された場所は全て、音楽室内だ。それも、ガラス越しではなく、音楽室の中から撮影している。顔がアップになっていたり、スカートの中がアップになっている写真もあった。国松先生が持っていたのは10枚。ネットには、この10枚がサンプルとして掲載されていたらしい。だから、販売されているのはもっと多い枚数になる」 「それで、なぜ、森川先生は校長室に呼ばれたのですか?」 「まず、国松先生と渋川涉教頭先生に、松村美香子先生が呼ばれ、生徒の顔や活動内容を確認された。今後の対処方法も・・・。そして、誰が撮影したのかという事になった。3人で知恵を絞ったが、何も浮かばなかった。警察に相談してもいいが、学校の風評にも関係してくる。ネットにある写真も、その事を知った者が事件解決前に購入するかもしれない。写真が多く出回るかもと・・・」 「それで、事件解決のために森川先生が校長室に呼ばれたのですね」 「そうらしい」 「それで、どうするのですか?9割は解決したのですか?」 私は冗談で話してみた。 「そうだね」 また、驚いた。 「松村先生が月曜から入院してしまったから、私1人で対策を考えた。  まず、撮影された写真を借りて、そこに写っている生徒を把握した。合唱部の現在の部員は41名。写真に写っていた合唱部は32名。つまり残りの9名のうち誰かがこの写真を撮影した事になる。  それで、今度は4つのパートを音楽室以外に振り分けて練習を行った。松村先生がいないという事を理由に・・・。第1理科室にソプラノの上。第2理科室にソプラノの下。第1会議室にメゾソプラノ。第2会議室にアルト。音楽室で42名全員を練習させても、誰が撮影しているか分からない。10名ずつなら、確認が出来ると思い、それぞれの場所にカメラを仕込んだ」 「なんかこっちが盗撮犯みたい」 「そう言うな。残りの9名のうち、ソプラノ上が1人、ソプラノ下が2人、メゾソプラノが3人、アルトが3人だ」 「で、9割が分かったという事は、もう森川先生はその9人の中の1人を突き止めたんですよね」 「まあね」 「誰ですか?」 「今日は水曜日。合唱部を分けて3日になる。そろそろ、新しい写真がアップされてもいい頃だと思って、ネットを監視していた。すると、先ほど、ネットに新しい写真がアップされた。写真の背景は第1会議室。メゾソプラノの3人のうち誰かだ。そして、その3人のうち、2人が写真に写っている。だから、撮影したのは宮野真紀絵2年生だ」 「・・・」 「実は、お願いされた金曜美から宮野真紀絵さんに狙いをつけていたんだ」 「どうして?」 「この写真がネットにアップされたのは、今年度になってから。昨年までのは、ない。だから、2年生か3年生だろうと・・・。そして、9名の中で2年生と3年生は4名。その中でこの写真が撮影された5月に日を音楽室の時計や日めくりカレンダーで確認した所、撮影された日にその4名の中で全ての日に登校していたのは、宮野真紀絵さんだけだった」 「じゃなぜ、すぐ・・・?」 「彼女の動機が知りたかった。それに、合唱部を4つに分ける事で、宮野さんの盗撮がなくなればいいと思っていた」 「でも、アップされた」 「昨日、彼女の事を調べてみた。彼女は4月に福島県の南にある白河西高等学校から転校している。表向きは、家族の転勤となっているが、彼女に両親はいない。年の離れた兄だけだ」 「じゃ・・・?」 「運のいいことに白河西高等学校に、私の大学の同級生が勤務している。大学の生物科で一緒だった森元良人だ。彼に宮野真紀絵さんの高校1年生の事と転校理由を聞いた」 「何でした?」 「彼女の兄は暴力団に入っている。その兄が高校に来て、よく嫌がらせをしていたそうだ。宮野さんはそのため、高校にいる事が出来なくなり、この二本松高校に転校した。性格は大人しく、物静かと話していた」 「そんな宮野先輩がなぜ、盗撮を・・・」 「盗撮されたネットを、二本松警察署にいる知り合いに調査してもらった。すると、写真を購入するためのお金の送り先が、宮野さんの兄、宮野誠の所属する暴力団だった」 「それじゃ、宮野真紀絵さんも暴力団の手先?」 「それがね・・・。今回アップされた写真を見ると、以前と違っている」 「どう?」 「スカートの中を撮影したものが1枚もない。生徒の顔だけだ」 「じゃ・・・」 「宮野さんは兄の手伝いを嫌々していると思う」 「可哀想・・・」 「で、今、警察に内々に動いてもらっている。暴力団の事務所は郡山にある。郡山警察署の知り合いがその暴力団事務所のコンピュータを調べて、中にある写真を抑えれば終わりだ。コンピュータの中だけじゃない、事務所の中に写真があると思う。焼き回しをして販売しているからね」 「最近の暴力団は、変わりましたね」 「まず、宮野真紀絵さんを助けないとね。このままじゃ、彼女が暴力団の食い物にされる」 「今後、どうするのですか?」 「渋川涉教頭先生と国松先生には、事の次第を報告して、撮影した宮野真紀絵さんも被害者だという事を話してみるつもりだ」 「暴力団にいる兄の宮崎誠は?」 「今頃、警察が事務所に家宅捜索に入っている」 「大変そう・・・」 「ちょっと校長室に行ってくる」 私は、そのまま地学準備室で宿題をやって、森川先生の帰りを待った。  いつの間にか寝てしまった。 「安藤くん」 その言葉で起こされた。 「たまには、一緒に帰るか?」 下校時間をとっくに過ぎていた。  二本松高校から二本松西小学校までの道のりは、1人も高校生が歩いていなかった。 「彼女と話したよ」 「どうでした?」 「泣いて謝っていた。兄の誠に脅されたと。家に帰ると暴力をふるわれると。彼女の体は痣だらけだった」 「どうなります?」 「まず、彼女を病院に入院される。過去に骨折した場所が多くあった。それも、治療していない」 「ひどい・・・」 「精神的にも大変そうだ」 「宮野先輩、戻ってきますよね」 「たぶんね」 「暴力団事務所は?」 「事務所の中から、安藤くんに言えない写真が沢山出てきたらしい」 一体、私に言えない写真とはどんなものだ? 「二本松高校だけでなく、他の高校でも被害に遭っていたらしい。警察が本格的に動く」 「そうでしたか?」 本町の坂を過ぎる頃には、先生と暗い道を並んで、まるで恋人同士のように歩いている自分に気がついた。  私は、今、一番気になっていることを聞いた。 「森川先生は、今、好きな人はいないのですか?」 「安藤くんの質問は、いつもストレートだな」 「すみません。先生に対して・・・。それもプライベートな事を・・・」 「今、付き合っている人はいないよ。それに、今、誰かを好きになろうとも思っていないし・・・」 「そうなんですか」 なぜか、そんな質問をした自分に後悔した。 「安藤くんは好きな人はいないの?」 「多分、いないです」 「多分って?」  先生の揚げ足を取られてしまったが、何と答えていいか分からなかった。私は答えをあやふやにしたまま、自分の部屋の前で森川先生と別れた。  12日、土曜日は久しぶりに暇だった。昼に「アンダンテ」に行っても、今日は1人でナポリタンを食べた。 「振られたの?」 マスターの西村さんに言われてしまった。部屋に帰る途中、202号室のチャイムを鳴らしたが、応答はなかった。部屋に帰っても、気になって勉強が手につかなかった。 「私はやはり、嫉妬しているのだろうか?」 また自問自答をしてしまった。  夜の10時過ぎ、202号室のドアが開く音が聞こえ、森川先生が帰ってきた事を知った。 「まさか、こんな遅くまで遠藤先輩と一緒だったのだろうか?」 自分に言い聞かせて、眠ってしまった。  翌日、13日、日曜日。私は気晴らしと宿題の残りをするために、二本松高校の図書館に向かった。3年生の自習対策のために、先生方がボランティアで、図書館の1階をわざわざ開放し、勉強を教えているのだ。 「勉強をしたい者は誰が来ても良い」 図書館はそうなっていた。1年生の私が行っても文句は言われないだろうと思って、高校に行ってみた。  私は、高校の校門を入ると、左手の音楽棟から合唱部の全体練習の声が聞こえてくるのを耳にした。最初はそんなに気にしていなかったが、顧問の松村先生がいないのに、誰が指揮をして、指導しているのだろう、という事に気がついた。それも、あの合唱曲「あいたくて」の合唱が上手に聞こえていた。まさか、松村先生がこんなに早く退院して、練習に復帰するのは無理だろうと思った。それで、私は、そっと、音楽棟を覗いてみることにした。私は、音楽棟の南側の窓から、合唱部の練習をそっと覗いてみた。  私は、指導している指揮者の後ろ姿を見て、大変驚いた。顔を見なくても、その後ろ姿が森川先生だと、一目でわかった。普通のその辺の人の指揮じゃない。上手な指揮をしている。そして、曲の途中で指揮を止めて、合唱の指導までしている。私は図書館に行くことを忘れて、ずっと先生の合唱練習を見ていた。合唱素人の私にも、私が窓から覗いているこの短時間で、二本松高校の合唱部が上手になっていくのが分かった。テンポの揺れといい、歌詞の表現の仕方といい、強弱のつけ方、パートのバランス、そして発声の仕方。昨日まではその辺のクラス合唱と同じレベルだったこの合唱部が、どこかの音大の合唱部くらいまで、わずかの間で成長していった。特に組曲「あいたくて」の最後の楽章の『日記』の美しさは驚きだった。昨日までは、ただの棒読みのソプラノが、今では夕暮れの海を見ているような素敵な合唱に変っていた。こんなにも、指揮者によって合唱が変るのかと思った瞬間だった。そして、指揮をしている森川先生にますます惹かれていく自分に気がついた。 「一体、この人は何者なのだろうと・・・」  気がつくと、合唱の全体練習が終わっていた。私は、森川先生に気づかれないように、音楽棟を離れた。  そこに、新川純子が歩いてきた。 「どうしたの、なっちゃん」 先に声を掛けられた。 「図書館で自習をしようと思って・・・。それより、純子は、練習、終わったの?」 「これから、パート練習」 「もしかして、今、音楽棟で指導していたのは、森川先生?」 知っていて、聞いてみた。 「顧問の松村先生から頼まれて、昨日と今日、練習を見てもらったの。でも、あの森川先生ってすごいよ。松村先生なんて、たぶん彼の足元にも及ばないと、思う。昨日と今日、2日間の練習で、うちのオンボロ合唱部が、とても上手に変ったような気がする。みんなの目つきも変わって練習していたし・・・。  今日の練習、ずっと部長が録画していたから、明日からそれを見て、パート練習をチェックすることになったの」 「そんなに、森川先生の指揮ってすごいの?」 「だって、今まで何人か教えに来た先生がいたけど、森川先生の練習の時は、上手になっていくことと、自分達の合唱が変っていくってわかったの。森川先生の指導は、具体的で分かりやすいし、上手だった。『合唱部の顧問になってほしい』って言っていた先輩もいるくらいだから・・・」 「で、あの問題はどうにかなったの?」 「何?」 「ソプラノの二人のソロ」 「森川先生が解決してくれた」 「どうなったの?」 「森川先生が、ソプラノのソロの部分を、ソプラノのパートの1人1人に歌わせたの。1年生の私にまで」 「それで?」 「それで、全く関係ない2年生を、森川先生が指名したの。『その部分は、舞台の中央でソロとして派手に聞かせるところじゃない。できれば、舞台の影でそっとつぶやくように、そして繊細さが欲しい』って。それで、いろいろ歌い演じる3年生ではなく、真っ直ぐに素直に声を出せる2年生がソロをすることに全員同意して解決したわ。みんなを納得させる解釈ができるなんて、やはり森川先生は素晴らしいと思うわ」 「文句は出なかったの?」 「森川先生の音楽の理解が、合唱部の全員の心をまとめたって感じだったの。『合唱部の心が1つになった』って感じだった」 「それじゃ、みんな、納得したんだ」 「それより、あの2人の3年生が『あの子が、このソロに最適だ』って言っていたの。驚いちゃった。それだけ、森川先生の音楽的解釈がみんなに分かりやすかったのよ」 「純子の心の悩みが1つ、減ったね」 「それも、森川先生のお陰」 「でも、何で、松村先生は森川先生に合唱の練習をお願いしたのだろう?」 「わからないわ。でも、私、あんな指揮、初めて見た。森川先生の指揮をする手を見ていると、自然と歌い方が変っていくの。先輩達もそう言っていた。  なっちゃん、これから昼食を食べながらミーティングだから、詳しくは明日ね」 純子はまた音楽棟の方へ消えていった。  私には、森川先生の知らない部分がたくさんあることに気がついた。一体、「森川優」とは何者なのだろうか・・・。  その夜、202号室のチャイムを何度押しても、返答はなかった。  翌日、14日、月曜日の昼休み。私は早速、自分のお弁当を持って、地学準備室を訪れた。すると、地学準備室から、合唱部の部長の遠藤先輩と副部長の2人が、何かお礼を言って出てきた。私は、軽く会釈をすると、その2人に代わって準備室に入った。相変わらず、森川先生がカフェオレを飲んでいた。 「先生、今日、ここでお弁当を食べてもいいですか?」 お弁当を見せながら尋ねた。 「珍しいね、安藤くんがここでお昼を食べるとは。学級でいじめにでも会った?」 「違います」 私は、完全否定すると、椅子に座り、机の上にお弁当を広げた。 「先生、昨日の事、聞きました」 「何の話?」 「誤魔化してもダメです。先生が合唱部で指揮をして、指導したこと」 「誤魔化そうとはしていないよ。ただ、ちょっと、合唱を合わせただけさ。入院中の松村先生に頼まれて、仕方がなくてね」 「なぜ、松村先生は森川先生に頼んだのですか?」 「それは、松村先生じゃないからわからないな。安藤くん。なんか私の小姑みたいだね。監視されている感じだね」 「何か、私が森川先生を見張っているみたいな言い方ですね。音楽ができない人に、入院中の松村先生でも、合唱部の指導を依頼はしないでしょう。先生、私に何か隠しているでしょう?」 「私も生まれた時から、先生じゃないからね」 「それ、以前にも聞いたセリフです」 「それに、私の事が全て分かったら、面白くないだろう」 「何が誤魔化されている感じです。純子から、『先生の指導がすごかった』って聞きました。実は、私も音楽棟の外から、先生の指揮を見てしまったんです」 「やはりストーカーみたいだね」 「偶然です。図書館に自習に来ただけです。その途中で、音楽室から声が聞こえてきたものだから・・・。  でも、先生の指揮をする後ろ姿、素敵でした。純子も、『自分達の合唱部が先生の指導で上手に変わっていくのが分かった』って話していました」 「安藤くん。何か今日は、褒め言葉ばかりで、どうしたの?」 「いいえ、少し素直になっただけです。それに、ソプラノの3年生の2人も問題も解決したって・・・」 「ああ、あれね」 「ところで、先生は、昼食、食べないのですか?」 「先ほど、食べた」 「先ほどって、合唱部の先輩がここに来ていたじゃありませんか?」 「だから、先ほどの空いていた4校時に・・・。ラーメンを食べに、外へ・・・」 「先生って、それでいいのですか?」 「見つからなければ大丈夫じゃないか。それに、そのラーメン屋に、うちの渋川渉教頭先生もいたから・・・」 私は、開いた口がふさがらなかった。大人って、こんなんでいいのかと・・・。 「そう言えば、今日の放課後、天文学部の話し合いがあるって、顧問の斎藤広先生が話していた。掲示板にも書いたらしい」  天文学部の話し合いなんて、初めてだ。 「来週、6月26日、土曜日と27日、日曜日と吾妻小富士に泊まりがけで、新入生歓迎会を行うと、部長の三和昴くんが話していた」  翌週、22日、火曜日には松村美香子先生が退院してきた。 7月に行われた定期演奏会に、なぜか森川先生と一緒に花束を持っていった。もちろん、私は新川純子からもらった招待券のお返しにだが、森川先生は2つの花束を持って行った。  合唱部は定期演奏会で、いろいろな曲を歌ったが、やはり「あいたくて」の曲がとても良かったように思えた。しかし、あの音楽棟で、私が森川先生の指揮で聞いた時より、冴えがなかったように思えたのは、私の耳のせいかどうかは分からない。  その森川先生はというと、私の隣の席でいつの間にか眠っていた。さすが、どこでも眠ることのできる特技の持ち主と、自分で言う事だけはある。  定期演奏会の帰り道、久しぶりに森川先生と並んでグリーンマンションまで歩いて帰った。森川先生は、合唱部の「打ち上げ会」にだいぶ誘われていたが、断って帰る方を選択した。私は、森川先生を並んで歩きながら、持って行った花束の事が気になって、勇気を出して聞いてみた。 「先生は誰に花束、持っていったのですか?それも2つ?」 「1つは、顧問の松村美香子先生。これは、仕方がないだろ。もう1つは、部長の遠藤伸さん。これは、招待券のお返し。これも、安藤くんと同じ理由だから仕方がないだろ」 「何か、弁解していませんか?」 「全然」 「先生、松村先生と遠藤先輩では、大分、容姿が違いますが、先生は、どちらがタイプなのですか?」 森川先生は得意の「聞かないふり」をしながら、マンションへの帰り道を急いでいった。 「先生、暗くて恐いから、先に行かないでください」 私は走って先生の腕をつかんだ。すると、先生は、私がつかんだ手を振りほどきもしないで、歩くペースを落として歩いてくれた。私のなぜか、先生の腕をつかんだ手を離さなかった。それが、二本松の街並みが暗くて恐いからだけではないことを、私は知っていた。 そして、合唱部は8月の県大会のコンクールに出場し、金賞を受賞したようで、東北大会への出場も決まったようだった。
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