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111.第5話「猫の飼い主」
私は、夏休みになるとすぐ、福島市の実家に帰った。それは、東京にいる姉の玲も帰ってくるという事だったので、久しぶりに会いたかったのと、母の手料理を食べ、甘えたかったからだ。
実家で姉の玲を会い、とんでもない事を聞かされた。
「森川優先生にバイオリンを習っていた」
「!!!」
私が小学生の頃、姉が近くの大学生にバイオリンを習い始めたと話を聞いた。
「福島第二高校で合唱部の顧問をしていた」
姉が高校3年生の時と、森川先生が福島第二高校に赴任した時期が重なっている。だから、森川先生はあんなに、合唱の事が詳しかったのだ。合唱の指揮も上手だったのはそういう事だ。森川先生は、私に何も話してくれなかった。
一番悔しいのは、私を「安藤玲」の妹だと知って、その事をこの3ヶ月、黙っていた事だ。どうせそのうち、分かるだろうとでも思っていたのだろう。悔しい・・・。
森川先生の婚約者の話も聞いた。
「森川先生が話しするまで、黙っていて。先生はガラスの心の持ち主だから・・・」
玲姉が真剣な眼差しで話してくれた。玲姉がそういう時は、いつも涙目になる。私はその話を聞いて、心に鍵をかけた。森川先生が話すまで鍵を開けないと・・・。
悔しさのあまり、夏休み、ずっと福島市にいようと思っていたが、玲姉が福島市を1週間で離れた頃合いで、私も二本松市に戻った。もちろん、森川先生に文句を言うためである。
7月の最後の金曜日。30日に夏休み中の二本松高校は、全校で体育の授業をやっているような風景だった。全ての部活動があちらこちらで活動していた。私は、校舎に入ると、そのまま地学準備室に向かった。今まで校舎の外は大変暑かったので、本当は冷房が効いている図書室に向かいたかった。まず、森川先生と話がしたいと思って、地学準備室に向かった。
地学準備室に来ると、その中から人の声がかすかに聞こえてきた。男の声は森川先生だった。女の低い声は合唱部部長の遠藤伸先輩の声だった。私は、忍び足で、地学準備室の前まで来た。心の中では、あまりいい感じがしなかった。他の人の内緒話を黙って聞く事は・・・。でも、なぜか私は今回に限り、耳を立てた。そして、息を呑んだ。
「定期演奏会では、そこまでレベルが上がらなくて、すみませんでした」
「遠藤くんはそんな事を言いに来たわけじゃないだろ。今頃・・・」
「森川先生に少し、ご相談したいことがあって・・・」
「何でしょうか?この私にできる事でしょうか?」
「多分、森川先生にしか相談できない話かもしれないので・・・」
「そんなに私を買いかぶらない方がいいかもよ」
「でも、福島医大で松村先生が話していましたよね。『迷った事があったら森川先生に何でも相談するように・・・』と。『森川先生は、他の人ができない事でも、解決できる人間だって・・・』とも話していましたよね。『森川先生に不可能はない・・・』って・・・」
「松村先生の言い過ぎだよ」
「先日、松村先生のお見舞いに一緒に行っていただいた時、先生の話を聞いて、私が今まで会った人と、森川先生は何かが違うと、私も感じたのです。そして、森川先生なら、何でも相談できそうな気がしました。秘密も守っていただけると思ったのです。
それに・・・」
「それに?」
「それに、森川先生なら私を守ってくれそうな気がしたのです」
「遠藤くん、それは私を持ち上げすぎだよ」
「先生?」
「何?
私は、神様でも仏様でもないよ。運命があるとしたら、自分で切り開かなければいけない。自分の前に敷かれているレールなんて、そもそもいないんだよ。私達は、自分でレールを敷きながら、自分で道を歩いて行かなくてはいけないんだ」
「森川先生は何でも見通しているような、言い方をしますよね。既に、私の悩みも知っているような言い方ですから・・・」
「・・・」
「森川先生、私の事、どう思います?勘違いしないでくださいね、好きとか嫌いとかいう感情ではなく、遠藤伸という人間についてです。
先生が、私を見て、というか、観察していて感じた事です」
「今、ここで聞きたいの?時間がかかるかもよ」
「そうですね。森川先生がそこまで言うということは、私が想像していた通りの回答が返ってきそうですね。さすが、名探偵と噂される方です。相談して良かったです」
「・・・」
「ここで話していると、誰かに邪魔されそうなので、・・・。安藤さんとか・・・。今晩、先生の御部屋に訪問してよろしいでしょうか?」
「私の部屋の場所がわかるの?それに、女の子1人で、独身の私の部屋に夜、来るなんで、身の危険を感じないの?」
「場所は、二本松駅前の松岡地区のグリーンマンションですよね。『アンダンテ』が入っている。
それに、身の危険を感じていたら、まず、今、この地学準備室に相談しには来ませんよ」
「部屋は、202号室だよ。オートロックだから、近くに来たら、メールか電話をしてくれ」
「先生って、みんな名刺を持っているのですか?」
「いや、それは特別さ。どこにも職業が載っていないだろ。例えば、二本松高校教諭とか。面倒くさいから、他の生徒には見せないようにしてくれると、ありがたいね」
「はい。宝物にします。
それに、先生のメルアド、みんな知らなくて・・・。多分、先生のクラスの安藤さんくらいじゃないですか、先生のメルアドを知っているの。
私も他には言いませんから、安心してください。森川先生を好きな子が多いので、先生も大変ですね」
「お互い様だろう。遠藤くんのメルアドも、あまり知られていないそうだな・・・」
「そうですか?」
「でも、夜、大丈夫?」
「私が女だからですか?そんなの、とうの昔に捨てました。両親にも森川先生の所に行ってくると言えば、心配しないと思います」
「それじゃ、夜、来るときに気をつけてね」
「お願いします。
そう言えば、田中みなみさんの件、大丈夫だったのですか?」
「今度、自宅に行くことになってね」
「その話も、今夜、聞かせて下さい」
中で人が動く気配がした。私はすぐ、その場を離れ、丁度今、地学準備室に来たふりをした。
「よう、安藤さん、勉強かい?」
「はい・・・。マンション、暑くて・・・」
「中に森川先生、いるよ・・・」
「ありがとうございます」
私は、遠藤伸先輩の顔を直視する事が出来なくて、地学準備室に入った。
「森川先生、姉に色々と聞きました」
「玲さんだね・・・」
「はい」
「私と最初に会った、松川の時には、私が玲の妹だって知っていましたね」
「まあね」
「それで、今まで何も言わなかったのですか?」
「そのうち、わかるだろうと思ってね・・・」
「ひどいです」
「それより、今の遠藤くんとの話、聞いていただろう」
私は固まった。
「やはりな・・・」
「ごめんなさい。どうしても気になって・・・」
「遠藤くんがかい?」
「はい・・・」
「でも、森川先生が遠藤伸先輩の事を好きになってお付き合いしても、私は誰にも言いません」
「彼女の悩みは、そういう事じゃないと思うよ」
「でも・・・」
「夜、私の部屋に来る事かい?」
「・・・」
「まあ、そのうち、遠藤くんの悩みを安藤くんに話すよ」
「いいんですか?」
「遠藤くんも安藤くんになら話してもいいと言ってくれるよ。遠藤くんも1人で悩むのが限界なのだろう」
私は落ち着かせるために、ミルクティーをいれた。
「そう言えば、先ほど聞いた田中みなみさんの件って何ですか?」
森川先生は私がいれたカフェオレを一口、飲む。
「天文学部に田中一男くんっていう子がいるだろう」
「隣の1年1組の男子ですよね」
「そうだ。その子の妹も、先日、松村美香子先生をお見舞いに行った時、福島医大附属病院に入院していたんだ」
「・・・」
「その時、相談したい事があると言われてね・・・」
「いつ行きます?」
私は目を輝かせた。
「今日の夕方、田中くんの家に行くことになっているんだ。一緒に行ってみようか?」
森川先生が私の目の輝きに気付いてくれた。
「いいのですか?私も一緒で?」
「いいだろう。安藤くんは田中くんの同級生だし・・・」
「じゃ、お願いします。森川先生の名推理、楽しみにしていますから・・・」
「推理じゃないと思うぞ・・・」
「そういえば、これ姉から預かった手紙です。
姉に、私の担任が森川先生だと話したら、今日、東京に帰る時に、『森川先生に、手紙を渡して』と、言われました。大丈夫です。中身は見ていませんから・・・」
私は手紙を置いて、涼しい図書室に向かった。もちろん、夏休みの宿題をやるためだ。
天文学部の田中一男くんの家は、二本松市の住宅街にあった。森川先生は私を車に乗せて、田中一男くんの家に向かった。夕方ということあって、田中くんの両親も、家で待っていてくれた。
「森川先生、申し訳ありません」
田中一男くんの母親が、玄関で出迎えてくれた。
「病院での約束ですから・・・」
「天文学部の安藤なつさんが、どうしても田中一男くんの妹さんが心配だと言ったので、連れてきました」
「すみません。私も付いてきて・・・」
私が申し訳なさそうに話す。
奥の部屋に行くと、田中一男くんと、その妹で、中学校3年生のみなみさんが、テレビを観ながら座っていた。
「お邪魔するよ。一男くん、みなみさん。安藤さんも心配だと言ってね・・・」
「本当に来てくれたのですね、森川先生。安堵さんも大歓迎です」
「当たり前じゃないか、一男くん。医大での約束だからね」
「森川先生、お兄ちゃんは、いつも先生のことを自慢しているの」
「みなみさんも、調子が良いようだね」
「お陰様で・・・」
「森川先生、あの日、音楽の松村先生のお見舞いに、医大に来てくれたのでしょう。その時、隣にいたこいつの話まで聞いてくれるなんて・・・」
「みなみさんが悩んでいたからね」
「骨折して入院していましたから。考えることしか出来なくて・・・」
「仕方がないよ、みなみさん。
それで、あれから、メールは届いたかね?」
「いいえ、寺田さんから、メールは来ていません」
田中一男くんの家は、たくさんの猫を飼っている。猫が今年の冬に子猫を産んだ。あまりにも多くの子猫を産んだため、何匹かのもらい手を捜した。一男くんの妹、みなみさんは、ネットで子猫の里親を募集した。そして、仙台市に住む寺田さんという若い女の人に、一匹を送ることにした。
3月に寺田さんは、わざわざ仙台からこの二本松に子猫もらいにきた。みなみさんは、子猫が無事に育つか心配になった。せめて、1年間は、大切に育てて欲しいと話した。
寺田さんは、中学2年生の彼女を心配して、1つのアイディアを出した。
「毎月、子猫の写真を、メールで送る」
と。
その結果、4月から毎月、寺田さんは、みなみさんにメールで、子猫の写真を送ってきていた。5月、6月と続いた。しかし、今月になって、そのメールが来なくなった。
「いつも、毎月1日にメールが来ていたのです。それが、今月になってから、来なくなって、とても心配で・・・」
医大のベッドの上で、みなみさんは、とても心配していたという事だ。
その話を、盲腸で入院していた松村先生が、隣のベッドで聞いていた。森川先生が松村先生をお見舞いに行った時、相談されたそうだ。
「森川先生、名探偵だから、解決してくれるわよ」
松村先生が軽い気持ちで、みなみさんに話したらしい。森川先生は断れなかったという。まあ、そんな性格の先生だ。
森川先生は骨折で入院しているみなみさんが、退院したら、彼女の家まできて、そのメールを見ると約束してしまった。そのみなみさんが、天文学部1年生で、田中一男くんの妹だと知ったのは、翌日、高校に行って、一男くんから話を聞いた時だったという事だ。
「僕からもお願いします。妹は、猫たちを大切にしていたのです」
「では、メールを見せて下さい」
みなみさんは、森川先生をコンピュータが置いてある彼女の部屋に案内してくれた。2階にある彼女の部屋に、私と森川先生、そして一男くんが入った。女の子らしく、机の上もベッドの上も綺麗に整理整頓されていた。
「こいつ、昨日、徹夜で部屋を掃除したんです」
「当たり前でしょう」
コンピュータをみなみさんが操作しながら話す。
「このメールです」
みなみさんは、4月のメールを森川先生に見せた。
「今月のチビです」
メールにはそう書いてあった。どうやら、寺田さんは、もらった子猫に「チビ」と名付けたらしい。そして、メールの本文の他に添付された写真があった。
「これが、写真です」
私はその写真を森川先生と一緒に覗いた。
4月の写真は、窓際に写ったチビと、4月1日付けの新聞が一緒に写っていた。そして、同じ様に、5月のメールには、5月1日の新聞と一緒に。6月も、6月1日の新聞と一緒に。
それから、みなみさんは、その3枚の写真を、プリントアウトして見せてくれた。
「森川先生、何かわかりますか?」
森川先生は、3枚の写真を見比べてみた。
「まず、4月の写真だけど、家の中で撮影されているね。新聞と猫がアップになっている。新聞は、仙台新聞。しかし、他には、何も見つからないね」
みなみさんは、少し落胆しているようだった。
「次に5月の写真だ。これも、4月の写真と同じ場所で撮影されているね。でも、少し4月の写真より家の中がわかるね。後に映っている窓に、家の中が反射して写っているよ。
窓の外は、高い樹木の先が見える。隣の屋根もだ。このことより、寺田さんの部屋は、2階にあることがわかる。それに、窓に反射しているのは、デジカメを持った女の人だ。この人が寺田さんだろう。そして、その後に微かにキッチンが見える。2階にキッチンがあるから、寺田さんは、アパートかマンションの2階にいると考えられる。
彼女は、独身だろう。キッチンにある歯磨きセットが1人用だ」
「森川先生、すごいですね」
みなみさんが、感動したように話す。
「それから、6月に送られてきた写真だけど、こちらは、興味があるね」
「何が写っているのですか?」
一男くんが尋ねてくる。
「まずね、この写真も、子猫と新聞の他に、家の様子が分かる部分が写っている。しかし、この部屋は、4月、5月の家とは違う。猫の後に、鏡があるだろう。その中に反射して、家の中と、玄関が写っている。玄関があるということは、この部屋は1階だということだ。そして、一軒家ということになる。
また、鏡に撮影している人が少し写っているけど、明らかに、男の人さ。つまり、この写真を撮影した人は、寺田さんではないということだ」
「それでは、あの子猫は、違う人の所に?」
みなみさんが慌てる。
「そうでは、ないだろう。みなみさん宛て送信したメールは、アドレスが変わっていない。寺田さんは、前のアパートから引っ越しで、この一軒家に来たと考えられる。新聞の版を見てごらん。3枚とも、仙台新聞だけど、4月、5月は、8版になっているね。でも、この6月は、12版さ」
「それが?」
「新聞は、どこも同じものが届くとは限らない。新しい部分が増えるのさ。印刷して遠くに運ばないといけない新聞は、最初の版。そして、ゆっくり印刷しても間に合う場所に届けるものは、次の版という感じでね。だから、4月、5月と、6月は、寺田さんが同じ場所に住んでいないことがわかる」
「さすがですね、森川先生」
「そして、寺田さんは、子供を産んだ」
「えっ?」
「6月の写真に、ガラガラが少しだけ写っている。彼女が子供を産んだので、その相手が慌てて、この写真を撮影して、メールで送ったのだろう。その証拠に、このメールを送ってきた時間が23時過ぎだ。写真撮影した時間もわかる」
私は、そう言うと、コンピュータを操作した。
「写真のプロパティに、22時56分と記載してある。つまり、寺田さんは、田中みなみさんに、チビの写真を送ることを、この男の人に、慌ててお願いした。それも、6月1日に。だから、その日、ギリギリに写真を撮影して、みなみさんに送信した。
寺田さんは、まめな人なのだろう。月に1回の送信という約束なのに、毎月、1日に送信していた。だから、その約束を守るために、3ヶ月とも、1日に送信している。3月に寺田さんに会った時、彼女のお腹が大きい事に気がつかなかった?」
「いいえ。そんな事までは・・・。で、今月は?」
「子供が生まれて、1ヶ月だ。実家に里帰りして、夫婦とも忙しい時期なのだろう。それに、約束の7月も、あと1日残っている。
みなみさん、安心して待っていると良いね。明日には、寺田さんからメールが来るさ」
森川先生は、そう説明すると、私と一緒に、田中家を出て行った。
翌日、31日、土曜日の昼。私と森川先生は、「アンダンテ」にいた。部屋より涼しい。それに食後のミルクティーも美味しい。
「田中みなみさんに何か進展はありましたか?森川先生」
「今朝、田中みなみさんから、メールが来たよ。寺田さんから、今朝、メールが届いたとね」
「良かったですね」
「元気なチビの写真も一緒に送信されていたそうだ。寺田さんは、5月に籍を入れたらしい。そして、加藤さんと名前を変えた。また、6月に子供が生まれて、7月は、チビ家において実家に里帰りしていたため、7月1日にメールを送ることが出来なかったと、書いてあった」
「全部、森川先生の推理通りじゃないですか」
「推理じゃないよ。観察の結果さ」
「それを、推理と言うのです」
私は笑った。
「それに・・・」
「何?」
「遠藤伸先輩は、今朝、帰っていきましたね。森川先生の部屋から・・・」
「そうだね」
「何もしていませんよね」
「話が長くなっただけだ。彼女の両親にも断った」
高校3年生の女の子を、独身の男の部屋に泊める親は、一体、どういう親なんだ。
「遠藤くんは、相談したい人を探していた。安藤くんなら話してもいいと許可をもらった。そのうち、遠藤くんから、相談されるよ」
森川先生は「アンダンテ」の窓から通りを眺めた。
「遠藤くんの出身中学校は二本松第一中学校。その中学校にいる知り合いに頼んで、彼女の中学時代の事を聞いた。そして、卒業アルバムを借りた」
「何がありました?」
「彼女が制服を着ている写真は、全体の集合写真と個人の写真だけだった」
「どういう事?」
「スカートをはいた写真が2枚しかなかった」
「?」
「まず、遠藤くんはセーラー服が好きじゃない。というか、スカートが嫌いだ。昨年までは、土、日曜日の合唱部の練習は、制服登校で、学校の音楽棟に来てから運動着に着替えていたらしい。しかし、遠藤くんが部長になってから、運動着での登校も可能にしたと、聞いた。それに、遠藤くんの私服はいつもズボンだ。腕時計は男物。そして、遠藤くんは自分の事を、『私』とかでなく、『俺』とか『僕』とか言う癖がある。少し気になったのが、遠藤くんの歩き方が内股でないということと、髪の毛を長くする事が嫌いということ。それも、わざと、短くボーイッシュに決めている。
明らかなのは、あんなに綺麗な容姿をしているのに、彼氏がいない。というか、男子からの誘いを全て断っている。他の3年生と違って、高校でもプライベートでも化粧を全くしない」
「森川先生って、やはりすごい人ですね。そんなに観察力があるなら、先生という職業にしておくのが、もったいないです。で、遠藤先輩は?」
「遠藤伸という人間は、性同一性障害だという事だ」
私は持っていたティーカップを落としそうになった。話にはそういう人間が居ると聞いた事がある。しかし、自分の身近にいるとは思わなかった。
「最初におかしいと思ったのは、小学校のプールの授業だったそうだ」
森川先生の声が低くなる。
「なぜ、男子と同じ水着を着ないのだろうって・・・。そして、中学校の制服でなぜ、スカートをはくのか・・・。
そして、中学校で、男子から言い寄られても、気持ちが悪く、女子の格好いい先輩に憧れていたそうだ。だから、高校では運動部に入らなかったそうだ。女子用のユニホームを着たくなかったと話していた。
また、段々と膨らんでくる胸が邪魔だったそうだ。セーラー服のスカートも惨めで・・・。だから、スカートよりいつもズボンでいた。学校でも、すぐ運動着に着替えていたらしい」
「可哀想・・・」
「『男の子っぽい』って言われる事はあっても、まさか私の心の状態がそんなになっているとは、今まで誰も気付かなかったらしい。私に指摘されるまで・・・・。
遠藤くんの両親が、その事に気付いているかは、わからない」
「でも、森川先生は遠藤先輩に対して、他の女の子と違って、最初から『さん』でなく、『くん』で呼んでいましたよね。最初から・・・?」
「そんな感じがした」
森川先生のコーヒーカップは空になっていた。空になったコーヒーカップを持っている姿を私はあまり見た事がない。いや、初めてだ。森川先生も辛いのだろう。遠藤先輩に何と声を掛ければ良いか迷っていたのだろう。
「遠藤くんはもう何年も答えを捜し続けていたそうだ・・・」
「辛いですね」
「遠藤くんは、敷かれたレールの上を走っていたそうだ。しかし、今日から自分で自分のレールを敷いていくと話していた。このまま、女として死んでいくか、いつからか、男に変わる事ができるのか・・・。
『迷ったら、そこで立ち止まるより、一歩前に歩み出せ』と、私が合唱の練習の時に話した言葉をずっと気に入っていたようだ。そして、『間違ったら、もう一度戻って、やり直せばいい。君達は若いのだから』と話した事も・・・」
部屋に帰ると、私は遠藤伸先輩から相談されたら、何と話せばいいのだろうと考えた。こればかりは、学校のテストの問題のように、答えが1つとは限らない。
携帯にメールが届いた。
「明日、時間があるかい?」
遠藤先輩からだった。
「暇です」
私はすぐ返信した。
その夜、私はまた202号室を訪れた。遠藤先輩とどんな話をしたらいいか、アドバイスをもらいに・・・。
「自分の思った事を話せばいい。みんな同じ事を話す必要はないさ。遠藤くんが自分に合った言葉をその中から見つけるから・・・」
森川先生の話は、いつも私の心を安心させてくれる。
翌日、8月1日、日曜日。私は久しぶりに女の子らしい服装にした。ワンピースにふわふわのスカート。リボンの入った帽子にお洒落なスカーフ。これも、森川先生のアドバイス
電車に乗って福島市まで遠藤先輩とデートした。
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