第五話・リゾートホテル風マンション

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第五話・リゾートホテル風マンション

 タクシーに乗せられて15分ほどが経っただろうか、快適な車内温度と程よい振動に穂香は知らない内に眠ってしまったようだった。本来なら上司が真横にいて、どこへ連れて行かれるかという緊張感でうたた寝すらできない状況のはずだが、連日の寝不足とアルコールとが重なってしまったせいだろう。 「着いたぞ。ほら、さっさと降りて」 「……どこですか、ここ?」  半分寝ぼけ気味に、言われるままタクシーを降りると、先に車外へ出ていた川岸が見覚えのあるスーツケースを手にしている。トランクから出して貰ったのを穂香の代わりに受け取ってくれたようだ。  タクシーは白い外壁の大きなマンションのエントランスに横付けされていた。自走式の立体駐車場を備え付け、建物の周辺にはヤシの木が何本も植えられていて、どう考えても分譲の物件。しかもそこそこ高級そうだ。 「俺の家」 「へ? オーナーのお家? え、なんで?」  彼が一人暮らしというのは何となく噂程度には聞いたことがあるし、オーナーの自宅だと言われたら、ああそうなんだとすぐに納得はできた。多分、リゾートホテル風マンションとかいうやつだ。けれど、どうして穂香がここへ連れて来られたのかまでは理解できない。 「ネットカフェに寝泊まりするよりはマシだろ。この時間だ、他の住民に邪魔になるから、とにかく中に入れ」  ジャケットのポケットからキーケースを取り出すと、エントランスの自動ドアを開錠する。そして、穂香のスーツケースを引いて、川岸はスタスタと建物の中へと入っていく。穂香は慌てて、オーナーの後ろを追いかける。  流されるままに乗ってしまったエレベーターには15階までのボタンが並んでいた。点灯している13の数字を眺めながら、穂香はまだ酔いの残るぼやけた頭を傾げる。  ――これはもしや、飲み会後のお持ち帰りというやつでは……? え、オーナーに?  停止して開いた扉からエレベーターを先に出ていく川岸の背中を眺めて、いやいやいやと首を横に振る。そんなノリと勢いで行動するタイプには見えないし、通路をスタスタと進んでいくオーナーからは、そんな甘い雰囲気は一切感じない。  近所への配慮からか、スーツケースは引き摺らずに持ち上げて運んでくれているが、大型サイズだから結構重いはずなのにと少し申し訳なくなる。  建物の奥から二番目の玄関前で足を止めると、川岸は上下に二つ並んでいる鍵を順に開けていく。扉が開かれたと同時にパッと点灯した照明が、大理石の床を明るく照らして出迎えた。  どうぞ、とばかりに玄関扉を開いて待ってくれる川岸に、穂香はオズオズと尋ねる。 「あの……なんで私、オーナーの家に連れて来られたんでしょうか?」  普通に考えて、今この状態で中に入るのは、躊躇って当然だ。同意なきお持ち帰りは犯罪だ。今ならまだ間に合うと、川岸に向かって目で訴える。 「部下が路頭に迷ってるのを見過ごす訳にはいかない。ネットカフェよりは、うちの方がマシだろ」  いいから早く入れと、穂香の肩を押す。「開けっ放しにしてたら、カメムシが入ってくるだろ」の本気で焦った一言に、穂香は思わず噴き出した。あまりにも色気とは無縁な台詞だ。 「オーナー、もしかして虫苦手ですか?」 「いや、虫は別に。だけど、カメムシは実害があるから侵入されるのは困る」 「まあ、確かにそうですけど……」 「この高さだと蚊はいないけど、カメムシは余裕で飛んで来るからな。今の季節は油断できない」  侵入されてやいないかと、天井や壁を見回している。そのオーナーの姿に、穂香の緊張は随分と緩んだ。カメムシなんて、ムードもへったくれもない。 「使ってない部屋が一つあるから、好きに使ってくれたらいい。布団は後で運んでおく。トイレはここで、風呂と洗面所はその扉の向こう。ところで、今まで、洗濯とかはどうしてたんだ?」 「ネットカフェにコイン式のがあったんで、それを使ってました」 「じゃあ、洗濯機も勝手に使ってくれ。冷蔵庫は中は水くらいしか入ってないけど、使うなら――」  家の中を案内してくれる上司へ、穂香は純粋な疑問をぶつける。 「オーナー、こんな広いとこに一人暮らしなんですか?」  どう見ても単身で住むには広い3LDK。駅からはギリギリ徒歩圏内のファミリー向けマンションに、独身男性が一人で住んでいるのは少し違和感がある。彼くらいの実業家にもなると、投資物件というやつだろうか? 「……いや、最初は婚約者と住んでいたんだけど、逃げられたというか」 「ああ、私と一緒なんですね」 「まあな」  だから穂香のことを放っておけなかったんだと思うと、全てが納得できた。捨てられた者同士という訳だ。ただ、彼の元を去っていった女性は自分の荷物しか持っては行かなかったみたいだが。  オーナーが用意してくれた部屋は、5畳ほどの洋室。隅にゴルフバッグだけがぽつんと置かれていただけで、本当に全く使われていないようだった。家族で住むなら子供部屋にされそうな広さだ。ゴルフバッグを移動させて、客用らしき布団を運び入れてくれた後、川岸はリビングでノートPCを開き始める。  もう終電はとうに過ぎた時刻。やっぱり今からネットカフェに行きますと言えば、こんな時間にかとさらに怒られてしまうだろう。もう子供じゃないんだし、なるようになれと、穂香は半ば諦めの境地で浴室の扉を開く。賃貸のユニットバスとも、ネカフェのシャワー室とも違い、ファミリー向けマンションのお風呂は驚くほど広い。
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