1.船内

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1.船内

 獣臭い干し草の匂い。段々と明瞭になる天蓋の洋灯。振り子のように揺れる仄かで優しい光を頼りに、私の視界の焦点が正されていく。  徐ろに上体を起こし、私は辺りを見渡す。床一面に敷き詰められた藁に、銅板が乱雑に貼られた筒状の天井。ふと息を吸い込めば、重油の癖の強い匂いが鼻腔を突き刺してくる。 「──目が覚めたか」  その声にはっとし振り返ったところで、黒い肌の少年と目が合う。ゴーグルの付いた黒い帽子に革製の外套。目元に深々と刻まれた白い傷痕が、幼い面持ちとは釣り合わない達観した雰囲気を醸し出していた。 「……ここは?」 「メセテケット──運び屋のオレたちにとってのもう一つの我が家だ。冥界を渡る船の名を冠したコイツは、猛烈な砂塵にも原生生物の奇襲にも耐えうる最強の船さ」  運び屋……聞いたことがあった。この黄砂の海には、怪物の討伐や積荷の運搬を生業とした無国籍の運び屋が幾つか存在すると。否、彼らにとって秩序も国境もないこの砂漠こそ唯一無二の故郷なのかもしれない。  彼らは脚の代わりとなる船に、己の信仰する神話から誇り高き名を借り受け焼き印として刻み込む。それが加護となって、自らの責務の道則に安寧を与えるのだという。中には自分の信じる神の教えとして、国が密かに暗殺した者の死体を運んでいる、という噂も存在している。  死──そうだ、こうしている場合ではない。己の使命を思い出し、藁でできた寝床から慌てて飛び起きる。 「ちょっ、おい! 急に何してんだ!」  側面の引き戸を開け、外の暗闇へと身を投げ出そうとしたところで少年に羽交い締めにされる。 「死ぬ気かバカ! 夜の砂漠は危険だ! 一歩でも外でも出てみろ。『白狼』の群れが跋扈してる。目を付けられたら最後、骨の髄まで食い尽くされるぞ?」  少年の拘束から抜け出そうと躍起になりながらも、私は砂漠の向こうへ目を凝らす。こうしているうちにも、岩陰から鋭い眼光が幾つも見て取れた。月光の如く艶やかな体毛。そこに付着した血の匂いがここまで届き、過去の恐怖を想起させる。  ただ、それでも譲れないものが私にはある。 「頼む! 離してくれ! まだ向こうに私の家族が……鞄に詰め込んだ家宝が残っているんだ!」 「はあ? 戻るったってあそこには──」 「いいから早く! 道草を食ってる暇はないんだ! 私にはまだやるべきことが──ああッ⁉︎」  声にならない悲鳴を置き去りにし、私は物凄い勢いで反対側の壁へ飛ばされる。少年が投げ飛ばしたのだと知るのに一瞬の空白が生じた。羽交い締めの時といい、なんて怪力だ。 「最後まで話を聞けよ、クソジジイ」  吐き捨てるように言って、少年は引き戸を力任せに閉める。バン、と乱暴な音が身体をビクッと震わせた。 「少なくとも、オレはあの周囲にあるものを全部釣り上げた。大変だったんだぜ? 砂嵐が酷い中で釣って投げ入れての繰り返しで」  段々と力が抜けていく中で、彼が寝床の奥──麻布の帳を親指で差すのを眺める。 「ああだこうだ言う前に、積荷入れを確認するとか、別のことに脳を働かせろよ」  はっと我に返り、私は帳の向こうへと駆けて行く。左右に開けると、そこには空調の効いた薄暗い部屋に大量の積荷が敷き詰められていた。印字された木箱。変色した鉄製の箱。様々な系統の荷物が群れる中、一つだけ馴染みのあるものが視界に入り込む。  気を失う直前まで背負っていたナップザック。それと、寝息を立てた息子と妻。安堵のあまり膝から崩れ落ちる。少年の言っていた通り、きちんと回収されていたのだ。 「ああ……良かった。本当に良かった」  平伏するように身体を縮こませ、私は何度もそう反芻する。今度は駄目かと思ったが、また家族全員で生き残れた。神はやはり私達を見守ってくれている。 「これで満足か?」  積荷入れを出た先で、少年は壁に寄りかかりながらこちらを見つめていた。 「ああ、本当にありがとう。この恩は必ず返す。命を引き換えにしてでも絶対に返すよ」 「だったら、今すぐこの船から出て行ってほしいぐらいだね」  冷たくそう突き放すと、少年は腕を組みそっぽを向いた。天井に吊るされた洋燈の灯が、彼の首飾りに付いた緑の宝石を明るく照らす。こんなに美しく大振りな宝石だというのに、何故最初から気づかなかったのだろう。 「だがそうだな──どうしてもって言うなら、オレの家族を生き返らせてくれよ」 「家族……君の?」  そう問い返すと、少年は僅かに目を見開き、そのまま背中を向けて歩き出してしまう。 「……何でもねぇ。忘れてくれ」  彼の去り際、首の宝石が鈍く光った気がするのは、恐らく見間違いだろう。
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