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「なんにもなくなったねぇ」
3歳のゆいが、さくらんぼのような唇をぽかんと開いて呟いた。いっちょまえに寂しいのかと思いきや、きゃっきゃと声をあげ押し入れの下段に出たり入ったりしている。
今日は朝から引っ越しのトラックが来て、業者さんと主人が旧居と新居を行ったり来たりしていた。私は旧居でサポートをしつつ、元気いっぱいの娘の相手をする役目。
搬出を終え遮るもののなくなったアパートは、ゆいの声と足音をわんわんと響かせた。大きなおなかを抱えて内見した日の記憶が、コーヒーが香るようにふんわりと去来した。
「まま、ゆいちゃんのおもちゃどこ?」
ねこのような丸い手が、不安そうに私の袖を引いた。
「さっきトラックに積んだよ」
「もうあそべないの?」
「新しいおうちに行ってからまた遊ぼうね」
細く柔らかい、栗色の髪をなでる。季節はもう冬に向かっていて、窓から見える民家の庭には夕陽のような色をした柿が鈴なりになってこちらを見つめていた。
「このおうち、だれがすむの?」
「さあ。いい人だといいね」
「うん」
ゆいは暫く何かを考える仕草をして、ぱっと顔を輝かせた。
「しゃしんとろうよ!」
「写真?」
ゆいは私の携帯をハンドバッグから取り出すと、おもむろにカメラで床や壁を撮り始めた。またフォルダが訳の分からない写真でいっぱいになる──私は眉を顰めた。
「ゆいちゃん、ママの携帯いたずらしないでね。本当に撮りたいものだけ撮って……」
写真を見て、私は思わず目頭を押さえた。
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