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9 令和七年 六月二十七日
もう沢田ベーカリーからは、パンの焼ける匂いはしていなかった。
昨日から華菜は薄っすらとした眠気が、精神を包み込むのを感じていた。
動くことが億劫になり、連続して睡魔が襲って来る。
嫌な感覚ではなかった。
どちらかと言えば、そのまま眠気に身を任せてしまいたい心地よさがある。
〝みんなこんな気持ちだったんだ〟
朦朧としながら華菜はアーケード商店街へと行ってみたが、一昨日の朝まで笑顔を見せてくれていた沢田老人の姿は店にはなかった。
「先輩・・・」
華菜の頭に浮かぶのは、露城真吾の陽に焼けた顔だった。
毎日華菜は真吾の部屋を訪れていた。
もちろん彼は睡ったままで、会話もなにもない事は分かっている。
〝先輩に逢いたい〟
ふらふらとした足取りで、どうにかその家まで辿り着く。
「・・・、シンゴくん」
久しぶりに幼い頃の呼び方をしてみた。
ベッドの上で、安らかな寝息を立てている顔を覗き込む。
急に大人びて来た表情には、まだほんの少し幼さが残っていた。
そこに毎日遊んでいた頃の面影を見て、華菜はふっと微笑んだ。
そっと唇を押し当てた。
「ずっと好きだったんだよ、シンゴくん。 あたしのファーストキス──」
華菜はそのまま真吾に寄り添うように横たわった。
新緑の若葉を、優しい雨が濡らしている。
今日も外は雨だ。
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