第一話

2/2
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 なんとなくその生き物を見つめ返していると、店内から四十がらみであろう女性が出てきた。 「この子、かわいいでしょう」  女性は愛想のいい笑顔を浮かべていた。  アクアリウム店の店長らしかった。 「尾鰭が金色の人魚は珍しいんですよ」  僕が漠然とイメージする人魚は、人間とほぼ同じ大きさのものだ。しかし、店長の説明によれば、人間サイズになる人魚は、海に棲む種なのだという。 「この人魚は淡水生ですから、そこまで大きくなりません。最大でも三十センチほどですね」 「へえ……」  相槌を打ちつつ改めて人魚に目をやった。やはり水槽のガラスに顔を近づけて、僕をじっと見つめている。  その目を見つめ返していた僕は、気づくと店長にこう尋ねていた。 「いくらなんですか、この人魚」  僕はこいつを飼わないといけない。なぜか、そういう強い衝動と責任感に駆られた。今になって思えば、人魚の魅了という性質にあてられたのかもしれない。 「水槽はお持ちですか?」 「いえ、持っていません」 「でしたら水槽やエアーポンプも必要ですね。それら一式の配送費込みで十三万円です」    高額にもかかわらず、僕は即決した。こうして人魚を飼うことになったのだった。  ワンルームマンションの部屋には、腰の高さのキャビネットがある。水槽はその上にちょうどおさまった。  部屋にやってきた直後の人魚は、水槽の中から、部屋を興味深そうに見まわしていた。しかし、唐突にくるっと一回転したあとは、金色の尾鰭を翻して、舞うように泳ぎはじめた。その動きがとても優雅で、僕は少しばかり感心した。 (こんなに小さくても、ちゃんと人魚なんだな……)  しばらく人魚を見やっていると、店長の話が耳の奥によみがえった。餌やりの注意事項だ。 「キャベツや白菜などの葉野菜を与えてください。そのさいの時間は必ず午後です。決して午前中に餌を与えないように」  時間を守らず午前に餌を与えると、人魚が死ぬうえに、餌を与えた僕にも悪い影響が出るそうだ。大切な人のことを忘れてしまうという。 「餌は午後……」  僕は自分に言い聞かせるように呟いてから、水槽の中で泳ぐ人魚をスマホで撮った。その画像をLINEで緒花(おばな)先輩に送った。 『人魚を飼うことになりました。見にきませんか。かわいいですよ』  彼女に送ったLINEはなかなか既読がつかない。既読がついてからも返信が遅い。もしかしたら、今日中に返事がないかもしれない。  もとから僕は先輩の早い返事を期待していなかった。LINEのことは一旦忘れると決めて、夕食や風呂を先に済ませることにした。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!