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なんとなくその生き物を見つめ返していると、店内から四十がらみであろう女性が出てきた。
「この子、かわいいでしょう」
女性は愛想のいい笑顔を浮かべていた。
アクアリウム店の店長らしかった。
「尾鰭が金色の人魚は珍しいんですよ」
僕が漠然とイメージする人魚は、人間とほぼ同じ大きさのものだ。しかし、店長の説明によれば、人間サイズになる人魚は、海に棲む種なのだという。
「この人魚は淡水生ですから、そこまで大きくなりません。最大でも三十センチほどですね」
「へえ……」
相槌を打ちつつ改めて人魚に目をやった。やはり水槽のガラスに顔を近づけて、僕をじっと見つめている。
その目を見つめ返していた僕は、気づくと店長にこう尋ねていた。
「いくらなんですか、この人魚」
僕はこいつを飼わないといけない。なぜか、そういう強い衝動と責任感に駆られた。今になって思えば、人魚の魅了という性質にあてられたのかもしれない。
「水槽はお持ちですか?」
「いえ、持っていません」
「でしたら水槽やエアーポンプも必要ですね。それら一式の配送費込みで十三万円です」
高額にもかかわらず、僕は即決した。こうして人魚を飼うことになったのだった。
ワンルームマンションの部屋には、腰の高さのキャビネットがある。水槽はその上にちょうどおさまった。
部屋にやってきた直後の人魚は、水槽の中から、部屋を興味深そうに見まわしていた。しかし、唐突にくるっと一回転したあとは、金色の尾鰭を翻して、舞うように泳ぎはじめた。その動きがとても優雅で、僕は少しばかり感心した。
(こんなに小さくても、ちゃんと人魚なんだな……)
しばらく人魚を見やっていると、店長の話が耳の奥によみがえった。餌やりの注意事項だ。
「キャベツや白菜などの葉野菜を与えてください。そのさいの時間は必ず午後です。決して午前中に餌を与えないように」
時間を守らず午前に餌を与えると、人魚が死ぬうえに、餌を与えた僕にも悪い影響が出るそうだ。大切な人のことを忘れてしまうという。
「餌は午後……」
僕は自分に言い聞かせるように呟いてから、水槽の中で泳ぐ人魚をスマホで撮った。その画像をLINEで緒花先輩に送った。
『人魚を飼うことになりました。見にきませんか。かわいいですよ』
彼女に送ったLINEはなかなか既読がつかない。既読がついてからも返信が遅い。もしかしたら、今日中に返事がないかもしれない。
もとから僕は先輩の早い返事を期待していなかった。LINEのことは一旦忘れると決めて、夕食や風呂を先に済ませることにした。
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