序章

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序章

「かならずや生きて戻り、おまえを愛し、かならずやしあわせにする」  いっしょに生きていこうと誓った夫は、寝台から降りて身づくろいをし始めた。  つい先程までの寝台でのぶつかり合いなど、まるでなかったかのように。あるいは、わたしの存在を忘れようとしているかのように。  もしかすると、邪魔になったのかもしれない。もちろん、わたしのことが、である。  これからの任務に影響を与えかねないから。  わたしたちは、禁を破った。  だから、いつその罰を受けてもおかしくはない。  しかしながら、破ってしまったものは仕方がない。  だから、わたしは引退した。彼が「結婚しよう」と言ったタイミングで。  退役届が受理されて引退はしたけれど、しばらくは軍の監視下に置かれることとなった。  行動どころか、生活や人生の一部を制限され見張られることとなったのだ。それは、わたしが諜報員兼工作員だったからである。わたしたちは、膨大な量の情報と雑多な秘密を握っている。国の内外に情報を売ったり、よからぬことをしない為の予防処置をとられたのだ。 「血みどろの森」、という奇怪な名の森が潜伏先である。  結婚して夫が敵国へ潜入するまでの間、わたしたちはとにかく愛し合った。  いままで愛し合えなかった分まで。それこそ、一日中どこででも愛し合った。  結婚したとはいっても、とくになにかしたわけではない。聖職者の前で誓い合うとか、ましてやパーティーを催すとか。  彼とふたり「おれたちは、たったいまから夫婦だ」、と暗黙の了解的に結ばれただけである。  それで充分だった。物理的視覚的なものは必要ない。  心と心、体と体がぶつかり合えればそれで満足だった。 「喘いでいいんだぞ。ここにはだれもいないんだから。それとも、おれの愛撫はイマイチか?」  つい声をださないようにしてしまう。  夫になったばかりの彼は、わたしの秘所をまさぐりながら耳にささやく。  が、いいようの得ぬ感触、というか気持ちよさに、それに応じる余裕さえない。  任務で男性に抱かれることはあった。彼にも何度も抱かれた。彼と夫婦の役をする際には、夜ごと寝台の上でよろこばせてくれた。  が、それはあくまでも任務。プライベートとは違う。とくに彼以外の男性となると、ただもう心を空白にし、不快感を我慢して耐え続けた。  もっとも、彼とは任務を忘れてしまうことはあったけれど。  任務でだれかと夜のエクササイズをしていたのは、わたしだけではない。彼もまた、さまざまなレディと寝台の上でエクササイズをしている。  だから、彼はうまい。彼は、最高の諜報員であり工作員である。そして、アレも最高なのだ。  その彼と愛し合うのは、なにも寝台の上だけではない。小屋の傷んだ床の上、森の草むらの上、池の畔、おおきな古木の枝の上。とにかく、時間を惜しんで唇を重ね、肌を合わせた。 「身体能力が高いからか? おまえのは、締まり具合が最高だ。油断すると、すぐにでもイッテしまいそうになる」 「パシンパシン」と肌と肌が激しくぶつかり合う。  そんな中、夫はいつもそう言ってくれる。  わたしのアソコの締まり具合が身体能力に関係あるのかどうかはわからない。しかし、夫のその言葉は最高の褒め言葉であることにかわりはない。 「シヅ、おまえは美しい。おまえ自身が思っている以上に。生まれたままの姿は、とくにきれいだ。おまえの裸体を目の当たりにしただけで、イッテしまいそうになる」  彼は心にもないことを言い、わたしをよろこばせた。 「じゃあ、イッテ。わたしもよ。あなたのは最高。いっしょにイキましょう」  いまにも快感の波に飲まれそうになるのを必死に耐えつつ叫ぶ。それは、まさしく獣の咆哮である。  そして、同時にイクのだ  夫が敵国へ潜入するまでのほんのわずかな間、わたしたちはこうして快感と満足感とに翻弄されまくった。 「ぜったいに生きて戻る。約束する。この任務を終え、おまえのもとに戻ってきたら引退するよ。そして、どこかで静かに暮らそう。安全で平和な場所を見つけてな。なにもかも忘れ、ふたりだけで。いや、おれたちの子どもたちといっしょに。だから、待っていてくれ。きみのもとへ、ぜったいに戻ってくる。そして、きみを全力で愛する。全力で守る。全力でしあわせにする」  それが夫の最後の言葉だった。  その言葉を残し、彼はわたしの前から去ってしまった。  永遠に……。  夫は、そのあとすぐに敵国に潜入した。  そして、いっさいの音信が途絶えた。  夫が敵国に潜入してから二年後、両国間で終戦協定の話が出たらしい。そのタイミングで、夫が死んだかもしれない、と聞いた。  その一年後、終戦協定はまだ締結されていない。揉めたままの状態でいつ締結するかもわからないらしい。とはいえ、あちこちでドンパチやっているわけではない。国境付近でおたがいの軍が睨み合っている、という一発触発状態である。  そのような状態だからこそ、国内は荒れまくっている。国力の低下は否めず、国民ばかりが負担を強いられている。くわえて天候不順による飢饉も起こり、国民の愛国心は底を尽きかけている。不平不満がはびこり、充満している。その証拠に、各領地で暴動が発生している。わが国の軍は、長年の緊張による疲弊によってそれらを満足に鎮圧する力も残っていない。  そのような荒んだ空気の中、夫はまだわたしのもとに戻ってこない。  夫は、やはり死んでしまったのかもしれない。  わたしとの約束を守らないまま、彼は死んでしまったのだ。
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