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「人生を丸ごと引っ越しする!?」
俺は間抜けな声を発した。
ゲーデル爺さんは「その通りじゃ」と頷くと、黄色い歯を見せて笑った。
それから上着のポケットからしわくちゃのビニール袋を取り出した。袋の中には大量の青い錠剤が入っていた。
俺はゲーデル爺さんのあだ名の由来を知らない。ただ過去には有名な学者だったと聞いたことがある。近所の噂によれば、何やら難しい研究に没頭するあまり、頭がおかしくなったのだとか。
ゲーデル爺さんの住まいは所謂ゴミ屋敷だ。街路に面してがらくたが積み上げられ、歪に改造された庇に野良猫が住み着いていた。
仕事からの帰り道、俺はこのゴミ屋敷の前で豪快にぶっ倒れているゲーデル爺さんを発見したのだ。俺が助け起こすと、爺さんは酒臭いげっぷを放った。どうやら酔いつぶれているらしい。俺は爺さんを塀にもたれさせると、自販機で水を買って飲ませてやった。一息ついた爺さんは、痛く感謝して例の袋を俺に差し出したのだった。
「君は多世界解釈をご存じかね?」
当然知らない。
「量子力学的世界観から見れば、この世界は無限に分岐する平行世界の一部なのじゃ。世界線は個人が意思決定を行うたびに、枝分かれして時間発展していく。我々が知覚できるのは枝分かれした世界の中の一つだけじゃ。ゆえに、この世界、宇宙はただ一つの独立した存在だと錯覚してしまう」
俺には爺さんの話の内容は理解できなかったし、興味もなかったが、もはや正気を保っていないことだけは確信できた。
「君は過去に下した決断を後悔したことはないか? 過去に戻ってやり直したいと思ったことは?」
その言葉は俺の興味を少しだけ刺激した。
「君が選んでいたかもしれない多くの世界線は、知覚できないがこの世界と平行して存在しておる。熱力学の制約によって時間を巻き戻すことはできない。しかし、並行世界への乗り換えは可能なんじゃよ」
俺は少しだけ、つきやってやることにした。
「仮にその平行世界が現実にあるとして、行けるわけがないでしょう。金券ショップには異世界への切符なんて売ってませんよ」
「意識跳躍するんじゃ。我々は単純に“ジャンプ”と表現している。君は夢の中で、知らない土地を訪れたり、知らない人間に会ったことがあるはずじゃ。時に、それらの場所や人の詳細がなぜか克明に想起できることに気づくだろう。経験したことのない記憶にもかかわらず!」
確かに思い当たる節がある。
「明晰夢ってやつですか? それなら俺もよく経験しますよ」
俺の返答に爺さんが身を乗り出す。
「なぜか? 無意識状態の脳は、平行世界の間を揺蕩っているからじゃ。しかし覚醒と同時に元の世界に引き戻されてしまう。だから無意識状態の脳にバグを生じさせ、異なった世界線に誘導灯の錯覚を生じさせれば……」
なんとなく話の筋が見えてきた。
「もう一つの世界線に……ジャンプ……できると? その世界線は過去の自分が異なった選択をした場合に生きるはずだった世界……」
俺がそこまで言うと、爺さんは満足そうに頷いて、もう一度しわくちゃのビニール袋を押し付けてきた。
「まさか、この怪しい薬を飲めば、違う世界線に飛び移れるっていうんじゃないでしょうね?」
訝しがる俺に爺さんは再び黄色い歯を見せた。
「人生に挫折したらな、丸ごと引っ越しするんじゃ、別の人生に」
どういう心境だったのかよくわからないが、結果としておれはその袋を引っ掴むとズボンのポケットにねじ込んでいた。
何となく気まずくなって立ち去ろうとした俺の背中に、爺さんの酒臭い声がかかる。
「一つだけ気を付けろ。意識跳躍の限界は四回までじゃ。それ以上は、脳への負荷が閾値を超えて一切の跳躍ができなくなるぞ」
***
相変わらず翔太はゲームをやめず、真理の不快な鼾は音量を増していく。
耳に爺さんの言葉がよみがえる。
(過去に戻ってやり直したいと思ったことは?)
酩酊が少しずつ俺の正気を剥ぎ取っていく。
明日は久しぶりの休日だ。少しくらい体調不良を起こしてもどうってことはないさ。
俺はビニール袋から青い錠剤を一粒取り出すと、奥歯でかみ砕いて、ビールとともに嚥下した。
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