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<空白には桜が降る>
桜が散っている。
窓越しに花びらを巻き上げて、風そのものが色づいたようだった。その壮絶な美しさに、横に眠る夫を起こそうか迷ったが、枕元の時計はまだ5時15分を指している。ずいぶんと早くに目が覚めてしまったらしい。かといってまた目を閉じる気にもなれず、そのままぼんやりと外を眺めていたが、やがてふと思い立って、ベッドに手をつきながら横向きに起き上がる。冬の間とさほど変わらない冷たさが素足からしみ込んでいくのを感じながらフローリングをひたひたと歩いて、ベランダへと続くガラス戸を開けた。刹那、花びらがぶわりと室内へ入ってくる。
春は毎年来る。暖かくなれば花が咲く。風が吹けば散る。そうやって季節は巡るのに、おまえだけがいつまでも立ち止まったままでどうすると、苛立ちを隠さない声に不安よりも強いなにかが滲む去年の母を思い出す。
でも、とそのときは決して口にすることのなかった言葉もまた未だに胸に留まっている。俺は果たして立ち止まっていたのだろうか。前に進むとはなんだろうか。悲しみは泥道のように旅人を疲弊させ、その歩みを止めようとするものなのだろうか。
頬を打つ生暖かい風と花びらを感じることが生きるということなら、と思う。悲しみはその一部であり、また全てでもある。
兄さん、と決して答えが返ってくることはないかの人に向けて思わず声が漏れた。春になったら会いに来てくれそうな気がしていたんだ。身勝手だな、俺は。兄さんの好きな季節でもないのに、どうしてそんな勝手な期待を抱いていたのだろう。
また強い風が吹く。なにをするわけでもなく、いつまでも窓辺を離れずにいた。
兄について語る十分な言葉を、自分は持ち合わせてはいない。兄は物書きだった。彼が書いたものの中で唯一出版されたその本を読めば、弟として語る自分の兄への言葉がいかに薄っぺらなものか、痛いほど思い知らされる。彼は彼自身のことを誰よりも深く理解していたし、また表現しようとしていた。その言葉たちの前で一体自分になにができるというのだろうか。
兄について想うことはと問われれば、稚拙な言葉を使っていくつか答えることはできる。会いたいだとか、さびしいだとか、そんなようなことを。子どもの寝言のようなそれを、永遠に止まってしまった兄の時間を追い越すまでの短い時間、自分はどうやら抱えたまま手放せずにいるらしい。
しっかりしろ、とどこかで声がしたような気がした。もういい大人だ。それにもうすぐ――
わかってる、と呟いたところで意味はない。何回も繰り返してきた会話だった。
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