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「早起きさんだな」
どれくらい時間が過ぎたのか、突然背後から眠たげな声がして、振り返ると夫が乱れた髪にくしゃくしゃと手を入れながら上半身を起こしてこちらを見ていた。
「あまり眠れなかった?」
開けたままだったガラス戸を閉じてベッドのふちに腰かけると、夫が伸ばした手が頬を包む。心地よさに目を閉じて「平気だ」と答えるとわずかに安心したように息を漏らしたのがわかった。
「たまたま明け方に目が覚めたんだ。桜が散ってて、綺麗だった」
「桜?」
「桜。でも風が強くて、家の中にまで……」
そう言って目をやると、あんなに吹き込んでいたはずの花びらは一枚もなく、相変わらずフローリングは冷ややかな静けさを保っていた。
「……いや、なんでもない。たぶん寝ぼけてた」
「そうなのか?」
「ああ。それに、あんなに散ったら困る」
さきほどまで、花びらがあんなに入ってきては家の掃除がひどく面倒になるということはもちろん今日立てていた予定もなぜか全く頭になかったのを空恐ろしく思いながら答えると「そうだな」と夫が笑った。
「いいなあ、お花見。俺も混ぜてほしかった」
「そんなにたいしたもんじゃない。休日出勤に比べたらどんなにか羨ましく見えるかは知らないけど」
肩をすくめると夫が深いため息をついて近くの目覚まし時計を手に取る。
「あと30分か。もうそんな……いや、まだ、だな。これから待ち受ける地獄の苦しみに耐え抜くためになにかはできる」
「例えば?」
「例えば……」
ふっと眉を緩めて夫がこちらに体を寄せる。頬に、散っていく花びらのように柔らかで脆いなにかが触れた。
「最愛のパートナーに、朝の挨拶をするとか」
おはよう、とひどく大切なものの名前を呼ぶように言うのに、まるで少年のようにうろたえるわけにもいかず涼しい表情をなんとか保ったまま黙って夫のぼさぼさ髪に手を入れる。結婚前から朝を共にする日の習慣になっていることだ。
「おはよう、照れ屋さん?」
「そんなやつは知らない」
ひどい寝ぐせだ、と髪をどうにかすることに集中しているようなポーズを取ると夫が楽しそうに笑って「なら、最愛のわが子に訊いてみようか」と言った。
「どうぞご勝手に」
手を止めてパジャマの裾をめくると、近頃ようやく緩やかな曲線を描き始めたばかりの腹に夫がそっと手を添える。陽だまりの欠片のようだと触れられるたびに思うこの手の暖かさは、この下で眠る子にもきちんと届いているだろうか。
「おはよう。お母さんは照れ屋さんだって思わない?」
「思わないって言ってる」
「ちょっとずるくないかそれ」
「諦めろ。子どもは母親の味方をするものだ」
そういう考えよくないぞとぼやく夫の前髪を上げて、照れ屋の汚名を返上するべくその額にそっと口づける。窓の外にはただ青空が横たわっているだけで、春を散らしていくあの風の気配はあとかたもなく消えていた。
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