空白には桜が降る

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 休日出勤という差し迫った苦しみに頭を抱えながら夫は手早く朝食を用意して家を発っていった。玄関で見送りを終えて、しばらくは細々としたことを済ませるはずが、いつの間にかどこかのタイミングで腰を下ろしたソファーで眠っていたらしい。天井と目が合って深いため息が出る。結局、洗濯機を回して服を干して、昨日で切れたシャンプーを詰め替えることしかできていない。壁にかかっている時計を見上げるともうそろそろ支度を始めないと間に合わない時間になっていた。大きく息を吐いて立ち上がるとクローゼットに向かう。  適当に服を見繕って身に着けていると近くの姿見が目に入った。大学時代から着ているセーターを頭から被ると、控えめな大きさの下腹は鏡の中で、秘め事のように暗く毛羽着いた布にすっかり覆い隠されてしまう。この時期になればもう少し目立つようになってくるものではないかと思っていたが、個人差の範囲で特に問題はないらしい。オメガ男性は体質的に女性よりも妊娠中にお腹が前に出にくいとも聞いた。いずれにせよ、自分が今気にするべきことではないのだろう。 『ダッッッサイな』  まだこのセーターがおろしたてだったころ、彼にとってはずいぶん早い時間に起きていた兄が玄関に現れたかと思うとそう言ったことを覚えている。まるで、昨日のことのように。 「葬式にでも出るのか? 重い色はおまえ似合わないって」  壁に背中を預けて不機嫌そうな声を聞かせる兄に「家で洗濯できるやつだから」と答えて、今より少し年若い自分がスニーカーに足を入れる。 「出かけるなら新しいの買ってこいよ。ほら」  ジーンズのポケットから兄が財布を取り出したのを見てようやく、早起きだったのではなく外から帰ってきたばかりなのだと知る。なにをしていたのかは告げないままどこかで一人暮らしをしていたらしいが、家賃が払えなくなったといって先月から実家に戻ってきていた兄の手はちょうど五千円札を取り上げたところだった。 「俺が選んだってまた似たようなのが増えるだけだ。兄さん、今日の予定は?」 「寝る。起きたら起きる」 「なら、夕方の5時に駅前で落ち合うのは? 一緒に選んでくれよ、新しいの」 兄は難しい顔をして「まあ、起きたらな」と言った。 結局その日、兄が待ち合わせ場所に現れたかどうかはもう覚えていない。駅ビルに入っているショップを軒並みけなしながら、しかしやけに楽しそうに隣を歩いている兄の横顔の記憶も、いつまでも来ない兄にいつ連絡を入れればいいか腕時計と家の方角を交互に見つめながら駅前で立ち尽くしていた記憶も自分にはある気がして、どちらが真実か、あるいはどちらも存在しないものなのかはもはや永遠に知ることはないだろう。  葬式にでも出るのか? という兄の声がふいに頭の中にこだまする。いいや、と姿見の前で呟いた。いいや、兄さん。
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