空白には桜が降る

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 容赦なく目を刺す太陽に思わず顔を伏せると、駅前のざわめきが遠のいていく気がする。うっかりここでもひと眠りしてしまうのはさすがにまずい。まるでゾンビかなにかのようだと誰かと触れ合うたびにいつでも驚かれる自分の冷たい手を首筋に押し当ててなんとか目を覚まそうとしていると、「いいお天気ね」と澄んだ声が耳に飛び込んでくる。顔を上げると、スプリングコートを腕にかけた姉が微笑んでいた。  7つ上の姉は大きな図書館がある街に一人で暮らしていて、こうして約束を取り付けては会うことがある。昔からときどき映画やコンサートに連れ立ったり食事を奢ってもらったりすることはあったが、二人で長い話をするようになったのは2つ上の兄が亡くなってからだった。  今日は、こちらの体調は心配ないので週末にうちの近くの桜でも見に行かないかと数日前に電話を掛けたところ、桜は大好きだと姉からの快諾を受け11時に駅前で落ち合うことになっていた。腕時計を覗くと針は10時50分を指していて、お互い早く着きすぎていたことを知らせると姉が「やっぱりそうよね?」と笑う。「早めに来たつもりだったのに、もう待ってたからどうしようと思って」。近くのパン屋で昼食を買って、ぼちぼち公園に向かおうと店を出て歩き出すと、日を追うごとに少しずつ、しかし確実に重たくなっていく腹にふと意識が向く。一人で過ごしているときは特に気にしないが、特に実の姉の前でいかにも妊夫らしい振る舞いをするのはなんとなく気恥ずかしさが勝って、セーター越しにはほとんど平らに見える場所に思わず当てようとした手をそのまま下ろした。拳を握ったり開いたりしながらぱらぱらと咲いている花壇に視線を向けると、きっと同じ花を眺めていた姉がふいに「もう春なのね」と歌でも口ずさむかのように言った。 「昨日はこのコートじゃ肌寒いくらいだったのに、今日はこのままでもちょっと暑いくらい。気分はどう?」 「別に」  答えてから、これではまるで思春期の中学生と変わらないのではと思い直し、「妊娠の経過なら」と続ける。 「電話でも言ったけど、自分の把握している範囲じゃ問題はない。仕事も続けてる。今は16週で、あんまりダラダラしないで動けって医者が」 「もうそんな時期? 時間が経つのって早いわねえ」 「ついこの間まで俺のほうがよちよち歩きだったのにな」 「そんなにさかのぼるの?」  くすくすと笑い声を漏らして姉が言う。 「そうね。ついこの間まであなたは、家じゅうのテーブルの足をかじり回ってた可愛い可愛い赤ちゃんだったのに」 「なにもかもがあっという間だ」 「ええ、あっという間」 「もうすぐ国際オメガの日でしょ。それに合わせて図書館で特集が組まれててね」  あの子の本もあったのよ、と姉が嬉しそうに言ってベンチの背に体を預けると頭上の桜を見上げた。兄がこの世界に残していった足跡を慈しむようにこうやって穏やかに彼の話をするのは姉ぐらいで、多少偏屈なところのあった彼が姉のことだけは「嫌いじゃない」と公言していた理由がこんなときにわかる気がするのだ。そう口にすると「確かに言ってた」と姉が笑う。 「だいぶ名誉なことね。でも、嫌いじゃないってだけで、好きではなかったとも思うの。それって私には少しさびしいことよ」 「そうか?」 「だって、あの子は本当に、あなたのことが好きだったもの」  姉と弟の間で差をつけるなんてルール違反よ、と後半は半ば冗談めかしながら姉が言う。 「さあ、どうかな」 「あらあら、とぼけちゃって」  枝から一枚花びらが離れてゆっくりと落ちていく。手を伸ばすと指の隙間からすり抜けていった。 「今日見た夢を覚えてるけど」  ふいに呟くと、明け方の光景がふいに目の前に鮮やかに蘇る。 「兄さんはいなかった。俺が見つけられないだけかもしれないけど、夢の中でもやっぱり会えない」  どれだけ目を凝らしても、あの風の向こう側に兄の姿はなかった。 「そう」  姉が静かに頷いて、さびしいわね、と言った。 「さびしいっていうか……なんだろうな。悪い、またこんな話」 「いいのよ。あなたが話したいことを私は聞きたいもの」 「わかってるけど、姉さん。ただ……いつまでも悲しみに打ちひしがれるなって、周りから何度も言われた。乗り越えろとか、自分の人生を生きろとか。28歳のオメガが、一年半前に経験した兄の死への『普通』の悲しみ方についてそのたびに考えてるけど、今からしようとしている話ってちょっとあまりにも……」 「あまりにも?」 「感傷的? わからないけど」  眉根を寄せて答えると、「いいじゃない」と姉が言う。 「悲しみ方は人それぞれよ。みんなあなたが心配だからそんなこと言うのかもしれないけど、でもそれって、本当に余計なお世話よね。ねえ、お通夜のときの話をしてもいい?」  頷くと「あの日は……」と姉が目を閉じる。 「お父さんは、なにも聞こえない考えたくないって顔でずっとぼんやりしていたわよね。空中ばかり見て、誰とも目を合わそうとしなかったし、一言も話そうとしなかった。お母さんは最初から最後まで怒ってた。自分を悲しませて苦しめる全てのものに怒ってた。そうじゃないと耐えられなかったのね。あの日は本当に、辛い日だったから。私はお酒をたくさん飲んだわ。本当に恥ずかしい。そうすればなにもかもから逃げられると思ってたの。でも、今では後悔が追いかけてくるだけ。どう? それぞれとっても最低に個性的だったでしょう?」 「俺も人のことは言えないけど」 「みんなそれぞれの方法で悲しんだのよ。あなたも、私も、みんなよ。その中に、『普通』に悲しんでいる人なんて一人もいないの。私たち全員あの子を失ったけど、みんな少しずつ違う悲しみを抱えてる。それはその人だけのもので、どう向き合っていくのか、周りの人は手助けすることはできるけど、勝手に口を出してどうにかできるようなものではないと思うの。『普通』とかそうじゃないとか、ラベル貼りなんてもってのほかね」  後半は少しだけ険しい表情を浮かべて姉が穏やかな口調のまま続ける。 「だから、いいのよ。思い切り悲しんでもいいし、ちょびっとだけでもいいし、変な方法でも大丈夫。あなたがしたいなら、感傷的な話をたくさんしましょう。あなたと、私だけの方法で」  ぱっと目を開けて、姉が目の前を落ちていくひとひらの花びらをそっと指先でつまむ。 「あげる。さっき取り損ねていたでしょう」  しっかり見られていたのかと苦笑して受け取ると、「こればかりは少しコツがいるのよ」と姉がいたずらっぽく言う。 「みたいだな」 「でも、とっても簡単よ。すぐにできるわ」 「自分がどの程度の不器用なのかは把握してる」 「できるわよ! なんでもできるわ、あなたなら」  ――オメガがまず最初に学ぶのは、という兄の言葉が書かれたページが目の前でぱらぱらとめくられたようだった。『おまえは主人の望むこと以外はなにもできないということ。主人とはオメガを所有する父、あるいはアルファ。あるいはオメガの身体ひいては存在そのものを管理しようとする社会。あらゆる特権を独占するアルファの妻となり、アルファの子を産むというその一点を除いて、おまえはなにもできないとまず教えられる』。 「なんでも?」  自分も姉と同じ足跡を見ているのだとわかった。『今の社会において、グロテスクで醜悪な嘘を吹き込まれることをオメガが自ら回避することは不可能に近い。おぞましいことだ。だが幸運なことに、我々は知っている』 「なんでも」 『オメガはなんでもできる』  ページの先が紡がれることはなく、だから残されたページを生きている者たちで何度も読み返す。兄の足跡で、声で、生きた証そのものがいつでもそこにある。 「……そうだった」  ふっと笑みが零れると、姉も笑う。「そうよ」 「姉さんも」  返すと、「ええ」と姉が言う。 「私も、実はなんでもできるの」  足跡の途切れた場所に差し掛かるとき、自分が抱えきれる分の痛みとともに、最近は考えることがある。兄の足跡を再現することはできない。ただ、自分の歩き方で、その先まで進んでいくことはできるのかもしれないということ。いいものとはお世辞にも言えない靴のギザギザした底で地面をなぞると、顔を上げて姉に「知ってる」と唇の端をかすかに上げた。
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