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まだ少年の面影を残していたころの自分がベッドで眠っている。それだけで、また自分が過去の夢を見ているのだとわかった。ブルーの掛布団が呼吸に合わせてかすかに上下している。やがて小さな足音が部屋を横切って、深く眠っていたはずの自分は静かに目を開けた。
「なに?」
ぼんやりした意識の中天井を睨みつけて足音の持ち主に問うとかすかな舌打ちとともに「子どもはぐっすり寝てる時間だろ」と部屋の隅から兄の声が返ってくる。
「兄さんが起こしたんだろ。なにしてるんだよ俺の部屋で」
「出かけるんだよ! だからここの窓から……なんだこれ、鍵がサビついてんのか?」
返事を寄越さずに体を起こして部屋のドアノブに手をかけると「待て待て待て」と窓際にいた兄が慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「なにもそんな意地の悪いことする必要はないだろうが。おまえは黙ってまた寝直せばいいし、俺は心置きなく街に出かける。言いつけてなにになるんだよ。総合的な利益を考えろ」
「どうでもいいけど、俺の部屋を通路代わりに使うのはやめてほしい」
「いいだろそれくらい! いいか、親は今玄関の音にやたらナーバスになってるんだ。二度とバカみたいにあそこから出入りするかよ。まさか弟の部屋の窓から出るとはあいつらも思わないからな」
真剣な目をして立て付けの悪い窓をがちゃがちゃといじる兄に返す言葉もなく眠い目でただその姿を眺めていると「体調は?」と兄がふいに呟く。
「え」
「窓に訊いてるんじゃないぞ。おまえだよ。おまえ。学校休んだって姉貴が」
自分の知らぬ間に姉と兄でそのような会話が交わされたことが意外で、瞬きすると一拍置いて「ああ」と答えた。今まで服用していた抑制剤が効きにくくなって今回からより強いものに変えたのだが、副作用の腹痛が強く出てしまって昨日は高校を早退したのだった。
「今は? 眠りが浅いだろ」
「いや、ぐっすりだったのを兄さんに起こされただけだが」
家で大人しくしていたらだいぶ体調はよくなって、早めの就寝で健やかに眠っていたところを不法侵入によって邪魔されたところであると伝えると「ならいい」と兄が肩をすくめる。いいのか。
「……俺も」
あくびをして再び布団にもぐりこもうとすると、ふいに窓枠から手を放して兄が言う。
「同じようなことあったんだ。それもちょうどおまえぐらいの年のときだったけど」
窓の外にぽつぽつと灯っている街灯とは比べ物にならない強い光をいつでも宿している兄の目がこちらを向いた。
「母さんがガッコ―まで迎えに来てさ。なーんか嫌そーな、いかにも不機嫌って感じで。ハッ、予想通りだよな。まさに母さんって感じだよ。だから車に乗り込んだあと、俺言ったわけ。『親が迎えに来るって決まりは俺が作ったわけじゃないし、まっさきに母親に電話したのも俺じゃない。クソなのは学校だろ』って。まあ、もっと言えば社会構造の問題だけどな。それで、母さんが言ったんだ。『そんなこと訊きたいと思うか』って。『私に迷惑をかけるな。健康でいることすらできないのか』ってさ」
まるで自分たちのやり取りを見てきたかのような再現性に驚いて思わず目を瞬いて「まったく同じこと言われた」と答えると兄が姉とそっくりの跳ねるような笑い声を聞かせる。今夜は珍しく機嫌がいいようだった。
「ハハ、やっぱりな。あの人は一人だけループの輪の中に閉じ込められてんのかね」
ウケる、と呟いて兄がラグマットに座り込んで片膝を立てた。
「母さんは、俺たちがオメガだってことをなにか重大な欠陥みたいに思ってる。厄介なのは、罪悪感と怒りがごちゃまぜになってるところだ。オメガなんかに生んじゃってごめん、と、なんでオメガに生まれてきたんだ許さん、のリミックスだから面倒だよ。俺がオメガだからってことに謝られても困るし、怒られるのはマジで意味わかんないだろ」
兄の言葉が、いつでもぼんやりとは頭の中を漂っていて、しかし自分は決してそれを掴んで誰かに見せることはできないだろうと思っていたものに形や色を与えていく。
「昔は、母さんもオメガ男性なのになんでそんなカスの思考回路になるのかが一番わからなかったけど、残念なことに今はなんとなく予想がつく。親戚連中を見てみろよ。どいつもこいつもクソ差別主義者だ。オメガの子どもが法事だの正月だので集まるたびどんな目に会ってたか……いや、じいさんばあさんも普通にクソだからな。毎日がサバイバルだろ、あんなの。で、周りにそういうやつしかいなきゃ、普通はああなる。最高の英才教育を受けて、オメガ嫌悪に染まりきったってわけさ。幸運なのは、俺が普通じゃなかったことだな」
太陽がいつか滅びるなら、兄の目に灯る光を他のなにに例えられるだろうかとふいに思ったことを覚えている。今でも答えは見つからない。
「俺は普通じゃないから、母親のオメガ嫌悪には堂々とゲロを吐いてやる。俺は自分を否定しないし、俺と、俺以外のすべてのオメガの可能性を信じてる。信じてるというか、知ってるんだ」
兄が形や色を与え、光を当てて世界に見せようとしたものに自分はずいぶん時間をかけてゆっくりと触れていった。虐げられたものたちが、気の遠くなるような時間をかけながら紡いでいった自由への叫びが自分の中にも響いていると気づいたときは、このときの兄の年をもういくつか過ぎていて、そのたびにまだひどく年若かった彼の聡明さに驚かされる。
「だから、俺はしたいことをする。なぜなら、俺にはそれができるから。というわけで、さらばだ弟よ。そのだっさいパジャマで今度こそしっかり熟睡したまえ」
立ち上がったと思ったらそう言い残して兄がひらりと窓から飛び降りていった。
「あ、待て。一つ言い忘れた」
掛布団を引き上げてまた体を横にしようと思った刹那、兄が窓枠からひょっこりと顔を出した。
「おまえがオメガなことも、薬のせいで早退したのもなにひとつおまえの落ち度じゃない。おまえが母親の重荷なんじゃなくて、社会がおまえに何百キロの足かせをくくりつけて歩きにくくしてるんだ。だからいつだってしんどいし、周りの手助けが必要なときもある。でも俺たちが止まることはない。笑われても石投げられても、ちんたら歩き続けるんだ。足かせが外れて、軽い体のままどこまでも走っていける日まで」
じゃあな、と黒い頭が窓枠から素早く消えて、今度こそ兄が街へと去っていった。そういえば靴を持っていなかった。裸足で行ったのだろうかと思ったが、庭先のサンダルを引っかけていくこともできるし、そうでなくともいくらでも手はある。それでも、裸足で夜をどこまでも疾走する兄の姿を思い浮かべながら、再び眠りについた。
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