空白には桜が降る

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 目を開けると、いつの間にかついていたリビングの明かりが視界を白く染める。かけた覚えのないタオルケットが身じろぎした際に床から落ちた。 「待った。俺また寝てたか?」  寝てた、と台所からすぐに返事が返ってきて思わずはあ、とため息が零れた。体を起こして、ガスコンロで鍋をかき混ぜている夫の肩に顎を乗せるともう一度目を閉じた。 「いい匂いがする」 「今日は鰆のソテーとキャベツのスープにしようと思って。これの味見してくれないか? コンソメ使い切りたくて作ったんだが、ちょっと濃い気がして、水入れようか迷ってたんだ」  小皿によそわれた薄い金色を啜って、「まあ、言われたら濃いかも」と呟くと夫が「だよな」と夫が頷きながら手早く鍋に水を加えた。 「お花見はどうだった?」 「晴れててよく咲いてて、まあ想像通り。風がそんなに強くないのはよかった」 「それはいいな。電車からも桜が見えたよ。同じ木だといいんだが」 「さあ。違うんじゃないか」 「意地悪だなあ」  半分感心しているような声音で夫が眉を下げるのに口づけを寄越して、「手が止まってる」と途端に赤くなった夫の耳たぶを軽く引く。「いじわるだ」という囁きのあと、頬に暖かい手が添えられて互いにゆっくりと唇を合わせた。ガスコンロの火が消えて、二人の体温だけがこの場所の唯一の熱源になる。  喉を半ば見せつけるように大きく動かして流れ込んできた唾液を飲み込み、そのままじっと視線を合わせる。同じような状況のとき、「まだ腹ぺこ」と言いながら夫の手をまだ真っ平らだった自分の腹に沿わせて誘ったことがふいに記憶の片隅に立ち上がってくる。ずいぶん恥ずかしいことをしたと過去の自分に目を伏せたくなりながら、そのときと同じ強い欲望を今回はどうやって求めようかと考えていると、リビングの隅から鳴る乾いた呼び出し音が場違いな緊張感をつれて空気を切り裂いた。 「電話が……」  夫がなだめるようにして自分の手をさすり、電話機に向かう。表示された番号を見てこちらを振り返った夫に片眉を上げて、戸棚に寄り掛かるようにしていた体を起こし受話器を取りに行く。 「もしもし。母さん?」 「ああ」 「どうかしたのか」  ひと月前に妊娠を報告して以来連絡は取っていなかった。なにか祝いの言葉が欲しいかったわけではなかったが、妙に無感情な声のまま「そうか」とだけ返す母とこれ以上なにを話せばいいのかわからず「じゃあそういうわけで」と意味の通じない言葉だけを残して電話を切ったあのときの感触がふいに蘇る。本当に、今日は何の用があって電話をかけてきたのだろうか。 「チョコレート、最近食べたか」  あまりに唐突な質問に、チョコ?と返すと「食べたか」とかすかに苛立ったように母が繰り返す。 「さあ、どっかでは食べたと思うけど」 「なら、あまり食べ過ぎないほうがいい」 「へえ」  カフェインが入っているからとか、そういう理由だろうか。それにしても微々たる量だろうし、そもそも過剰摂取するシチュエーションなどない。内心どうでもいいと思いつつ返事をする。このごろいつでもどこでも襲ってくる眠気にあくびをしかけたそのときだった。 「おなかの子がオメガになりやすくなる。テレビで観た」  受話器からの声が耳に届く。その瞬間、ふいに自分が呼吸する生物だということを忘れた。そうか息をしないと苦しいのか、と思い出しておずおずと空気を飲み込むように吸うと、途端に噎せてまた呼吸とは遠くなった。もし成功したとしても、そのときにはとっくに心臓のひどく不快なリズムと音で胸が不快感に満ちていて、酸素の居場所などなかったのだろう。 「……だから」  近くで心配そうに自分を伺っていた夫が異変に気付いたのか顔色を変えて飛んでくるのに黙って首を振って子機からのびるコードを睨みつける。怒りや悲しみという表現が凡庸に思えるほどに強いものが喉の辺りにうごめいていて、声の震えを誤魔化すことだけに必死になっていた。「だから、食べ過ぎるなって? わざわざ電話してきたのか。生まれる子がオメガにならないように」  返事はない。 「オメガの孫なんていらないって、そんな孫可愛がれるわけないって思った? それか、俺のこと心配したつもりなんだろうか。オメガの子なんて産んだら後悔するから? 産まなきゃよかったって、思うからか」  返事はなかった。 「母さん、俺は」 「後悔してる」  やっと聞こえた電話越しの母の声は不自然に割れていて、大きな音でもないのに鼓膜が引き裂かれるかと思うほどに痛かった。 「後悔してる。産まなければよかったと思ってる。おまえに同じ轍を踏ませたくない。私は……オメガの子を二人産んだ。一人は死んだ。まだ若かったのに、本当に若かったのに、でも死んだ」  これまで聞いた中でもっとも悲痛な言葉たちが閉じ込められた電話機は不思議なほど冷静に通話時間をカウントしている。 「オメガがいろんな理由で死ぬのを今まで見た。抑制剤の副作用で死んだ。堕胎して死んだ。子どもを産んで死んだ。家がなくて、寒さで死んだ。金がなくて、病院に行けずに死んだ。オメガの症例は少なくて、まともな治療が受けられずに死んだ。暴行されて死んだ、あるいは、その場では死ななくても心が壊れて自分で死んでしまった」  どれもニュースなどで見聞きするたびに、悲劇的な物語として処理していたものだ。でも今ならわかる。あれは、まさに自分の隣で起きていたことだ。どこまでも地続きの現実。目を逸らさないと生きていけないと思ったからそうした。 「でも、それは本当の理由ではない。オメガが死んでしまうのは、オメガだからだ。ありとあらゆるものがオメガを殺す。死んでいったオメガは、殺されたんだ。あの子がよく言ってた、社会やら制度やらに」  耐えられなくなって目を閉じる。それでも、受話器を放してはいけないとわかっていた。 「あの子は死んだ。若かったのに死んだ。オメガだから死んだ。殺された。子を亡くしたこの一年半がどれだけのものだったか、おまえにわかってたまるか。私は後悔してる。初めて……あの子に会った日の幸福すらいっそ手放したいと思うほどに……私は……」  やがて母の声が遠くなっていって、電話は切れた。  この一年半、と言った。兄の死にいつまでも立ち止まるなと母が自分に言ったのは兄が亡くなって半年の去年の春だった。そこから一年経って、母自身は前に進むどころか、確かに幸せだった過去の一日ですら消し去ってしまいたいとなに一つ取り繕うことなく剥きだしで望んでいる。  人の死が一度きりではないのなら、きっと今日、母の中でまた兄は死んだ。  口の中は冷え切っているのに、不思議と体は冷たくなかった。気づけば夫が自分の背中をさすっていた。体が寒気に震えないのはそのおかげだろう。  背中をさすっていないほうの手が自分の手を握るのを見下ろして想像する。この手に縋りついてみっともなく泣きじゃくる自分を。もしそうすれば、少しでも気分は楽になるのかもしれない。優しいベータの夫の腕の中で泣く、オメガの兄を亡くしたオメガ。空白ばかりのページがいくつかあっても、そうすれば少なくとも世界はそれらしい形で完結を迎えることができるだろう。でも涙は出ない。涙の代わりに、いつも目の前に溢れるのは兄の言葉だった。 『一人でなにしてるんだよ、こんなところで』  何年前かは忘れた。今より昔。若い兄がもっと若かったころ。退屈なデザインのマンションをあとにして深いため息をつくと、自転車に乗っていた兄が目の前を通り過ぎた。瞬きをする間もないまま急旋回をして兄は面白そうにそう言った。 「兄さんこそ……」  なぜこんなところを自転車でうろうろしてる、とマフラーを巻き直しながら言いかけて、訊いても無駄かと思い直す。 「今別れてきた。フェラチオ断ったらごねてきたから、うぜーと思って。あれで完璧な彼氏気どりだったとか、笑える」  初めての恋人ではなかったから、2番目か3番目か、たぶんその辺りだった。弟が兄の前で語るのに適切ではないことはわかっていたが、取り繕ったり適当な言い訳を作るには自分はあまりにも疲れていた。もう一度深く息を吐いて荷台に腰を下ろすと「おい勝手に座んな」と兄が振り返ったがこちらを睨みつけてはいなかった。 「おまえ、フェラ断って別れてきたのか。そりゃいい。社会活動だな」 「どこが」 「紛うことなき社会活動だろ。そこで我慢したらオメガはいつまでも搾取されるだけだ。おまえはNOを叩きつけた。社会に貢献したな。世界変えたよ、おまえ」 「そういうもん?」 「そうだろ。俺が昼間からこうやって楽しそうに自転車漕いでるのだってちょっとした革命さ。オメガが一人で行きたいところに行けるようになるまで、どれぐらい時間がかかったと思ってる? いや、今でも完全に実現したとは言えないな。だからこそ俺のやってることには大いなる意味があるんだよ。わかるか?」 「まあ」  頷くと、兄が不敵な笑みを浮かべて夕日に目を細める。兄の目は輝いている。すべての光の所有者がいるのなら、それはきっと兄だ。 「オメガが自分の意思でやることはなんだって革命だ。学校に行ったり働いたり、欲しかったら子どもをもって、欲しくなかったらもたない。遊びに行ったり酒飲んだり買い物したりうまいもん食ったり……あとなんだ、思い切り昼寝したりとか。つか、生きてたら全部革命だろ。オメガがここで生き残るのってクソ難しいから、生きてるってだけでもう立派な抵抗になる」  聞きながら、いつかこの言葉を自分が思い返す日が何度も来ることを知っていた。辛いとき、嬉しいとき、どうということない一日でもすぐに思い出せるように、握って離さないように、何度も頭の中で繰り返す。 「このまま家送ってほしいの、おまえ」 「乗せてってくれんの」 「えー、どうしよっかな。二ケツって重いし疲れんだよな。あ、そうだ、おまえここ乗れよ。俺横走ってやる」 「じゃあ遠慮なく。さよなら」 「バカ、横走るっつってんだろ。並走だよ並走」  手を振ってペダルを漕ぎ出すと、兄が猛然と走り出して今度こそ容赦なく自分を睨みつける。「無理だろ」と鼻で笑うと「できるさ」と兄が口の端を上げる。 「ひよっこ活動家のおまえが、真の革命家の俺を追い抜けるはずもない。せいぜい兄の背中を眺めるのがオチさ。クソださマフラーなんか巻きやがって」 「穴あき手袋してるやつに言われたくない」  坂道を兄弟が下って行って、記憶はフェードアウトしていく。今は、電話機を乾いた目で見下ろしている弟だけがここにいる。縋る代わりに夫の手を握り返して、息を吸って、吐く。  兄について想うことはと問われれば、会いたいだとかさびしいだとか、そんな稚拙な言葉たちでは到底答えることができない。偉大な抵抗者だった兄への敬意と、彼をあまりにも早く喪ったことへの混乱。彼が生き残り続けられなかった世界への怒り。その全てが、文字の形にはならずにページをのたうち回っている。  電話が再び鳴る。身勝手で、どうしようもない弱さをもう取り繕うこともしない母も、また自分や兄と同じく生き残りでもある。  桜が咲いて散って、やがて美しい若葉が枝を埋めて、季節が変わる。自分が大いなる抵抗とともにまた生き延びたことをそのとき知るだろう。    そして、そのたびに自分の中で、兄は何度でも生き返る。 <空白には桜が降る>
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