いつもの朝

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何も考えずに足が動く。駅に向かっていつもの路地を歩いていた。 もうすぐ駅前の大通りに出るというところで、スーツを着た女性が道の端にしゃがみ込んでいる。思わず「大丈夫ですか」と声をかける。すぐに気恥ずかしくなった。 人に話しかけるのは苦手だ。ましてやこんな、ちょっと前まで大学生だったみたいな若い、知らない女性に。 自分ではない誰かが彼女に気づいてくれないかと通りを見るが、みな早足で駅に吸い込まれていくばかり、誰もこちらを見もしない。 彼女は心底困ったように眉を下げて、消え入りそうな声で「ホトケノザを探しています」と言った。 ホトケノザ? ああ、そういう名の草があった。春の七草だったか、それとも雑草だったか。不意に幼い頃の記憶の断片がおぼろげに浮かんで消える。 確かに最近あまり見ない気がした。駅前の広場にはきれいな花壇があるけれど、手入れが行き届いているため雑草はお目にかかれそうにない。 「あっ。あの、あっちに、」 運動公園があるのを思い出した。もしかしたらホトケノザがあるかもしれない。そう伝えようとして言葉につまる。 もう何年も野の草を意識して歩いた記憶なんてない。公園にだって足を踏み入れていない。そこにあるかもしれない、ではなく、ある可能性もまったくないではない、という程度のあやふやな印象だ。 自分が迂闊なことを言ったせいで知らない人がそこに向かい、しゃがんで地面を探し回って新品らしいスーツを汚し、結局ホトケノザがなかったら。心苦しい。 いつからだろう、こうやって失敗のイメージに占拠されて行動することを恐れてしまう。 彼女はこちらを見つめて表情を和らげた。 「公園、行ってみますね。ありがとう」 「あ、いえ……」 彼女は向こうに公園があることを知っていたのか。また意味もなく恥ずかしくなる。 早く通りに出よう。ここに突っ立っていたら彼女も立ち去りにくいかもしれない。もうすぐにでも人混みの中に紛れてしまいたかった。 路地を抜けると視界が少し明るくなる。なんとなく横目で振り向いたが、彼女の姿はなかった。 どうしてこの通勤時間に雑草を探しているのだろう。 夜だったら、おかしな輩だ、関わりたくないと避けたかもしれない。朝でも奇妙な光景ではあるはずだが、危険な感じはしなかった。 彼女もこれから満員電車に詰めこまれるのが嫌で、あるいはその先に待つ会社や仕事が、生活に追われるのが嫌で、現実逃避をしているのだろうか。 勝手な想像をめぐらして、急にどうでもよくなった。ホトケノザ、見つかるといいな。 昔、ツツジの蜜を吸おうとしたら巨大な蜂が飛び出してきて友人たちもみんなパニックになったことがあった。 女子がタンポポの綿毛を飛ばそうとしていたので、横からでこピンで綿毛を散らして怒られた。 オオイヌノフグリの名前についてやたらと自慢気に教えてまわるやつがいた。あいつの名前、なんだっけ。 とりとめのないことを考えながらも足はいつものように動いていて、気づいたら電車に揺られていた。今日も混んでいる。 学校行事で電車に乗ったとき。あのときの自分たちは本当にうるさくて迷惑だったろうなと思い返す。 あれは遠足だったか。遠足はバスの記憶が強いけれど。どこに行ったっけなあ。 実家に帰ったら当時の作文なり写真なり見つかりそうだ。久しぶりに電話でもかけてみるか。 通勤電車の中で人々の頭がゆらゆら揺れる。辛うじて見える電車の窓、ビルの群れの隙間に朝の空が光っている。 家を出たときには気づかなかったが、いい天気だ。
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