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暗い顔で帰宅の道を急いでいたところを、ちょっとちょっとあなたあなた、と声を掛けられた。
一人の青年が、商店街の一隅の椅子に座っている。
小さなテーブルの上には、〈何でも占います。お悩み事、歓迎!〉との表札のような小さな看板。
いちおう手相占いらしいが、ちょっとちょっと、とヒト声掛けられたからと言って、淳太郎は占ってもらうつもりなどなかった。これまで占いがどうとかの人生を送って来ていない。それでなくても給料日までアト二日、占い賃として臨時の出費は痛いのである。
だが、行き過ぎようとする淳太郎に、ちょっとちょっと、と占いの青年はまた声を掛けるのである。淳太郎はさすがに足を止めた。
何ですかと顔を向けてみる淳太郎に、あなた、引っ越しを敢行したなら、運が向いて来ますよ、と青年はいきなり言った。
「カ、カンコーですか?」
「そう、カンコー、敢行ですよ。善は急げです、あしたにでもね」
「そ、そんな」
驚くしかない淳太郎に向かって、手相を見なくったって顔にも相があるってもの、せかせかと背中を丸めるようにして、どの店も閉店間もなくのこの商店街というものを暗い顔をして歩いているあなたという人を見て、自分は声を掛けたくなったのだと青年は、せっかちにも言葉を続ける。
「タマーにね、コンナコトをしてみたくなる時があるンですよ」
と真っ白くもきれいな歯並びを覗かせて、お代なんていらないいらない、もちろんいらないと手を振る青年は、それをそのままサヨナラの手振りにしたあと、占いの看板や椅子やテーブルもそのままにサヨナラサヨナラと去って行った。
あしたは無理であったがそれでも、淳太郎は一週間後には安アパートを引き払って、同じように安い家賃の部屋に引っ越していた。
春の引っ越しシーズンの真っ只中なのに、何だか事の運びというものは、すべてうまく行ったようだ。
ネットで検索したその1軒目のサイトで、格安・好条件のの部屋が見つかった。駅にも近いから、会社通いも少しは楽になるに違いない。
これほどスムーズに格安の家賃の部屋に行き当たったのは、やっぱりこれは幸運の始まりだろうかと思わせてくれるところがあったのだし、無理でもそう思いたい、思わなくてどうするとの思いも淳太郎にはあった。
このところの淳太郎は、確かに不遇だった。いや、このところというでなく、ずっとずっとそうであったかもしれない。
仕事が面白くない、恋人も出来ない、出来そうになってもカンジンのところで振られてしまう。体調もすぐれない。ああ寝不足だ、疲れが取れないと電車に揺られて、会社に通う。そんな毎日そんな日々、それもきのうまでの悪夢と割り切って、全く明日に賭けヨー、と元気な掛け声を自分に掛けてやりたくなる。
新住居からの会社行き、1日2日までは以前と変わらず過ぎた。
会社で隣りの席の年配女性は相変わらずの愛嬌のなさで、朝の挨拶をしたって、顎の先で、ふんと頷くだけ。
ところが、3日目、ずいぶんお世話になったわねと年輩女性は、今まで聞いたことのないようなやさしげな声で、話し掛けてきた。
自分のお勤めは今日まで、会社を辞めて故郷に帰り、親の介護に専念するのだという。はぁと淳太郎は驚き、頷き、お元気でと言った。
そして、更に1日置いての5日目、はやばや代わりの新入社員がやって来た。
ハヤカワくん、よろしく面倒を見てやってくれ、隣りの席なんだからな、と部長から頼まれるまでもなく、淳太郎はわくわくとした。
よろしくお願いします、とその淳太郎より二つ年下とかの女性社員はにこやかに、ポニーテールの頭を下げる。
それからの日々、淳太郎は満員電車もナンノソ、会社に行くのが愉しくて仕方ない。
さっそくにも淳太郎センパイは手引きをしつつ、新入社員の女性とバディを組んでの営業の仕事を任されたので、その流れで、昼ご飯などもいっしょに食べる。会社が退ければ、ちょっと一杯やろうかとの誘いも彼女は断らない。
恋の始めかのアドレナリンが、無理なく出ている体のアチコチからあふれている、とウヌボレでなく、淳太郎は感じた。よく眠れる、目覚めの気分もすこぶる良い。仕事もスイスイと進み、今日も明日もあさってもの勢いで、新規の契約がすんなり取れる。
「きみのおかげかもな」
女性社員を褒めると、「そんなー」と謙遜し、あしたは先輩のお弁当なんて拵えて来ようかな、とこれはもちろん冗談だが、笑顔いっぱいの彼女を、いいなあと淳太郎のこころは踊るのだった。
あの占い青年の予言は本当だった、と感謝したくならずにいられない。
お礼かたがた、今後の運勢など占ってもらうのもわるくない、更なる助言なども貰えれば言うこと無しだと気持を逸らせる淳太郎なのだったが、あの商店街のあの場所に行ってみても、あれ、占い青年の姿はなかった。
替えの電池など買うついで、隣りの百円ショップの店員に訊ねてみても、そう言えばこのところ見かけないですねえ、との答え。
あー、そうですかと落胆する淳太郎に、間を置かずしての不運が訪れた。
「――いろいろありがとうございました」
あっけらかんと新入社員の女性は、しかしやっぱりニコヤカに笑って、挨拶した。
「コトブキ退社だ、急に決まったそうだ。お祝いだな」
部長の言葉に、あーそうですかと淳太郎は呆気に取られるばかり、それでもごまかし笑いなど必死に浮かべて、「おめでとう」と彼女に言った。
それにしても、たったヒト月余りでコトブキか、と呆れる思いだが、まあ、自分はまだ本式に愛の告白などもしていたわけじゃない、フラれたってことでもあるまい、と気持を立てなおし、「仕事に賭けるんだ、このオレはー」と自分自身にハッパを掛ける。
だが、その決意も虚しく裏切られる。
あれほど上首尾であった仕事がうまく進まない。新規の契約が取れそうなところで、キャンセルされる。そんなことが続く。
きみ、スランプじゃないかね。呆れる部長の顔など思い浮かべながら、これじゃあ出世もおあずけだとゲンナリするばかり、暗い夜道をトボトボと帰宅する淳太郎は、もう自宅近くの公園に差し掛かる。
ブランコが動いている。
ギィー、ギィー、ぶらんぶらんと漕がれている音がする。
ずいぶんと遅い時間なのに、今頃ブランコ乗りなどやっているとは、どんなにんげんなのだろう、と好奇心を抱くまま、それでも恐る恐る公園内に踏み込んだ淳太郎に、
「あー、やっぱりお越しだ。さすが、あなただ」
陽気な声が掛けられ、ハッとする。
声の主は他でもない、あの占い青年だった。
「ど、どうして、あなたがココに」
「そりゃあ、だって、ナンツッタッテ、この僕は占い師なのですからね」
「それにしたって。こんな偶然」
「偶然? そんなものじゃないでしょう」
「え?」
「だからー、ナンツッタッテ、僕は占いをやるにんげんなのですから」
「はー」
「ですから、あなたのウンメイってものを、センエツながら、僕は疾っくに読んでいた。引越しをしたなら運が向いてくると僕はアドバイスを差し上げましたが、今現在のあなたは絶不調だ。判っていますよ、それくらい」
「あなたは、いったい」
「どんなヤツなのか、ですか? お訊ねいただければ、まあ、そこら辺の占い師ですよ、とこたえるしかありませんが――いえいえ、こんな話をしていたら、時間は過ぎて往くばかりです。そうです、今日も僕はあなたにアドバイスをして差し上げるために此処にやって来て、こうしてブランコなんて漕いでいる。漕いで、あなたを待っていた」
占い青年は、いっそう強くブランコを漕ぐ。長い脚をぞんぶんに活かして、勢いを付ける。
いつの間にか、淳太郎もブランコに乗っていた。占い青年の横で、懸命に漕ぐ。
ギィー、ギィー、ぶらんぶらん。二重奏のブランコ乗り、お月さまが空の遠くに見えるのだ、となぜだが淳太郎はそんなことも想う。
果たして、月の青い光を享けながら、占い青年は言った。
「また、運が向いて来ますよ、あなたには。落胆は禁物です」
占い青年は、いっそう強くの勢いでブランコを漕ぐ。
「幸運を引き寄せる方策というものを、あなたは疾っくに御存じのはずです」
「え?」
「そうです、また引越しをする、実行する、それだけのことです」
言い切ると、月の光に招かれるように、占い青年はブランコを降り、じゃあゴ幸運を、と人懐っこそうな微笑と共に去った。
淳太郎にためらいはなかった。
さっそく、早々の引っ越しをした。
またもや、こうもカンタンに好条件の部屋が見つかってくれるものか、という調子、引っ越し先は向こうから淳太郎を迎えてくれる。
引越しを果たした淳太郎は、また快調な日々を取り戻した。
新規の契約が次々と取れ、本領発揮だな、出世も近いぞと部長からもまた褒められる。
恋の予感はないが、それはこれから先のお愉しみだろうと気持には余裕があった。
だが、淳太郎は油断していたわけではない。
いつ、この幸運が途切れてしまうことか、その危惧は抱いていた。何しろ、この間の急の運のプッツン切れを経験しているのだから。
けれども、心の何処かで、プッツンと幸運が切れてしまおうとシンパイはしなくてもいいんだと安心していられるような自分も感じる。
そうだよ。プッツンが来れば、また引越しをすればイイ。カンコーすればイイ。それだけのことだ。
予想通り、運の途切れはプッツンともやって来る。やって来た。
部長の顔が曇る。恋の予感も程遠い……淳太郎はまた引越しを実行した。部屋はまたもまたも安易にも見つかってくれる。
予想通りの幸運がまた来る、だが、その運は再び途切れる。また引越しをする。運が来る。途切れる。またもまたまた引越し、引越し、引越し……。
半年、1年が、そうやって過ぎた。
引越しばかりを繰り返す淳太郎の身の上に、変化が起こらないわけもなかった。
きみは変わった趣味を持っているみたいだな、と部長は、しょっちゅう住所変更のなされる部下を持っては不安だとばかり、疑惑のまなざしを寄越す。他の社員だっておなじこと。
淳太郎は、見る見る会社に居辛くなった。
潔くも会社を辞めるまでに時間は掛からなかった。
辞めて、また引越しを試みた。
運よ、幸運よ、来い!
唱えながら、淳太郎は、またあの占い青年との出会いを夢見た。
再び会うことがあれば、自分はいろいろなことをあの占い青年に打ち明けてみたいのだと思う。
あなたの言うとおりに、運を求めて引越しを繰り返したこの自分は、いったい何なのだろう。会社を辞める成り行きを怨むつもりは、ない。いや、全くないと言えば強がりになる。だが、あなたを怨むつもりは全くないのだよ。
不眠の日々が続いた。
新しい職場を見つけなければならないが、部屋探しと違って、こちらはなかなかうまくいかない。面接でハネられる日々が続き、どうしたものかと泣きくれる。
――そして、
いつかの公園で、淳太郎は独り、ブランコを漕いでいる。
夜である。夜更けである。公園には自分のほか、誰もいない。
ギィー、ギィー、ぶらんぶらん。ブランコ漕ぎの音は、あの日あの夜と変わらないのだと淳太郎はひそかに期待を募らせる。
こうやっていれば、あの占い青年が、いつの間にやら、現れて、横でブランコを漕いでいる、そんな幸運を、自分は待っている。
満月が頭上にあった。青白い光を存分に届かせているが、そのうち翳る。
このままご機嫌が悪くなれば雨も降るか、と淳太郎は不安になりながら、ブランコを漕いだ。
お久しぶりです――声が聞こえてきた気がした。
淳太郎は、すなおに耳を澄ます。
錯覚だろうか、聞き間違えだろうか。
だが、この声には聞き覚えがある。いや、あるどころではない。
独り、ブランコを漕ぎながら、自分はこの声をこそ待っていたのではないか。
だが、ちょっとお待ちなさいな、と今一つの声も聞こえてくるのであった。
頭上の満月が、青白くも美しい光をくれて、淳太郎を照らし、
落ち着きなさい、落ち着きなさい、と諭してくれるようだ。
はい、とも、いいえ、とも返事をしないまま、
まだまだと淳太郎はブランコ漕ぎを止めない。
声が聞こえて来ようが来まいが、ギィー、ギィー、ぶらんぶらん。
勝手にブランコは前後の宙を揺らして動く。
何だか、眠くなってくる、と思っているうち、本当に眠ってしまったか。
いや、下半身に程よい力を込めて、自分はこの1秒2秒とも休むことなく、ブランコ漕ぎを続けている。その自覚があるのだから、眠ってなどいないのだと淳太郎は力む。
でも、いや、やっぱりあなたは、眠ってもいるのだよと、満月さまから言われでもしたら、信じてしまうだろう。
そのうち、あ、浮く、自分の体が、全身が、と戸惑う感覚に襲われ、これも夢だろうか、うつつのことだろうか、と淳太郎は心許なくなった。
浮く体は、全く浮くだけ浮いて、夜空に持って行かれるようだ。
夢でも、うつつでも信じよう、と淳太郎は、体の浮かしに懸命になる。
「――ここが、あなたの新しいお住まいですよ。新しい引越し先ですよ」
満月さまからのものでないとは判る声が、聞こえた。
「これで、あなたの引越しも、打ち止め。いっしょに、此処で暮らしましょう」
声の主は、真っ白くもきれいな歯並びを覗かせるだけ覗かせて、静静と言って寄越す。
此処と言われても、自分が何処にいるのか、判らない。だが、それはさして肝要なことではないのだと判る。雲の上だって、お月さまの近くだって、かまわない。
「いいですね。ここで、暮らすのですよ。そう、この僕といっしょにね。ずっとずっと」
声の主は繰り返す。
はい、とも、いいえ、とも、こたえないまま、まだまだしばらくとも、自分はこの体を、夜空の果てまでにだって、浮かし続けていたいのだ、と淳太郎は思った。
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