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「痛っ!」
3月。夜。仕事が終わり、マンションの自室に続く曲がり角を進んだら突然肩に痛みが走った。スーツを着た若い女が私にぶつかりながらも走り抜けたからだった。
「すみません、大丈夫ですか⁉」
謝ったのはぶつかった女ではなく、私のお隣さんだった。一年くらい前に引っ越して来た、たぶん大学生の男の子。いつもオーバーサイズのゆったりとした格好をしている彼。慌てて出てきたのだろう。ドアは開いたままで、靴も履いていなかった。
「大丈夫です……」
うつむいて覇気のない返事をした。いつもは自室の玄関でドッとあふれる疲れが、肩をぶつけられたせいで今あふれてしまったせいだ。早く家に帰りたい。すぐ目の前にあるのに遠く感じる。
「あ、あの!痛みとか、その……」
「大丈夫なんで!」
小さすぎて声が聞こえなかったのか、様子を伺うようにお隣さんが覗き込んでくるから、本日最後の力を振り絞って逃げた。アラサー女の疲れ切った顔なんて伺おうとするものではない。
4年間住んでいる自室へ雪崩れ込むと、目の前には段ボールの山。引っ越しが迫っているからだった。
*
翌日。休日だから昼までゆっくり眠り、疲れを取った。ここ最近ずっと引っ越しの為に仕事をしながら家の片づけをするという重労働に追われていた。今の会社に勤めて6年。仕事にもすっかり慣れて、そろそろ会社にも駅にも近い良いお家賃の場所へ引っ越そうと意気込んだものの、年齢を重ねるほどに無くなる体力を実感して絶望していたところだった。
「あ゛ぁ~痛い!」
昨日ぶつけられた肩ではなく、寝すぎたために体中が痛かった。外では出さない野太い声を出しながらストレッチをしながら体をほぐす。家事をして引っ越しの準備を進めて――。気が付けば夕方。もう一日が終わってしまうような感覚。いつになったら世間で当たり前のように週休三日が実装されるのだろうか。
「はぁ……」
面倒くさいけれど、まだ女を辞めていないと自分に言い聞かせる為にも、身なりを整えて近所のコンビニへと向かった。
新作のアイスを買ってご機嫌で自室に帰る。因縁の曲がり角を警戒しながら
進むと、部屋から出るお隣さんとばったり遭遇した。
「あ……昨日はすみませんでした」
ぶつかったのはお隣さんではないのに、律義。こちらも非礼を詫びなければ。
「こちらこそごめんなさい。昨日は仕事で疲れてて……感じ悪かったよね。全然大丈夫だから、気にしないでね」
「……仕事ってそんなに大変ですか?」
「え?」
「いや、なんか彼女、新卒なんすけど、最近ずっとイライラしてて……」
大学生だと思われるお隣さんが引っ越しして来てから友達をたくさん呼ぶとかなくて、静かに過ごしてくれたから助かっていた。たまに見かける彼女さんと思われる、昨日ぶつかって来た女性とも仲睦まじそうにしていたのに。
「ねぇアイス好き?」
「え?」
「新作買ってきたの。一緒に食べよう?」
*
独り暮らしの女がアイスを買うと家が近くだとバレる、とかいう話を聞いて
、だからといってアイスを買わないなんて出来るかと、ささやかな抵抗として誰かと住んでいると思わせるかのように、まとめ買いをする習慣がついた。腐らないし。冷蔵庫は圧迫されるけれど。でも今はその習慣のおかげで仲良く一緒にアイスを食べている。
「すごい段ボールの山ですね」
「あぁー実はすぐに引っ越すの。ごめんね、片付いてなくて」
「いえ……アイスおいしいっす」
「それは良かった」
話を聞いてみると、お隣さんは彼女が働き始めた去年から関係が悪くなっていたようだった。昨日は言い合いのケンカをして、彼女が部屋を飛び出したらしい。
「新卒だもんねぇ……私も指導する側になったけど、大変そうだもん」
「恋愛と両立できないものなんですか?」
「ゔ……」
私は大学時代付き合っていた相手と仕事の忙しさからすれ違い、別れた経験があった。そして去年そいつは他の女と結婚した。
「前は無理かもと思ってたけど……今なら出来そうかなぁ」
引っ越しの準備と並行して働くだけで精いっぱいのくせに。私は人生の先輩として、強がった。
「俺も早くそうなりたいです」
まだ社会を知らない無垢な彼に希望を持たせられるなら、この強がりも価値があると思った。
*
どこかに出掛けるところに鉢合わせたと思っていたお隣さんは夕飯の買い出しをしようとしていたらしく、結局私の家で一緒に夕飯まで食べた。相当ため込んでいたのか、彼の彼女への愚痴は止まらず、全て吐き出すかのように私にぶつけていた。
「全部分かってくれて嬉しいです」
どれもこれも自分が経験したことと似通っていたから、共感できたし、あの頃よりずっと大人になった私は彼の話を冷静に聞くことが出来た。
「ごちそうさまでした。あ、そうだ」
「どうしたの?」
「最近部屋で見つけたものがあって。ちょっと待っててくれます?」
バタバタと部屋を出て行った彼が数分後、持ち込んできたのは、花火だった。
「なんで花火?」
「夏にやろうと思って出来なかったやつなんです。もうやることないと思うんで、一緒にやりません?」
「まぁいいけど」
「引っ越し祝いってことで」
「引っ越し祝いって引っ越したらするんじゃないの?」
「まぁまぁ」
背中を押してくるから、流れるようにベランダに二人で出た。あまり火花や煙が出たら困るから、線香花火だけすることにした。静かに並んで、季節外れの花火を見守る。部屋の電気を消しているから、火花の灯かりだけが私たちを照らしていた。
「花火懐かしいな」
「……夏に彼女としようと思ってたんですけどね……あの時からもう、すれ違ってたのかもなぁ……」
後半はもう、独り言のようだった。彼の言葉の終わりとともに、線香花火が落ちて消えた。薄暗い中で沈黙が続いて、耐えられずに部屋に戻ろうとした瞬間、掴まれた腕。
「もうおしまいですか?」
「だってもう花火ないよ」
質問しておいて、私の答えなんて聞いていなかった。じりじりと距離を詰められる。これはもう、ただのお隣さんの距離ではなかった。
「ねぇ待って……何するつもり?」
「……俺と“火遊び”しましょうよ」
「でも……」
「だってもう引っ越しするんでしょ?」
引っ越しするから何だと言うのだろう。彼の中では無かったことに出来るということなのだろうか。彼から距離を取るように、部屋に戻るように後ずさりしていたけれど、最後には部屋の中で押し倒されていた。段ボール箱だらけの色気のない部屋で、これからの“火遊び”を期待して、色気を帯びた彼と目が合った。不敵な笑みを浮かべる彼に、私は――。
*
4月。引っ越し先からの出勤は私の生活の質を劇的に改善した。寝る時間が増えて、心にも余裕が出来た。新年度最高のスタートダッシュを切れたと思っていた。
「おはようございまーす」
めったに現れない別の部署の上司が見慣れない子たちを引き連れて挨拶にやって来た。春の名物である新入社員の挨拶。初々しい挨拶を微笑ましく聞いていた私は、世間の狭さを思い知らされた。最後に挨拶した、ぴっちりとしたスーツを着こなした新入社員は、私の部署の人たちに笑顔を向けた。そして――。
「よろしくお願いします」
あの時“火遊び”をした時と同じ、不敵な笑みを私に向けていた。
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