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カーテンもない窓から都会の景色が見える。
遠くに見えるベイブリッジ、この景色ともお別れだ。今日で引っ越しだ。
荷物は業者さんにすっかり運び出されてしまった。
ガランとしてしまった部屋の中に立ちながら、何も忘れ物はないかなと辺りを見渡す。もう何も落ちていない。何も見つからない。
解散から半年、私は事務所との個人契約を満了して、芸能の世界から離れることにした。
グループ史上最大の再生数となった解散動画の話題も、世間ではすっかり忘れられてしまって、もう検索してもSNSの中で『Reen-Hite-Ink』のタグはほとんど見かけることはない。熱心なファンが今日聴いた曲として名前をあげてくれるぐらいだ。
夏葉は、もうアメリカに渡ってしまった。メディアには出てこないがダンスを頑張っているらしい。
玲奈は、新たな公演が決まったが、出演者のスキャンダルで初日が延期になってしまったらしい。
私は、とりあえず地元に戻り、小さなダンススタジオを開くことにしている。芸能界では出していなかった本名でやっていこうと思っている。
誰かから逃げるための引っ越しではなく、自分が次にやりたいことのために引っ越す。今までの引っ越しとは違う。
早く私も二人みたいに新しい道を歩きたい、こんなに身体が軽い気持ちで引っ越しできるなんていつ以来だろう。陽の光を見上げながら引っ越すことのできる喜びを私は噛みしめていた。
スマホを1つカバンにしまい、玄関で靴を履いて、ドアを開く。
何も引っかかることなく開いたドアの向こうは風が少し吹いていた。
鍵を閉めて歩き出そうとすると、通路に小さな茶色の猫がいるのが見えた。様子を伺うかのように私を見ているようだった。
どこから入ったんだろう。
私がちょっと近づいてみようとすると、猫はびっくりしたように一瞬、毛を逆立てたかと思うと、翻して逃げていってしまった。
「逃げられちゃった」
私は独り言を呟いてから、なんとなく含み笑いをしながら、風が吹いてくる方向に一歩、踏み出した。
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