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これは、大学に入ったばかりの頃のことです。
話を始める前に、少しだけぼくの住んでいた環境について説明をさせてください。
ぼくの実家は周りに田んぼや畑しかない田舎で、自動車がないと生活していくのに不便な場所でした。大学へは自動車、電車、バスを乗り継いで片道二時間もかかるんです。
希望の大学に合格したぼくは、夢のキャンパスライフに思いを馳せていました。サークル活動、アルバイト、飲み会、旅行、あと、まあ、勉強はそれなりに、なんて。自分の時間を好きに使えて、苦手な科目はやらなくて良くて、とにかく自由。人生の夏休みとは、本当にうまい言い方ですよね。
そんなふうに楽しいことばかり考えていたので、二時間かけての通学なんてもちろんしたくなかったですし、一人暮らしを始めるいい機会だと思っていました。
でも、そううまくいかないのが人生。
親には一人暮らしを反対されたんです。理由は単純、お金がかかるからです。大学の近くにアパートを借りるよりも、二時間かけて――往復したら四時間ですよ?――通ったほうが安上がりだからって。
こんなに通学に時間がかかるのだから、当然親も一人暮らしを勧めるだろうと思っていたので心底がっかりしました。二時間もかかっていたらサークル活動もアルバイトも、友人と遊ぶ時間もたいして取れないじゃないですか。
ぼくはどうにか一人暮らしを認めてもらいたいと考えました。なんとか安アパートを探してやろうと決めたんです。
そうして見つけたのが青葉荘でした。アパートではなく下宿です。大学からそう遠くない場所で、ひと月あたりの契約料も実家から通うよりほんの少しだけ安かったんです。
金額に加え、食事は大家さんが用意してくれる――ろくに家事炊事もできない男の一人暮らしを考えたら、親は安心だったんでしょうね、すぐに了承を得ることができました。
トイレや風呂は誰かと共同になりますが、部屋は自分一人のものですし、つまりシェアハウスってことですからね、それもまたわくわくしたんです。いい出会いがあるかも、なんて。
ぼくはそういう、漫画にあるような大学生活や、知らない誰かとひとつ屋根の下で暮らす未知の経験に胸を躍らせながら新年度を迎えました。
あんなにおそろしい出来事が待っているなど、つゆ知らず。
ええ、ここからがぼくのおそろしい体験ですよ。
青葉荘の大家さんは年配の女性で、長年下宿業を営んでいるだけあって気さくな人でした。丸顔に満面の笑みをつくって「わからないことがあったらなんでも聞いてね」とぼくの住む部屋に案内してくれました。
部屋は一階、六畳の和室。入って正面には大きな窓があり、換気のために開けていたのか室内に入り込む風で薄いレースカーテンがふわふわと揺れていました。窓の手前にシングルベッドが鎮座して和室とのちぐはぐさが少しだけ気になりましたが、家具もほとんど揃っていたので贅沢は言えません。
ぼくが頭を下げると大家さんはにこにこと去っていきました。
手荷物を適当な場所に置いて伸びをしたあと、ぐるりと部屋を見回してみました。それから押入れを開けたりベッドに寝転がってみたり、新居の具合を確かめたんです。これからここに住むと思うと、不思議な高揚感がありました。初めての一人暮らしの実感が湧きつつあったのでしょうね。
ひとしきり室内を確認し、ベッドに腰かけたそのとき、少し強い風が吹きました。大きく広がったカーテンは否応なしに部屋の外を見せ、ぼくは、自分の熱がすっと冷めていくのを感じました。
なぜって、視界いっぱいに広がったのは墓地だったからです。あまり手入れがされていないのか草は伸び放題で、荒れている印象を受けました。
ああ、なるほど。
ここが安いのはそれなりの理由があったからなのだと理解しました。好き好んで墓地のすぐ近くに住む人はいないですよね。こう言ってはなんですけど、気味が悪いですもん。
でもぼくはそんなことで引き下がれません。だってここに住まなければ、実家から大学まで二時間もかけて通わなければいけないんです。
きっと青葉荘に住む人は、ぼくのように金銭的事情で背に腹は代えられない人たちだったんでしょう。そうじゃなきゃ、いくら大家さんの人柄が良いからと言ったって、墓地の隣の下宿を長く続けるのは難しかったと思います。
ぼくは一つ息を吐くと、開けられていた窓を閉めました。見なかったことにしよう、うん、窓とカーテンを閉めていれば外が見えることはない。墓地があることなど考えないようにしようと気持ちを切り替えて、荷解きを始めました。
その晩のことです。
引越しに疲れていたぼくは、いつもより早めに寝ることにしました。ベッドに横になり、まどろみ始めた頃。
なにやら物音が聞こえるのです。でも、発生源は外のようでした。部屋の中であれば気になるところですが、外なら風だとか動物だとか、さまざまな可能性がありますよね。だから、あまり気にせずにそのまま眠ってしまったんです。
でも、それから毎晩、ぼくが眠りにつこうとすると外からなにかが聞こえるのです。
ある日は砂を踏み歩くような、ある日はひそひそ声のような。
そのときぼくは、恐怖よりも苛立ちを覚えていました。だって睡眠の邪魔をされているんですよ。人の部屋の横でいい迷惑です。どうにかして静かな空間で眠りたいと考えたぼくは、引越して七日目の夜、ついに外で物音を立てる相手に働きかけることにしました。もちろん、穏便に。逆ギレなんてされたらこわいじゃないですか。
でも……でも、今になって思えば、おかしいですよね。窓もカーテンも閉めているのに、外で小さな声で喋っているのが聞こえるなんて。きっと苛々していて、冷静じゃなかったんですね。
ぼくはいつものようにベッドに横になりました。時間なんて何時だろうが構わないんです。夢の世界へ行こうという頃、必ず音や声が聞こえるのですから。
少し待って眠気が出てきたとき、なにかが聞こえてきました。カチャカチャと、物を触っているような音です。
ぼくは深呼吸をしたあと、思いきって声をかけました。
「あの」
音がぴたりとやみました。
「あの、そこに誰か、いるんですか?」
返事はありません。となると誰もいないのでしょうか。部屋は暗くしてありますし、カーテンも閉めているので窓の外は確認の仕様がありません。
「あの、怒っているわけではないんです。ただ、物音や声で眠れなくって……。あの、もしそこにいらっしゃるなら、一回だけノックをしていただけませんか?」
ぼくは人がいるかどうかもわからない場所へ向かって語りかけました。そして、少し待っていると――。
――コン。
一回ノック。やはり誰かがいたのです。
「いつもそこでなにかされているのはあなたですか? はいなら一回、いいえなら二回、ノックしていただけますか?」
――コン。
「声が聞こえるときがありますが、あなたのほかにもどなたかいらっしゃるんですか?」
――コン。
ぼくはこのあとの質問を、今でも後悔しています。
「そこには何人くらい、いらっしゃるんですか?」
ーーコン。
いち。
ーーコン。
に。
ーーコンコン。
さん、し。
ーーコン。
ご……。
ーーコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン
ノックする音は止まるどころか、勢いを増していきました。窓はガタガタと揺れ、いつガラスが割れてもおかしくないほどです。
ぼくはおそろしくなって、布団を頭まですっぽり被ってできるだけ音が聞こえないように耳を塞ぎました。
部屋を出たら良かったのにと思うかもしれませんが、そのときはこわくてそんなことできなかったんです。
そのうちに気絶したのか眠ってしまったのか、気づいたら朝になっていました。身体は重く、疲れきっていましたが、誰かの顔を見たくてキッチンへ向かったんです。
大家さんが用意してくれた朝食の香りや青葉荘に住むみんなの会話が聞こえて、少しほっとしたのを覚えています。
ぼくはみんながキッチンからいなくなり、大家さんと二人だけになるのを見計らっていました。なぜ人のいないタイミングにしたかというと、もしあんなこわい思いをしたのが自分だけだったら、ぼくがどこかおかしいのだと思われるかもしれないし、幽霊を信じている変な奴だと噂されるかもしれないと思ったからです。
「あの」と切り出すと、大家さんはいつもの笑顔でこちらに顔を向けました。
「この下宿の隣って、墓地なんですね」
ぼくがそれだけ言うと、大家さんはなにも聞いていないのに墓地のことを話してくれました。表情が少し強張っていて、その顔には諦めの色が見えました。いつか話題に出されるとわかっていたのでしょう。そしておそらく、ぼくのような人がこれまでにもいたのでしょう。
大家さんによると、あの墓地にはもともと戦没者の慰霊碑が建っていたそうです。でも、何年か前に撤去されてしまったと。管理できる人がいなくなって、慰霊碑や慰霊塔を撤去することは近年よくあることだそうです。お墓自体も戦没者のものばかりで古いので、遺族が高齢化しているからかあまり手入れがされていないと話してくれました。
そういえばぼくの祖母も、お墓が何ヶ所もあると手入れが大変だから一ヶ所に全部まとめたいと言っていましたね。
ぼくがお礼を述べると、大家さんは次の言葉を待っているようでした。なにを言われるか、もうわかっていたのでしょうね。最初に見せた諦めの顔は、この言葉を受け入れる覚悟をしていたからだったのでしょう。ええ、退去です。
下宿生活を始めてたったの一週間、お金がどうとか通学時間がどうとか、そんなことはどうでもよくなっていました。ただ恐怖から逃れたい一心で、目覚めたときには決めていたんです。
大家さんは二つ返事で申し出を受け入れてくれて、ぼくはその日のうちに荷物をまとめました。あまり長くその部屋にいたくなかったので、それはもうものすごい速さで。
ただ、最後に、窓を開けなければいけなかったんです。きたときと同じように、換気をしておいてほしいと言われまして。
ぼくは朝からできる限り窓には近寄りたくなくて、カーテンも閉めたままにしていたんです。
でも、しょうがないですよね。
これまで寝るとき以外におかしなことは起きなかった、だから大丈夫、そう自分に言い聞かせてカーテンを開け、さらにレースカーテンの隙間から鍵を外しました。
少しだけ窓を開けると、青葉荘にきた日と同じような強い風が入り込んだんです。
レースカーテンがぶわりと広がり、視界に映ったのは手入れのされていない墓地――ではなく、窓についた、夥しい数の手形でした。
終
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