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 いや、男にとってその言葉も決して正確ではなかった。男はここにとどまりたいという感情があるのと同時に、今すぐにでもこの部屋から出ていきたいという正反対の感情もあった。人がその部屋を引っ越すのには、その人なりの事情がある。  拝啓、愛するきみへーー  彼が引っ越しをする理由は、彼女の浮気だった。  彼が大切にしていた彼女である橘優姫(たちばなゆうひ)は大学の二回生で、ほとんどの時間を彼と一緒にこの部屋ですごしていた。茶色いソファに腰かけて一緒に彼女の大好きな映画を観たり、冷蔵庫のありもので簡単な料理を作って食べたりした。彼はそんな彼女を心の底から愛していた。  そんな優姫の生活に異変が見られたのは、今から約二週間ほどまえのことである。  急に彼女の機嫌がよくなり、とつぜんオシャレをするようになった。普段はサボっているムダ毛の処理をしたり、新しい下着をネット通販で購入したりしていた。  明らかなサインであったにもかかわらず、彼はそんな彼女の行動を「自分のために努力している」のだと思いたかった。どこか違和感に気づきながらも、それでも彼女を信じたかった。  その信頼が崩れたのは四日まえだ。  優姫が、よりにもよってこの部屋に男を連れこんだのだ。おそらく同じ大学の先輩かなにかだろう。自分よりはずいぶんと年したに見えた。そして優姫と若い男は、さもとうぜんのように二人でベッドのなかで愛を語りあった。  まさか、見られていないとでも思ったのだろうか。男はあきれたが、それも無理ない。彼女は彼がセキュリティのために設置したカメラの存在を知らないのだ。そのおかげで、監視カメラは彼女の乱れた姿をばっちりと録画していた。喘ぐ声も、絶頂時のだらしないまのぬけた顔も、すべて高解像度で記録されている。  それを見たとき、男は吐き気を覚えると同時に興奮した。おかしな性癖に目覚めそうになる自分を理性でなだめる。だが、その理性が彼の別の感情を揺さぶった。  許せない。殺してやる。  そう思った。その場でキッチンに行き包丁で刺してやろうとも思った。見知らぬ男も愛する彼女も滅多刺しにしてやろう。自分を傷つけた人間を彼は許せなかった。  しかし、男はその激情を抑えた。もともとが臆病な性格なのだ。部屋で声すら出せないほどに周囲を気にする気弱な性格の男が、いっときの感情にまかせて、そんなことをできるはずがない。  だめだ。それは、いけないことだ。  泣きながらそう何度も自分の心に言い聞かせて、彼は吐き気とともにあふれ出す怒りの感情を胸の底に飲みこんだ。
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