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「近藤さんか」  小さくつぶやく。  したの名前はなんていうのだろう? あの子はいったい何歳だろう? フリーターなのかな? 大学生なのかな?  考えることは無数にあった。知りたいことも無数にある。男は浮気をした彼女を忘れるために、苗字だけしか知らないスーパーの店員を想い続けた。 もともと惚れやすい性格の彼にとって、そのことが功を奏した。彼のなかから優姫の存在が消え、その空いた隙間に新しい近藤という名の女性がぴたりと収まったのだ。それだけで、彼は一年間すごしたお気に入りのこの部屋を出ていく決心がついた。 「よし」  ひさしぶりに腹の底から声を出す。絞り出した勇気は、喉にかかってしまった。  まだスーパーの店員には自分の名前だって打ち明けていない。だけど、新しい一歩を踏み出すために、ほんの少し勇気を出してみようと思った。  今はそれだけが彼の希望だ。  先ほどよりも強く明るい日の光が部屋に差しこむ。男は目をつぶる。外の音に耳をすます。活気のあるロードノイズが彼の耳に届いた。  さあ、今日はこの家を出て行く日だ。 「うおおおおおおお!」  男は大声で叫んだ。だんだんだんと地団駄を踏み床を鳴らす。今までずっと我慢していた声と同時に自分を鼓舞する音を出す。もうこの部屋とはおさらばなのだ。今夜からは、こことは違う別の部屋での生活が始まる。だからもう、この部屋の近隣住民の迷惑なんて考える必要なんて、どこにもない。彼の心は五月の空のように晴れ晴れとしていた。
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