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 五月。希望にあふれる新生活からわずかに外れたこの時期に、男は引っ越す。すでに決意は固まっていた。  男は部屋の中央に立っていた。色気もなにもない灰色の無地のカーテンの隙間から、十二時に向かって高度をあげる太陽の光が一年間暮らした部屋のなかに差しこんだ。  これは未来への希望の光になるのだろうか。あるいは、悲しい思い出をなぐさめてくれるだけの気休めの温もりなのか。三十歳をいくつかすぎた自分には明るい新生活などはたしてあるのだろうか。  思い起こせば、ここには多くの思い出があった。住んでいたのは、たった一年だったけど、男はほとんど引きこもって暮らしていたので、体感的にはもっと長い。 「ここにきて、まだ一年しかたっていないんだな」  寂しそうに、独りごつ。  最初はこの部屋での暮らしにまったく慣れなかった。人づきあいが苦手な彼にとっては、近隣住民との接触など極力避けたいと思っていた。トラブルになるのが怖くて、夜どころか昼間ですらろくに声も出せなかった。  フローリングを歩く足音にさえ気をつかった。トイレだって極力音を立てずにしていたし、夜中に水を流すことも怖くてできなかった。  それは、ここを引っ越す今になっても変わらない。彼は近隣住民の顔をしっかりと覚えているが、おそらくその逆はないだろう。  家から出ない、声も出さない生活をしていたのだから、近隣住民が彼のことを知らないのもとうぜんと言えばとうぜんだ。それくらいに現代の集合住宅における人間関係は希薄だった。 「まあ、だからこそ、ぼくみたいな人間でも暮らせたわけだけど」  男は自重気味に笑う。  そんな彼の疲れた顔をワンルーム十畳の狭い部屋には不釣りあいな六十インチの大型テレビが、ブラックアウトした画面で静かに見つめていた。 「そういえば……」  毎晩動画を見るのも音楽を聴くのも、いつもイヤホンをつけていたな。絶対に外に音が漏れないようにビクビクしながら。時間はあっても、それを処理する方法は、彼にとっては困難の連続だった。男は自分の臆病さにいつもあきれていた。  そんな過去も、今ではいい思い出だ。
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