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アナザー・ワールド
ジアゼパム錠を三粒飲んだ後、蒸すように暑い部屋の中で何をするでもなくただ呆けていると、またいつもの宇宙人の声が山中の耳元へ届いた。
(ぽぽぴぴぴ:メッセージを受信した)
嗚呼、早速リンコさんからメッセージが来たぞ。
どれどれとスマホに手を伸ばす。だが充電ケーブルのせいでスマホを近くに手繰り寄せることができない。ケーブルを抜こうとするが、どういうわけか今日はケーブルが抜けにくい。何とかして千切るように無理矢理抜き、自由になったスマホを顔認証でアンロックしようとするが、認証が上手くいかない。代わりにパスコードの入力が求められる。
パスコードは何だっけ? 36951……最後の一桁が思い出せない。
(ぽぽぴぴぴ:メッセージを受信した)
わかったわかった。今確認するからな。
顔認証ができない。パスコードは確か、369、この後が思い出せない。
どうしてしまったんだ? 薬を三錠飲んだせいでこうなったのか? 宇宙人は幸福な世界に行けるって言っていたのに、リンコさんからのメッセージを開けないなんて言語道断だぞ。パスコードは、36……
そうか、空腹がいけないんだな。昨日の昼から何も喰ってないからコンビニに何か買いに行こう。腹を満たせば六桁のパスコードくらい思い出せるさ。
そう思い顔を洗い、歯を磨き、少しいい服に着替えていると再び宇宙人の声が聞こえてきた。
(ッザーーッザーーッ!:お前は無能で役立たずの屑だ!)
嗚呼、思い出してしまった。俺はリンコさんに傘を届けることが出来なかった役立たずの屑だ。宇宙人の言う事はいつだって正しいよ。
第二赤塚荘の二階に住む山中は、玄関から出るといつものように階段を降りようとするが、足腰に力が入らない。肝心なところで足が前へ出ずよろめいて転げ落ちた。その地響きのような轟音に大家の婆さんが慌てて一階の部屋から飛び出てきた。
「これは大変だ。山中さん大丈夫かい。怪我はしてないかい」
「うるせえ、触るんじゃ・・・ねぇ」
途中で言葉が途切れてしまった。普段こんな事は起こらないのに。
「ちゃんとお薬は飲んでるのかい?」
「嗚呼、のん・・・れ」
やはり言葉が途切れてしまう。言いたい事が言えない。そもそも何故外に出てきたのかも思い出せない。
「呂律が回らないようだね。立ち上がれるかい、山中さん」
大家の婆さんが手を引っ張ってくれる。だけど婆さんの助けなんて借りたくない。見た所どこも怪我はしていないから、立てれば問題ない筈だ。だが立てない。仕方がないからここに寝転がることにした。
(ぽぽぴぴぴ:メッセージを受信した)
そうだスマホだ。リンコさんからのメッセージを確認しなければ。幸いスマホは壊れてない。顔認証はできるかな、いやまだ出来ない。パスコードは……
「こりゃあダメそうだな。山中さん、今から救急車を呼んでやるからね」
この糞婆アは何を言ってるんだ。俺は何も問題ないじゃないか。リンコさんからのメッセージが読みたいだけなんだ。それさえ読めれば俺は元気で幸せになれるんだ。よしてくれよ救急車だなんて。
しかしこの階段下に寝転がるのは案外気持ちが良いもんだ。階段に頭を置いて両眼を閉じてみよう。嗚呼、階段の冷たさが伝わって頭と首筋がひんやりする。暫くこのままでいようか。
大家の婆さんが電話で何かを話しているな。俺の事だろうか。まあいいや。結局のところあの人は悪い人じゃないんだ。たまには婆さんの言うことを聞いてやってもいいぞ。
『そうです、第二赤塚荘の前です。四十代の男性が階段から落ちて倒れてまして。
意識があるかって、そうですねぇ、朦朧としているようです。
さっきから電源の入っていない電話をしきりに触っているんです。ええ、そうなんです。暫く前から電気を止められている方でして。
身寄りですか? 単身者で私のアパートに住んでる方です。近所付き合いもあまりない方で。
ええ、私が大家です。
家賃? 二ヶ月ほど滞ってますね。でもね、可哀想な人だからいいんです。大家の私が何も言わなければ丸く収まりますからね。
え、女性関係? それはまったくないでしょうね』
「リン、リンコさん・・・が」
『ああ、ちょっとお待ちください。本人が何か話してます』
「リンコさ・・・ん、俺の、隣の・・・」山中はかろうじて右手を上げて二階を指差す。
「あんたの隣? 何を言っているんだい。あそこはずっと空き部屋でしょうが」
その言葉を聞いた瞬間、山中はカッと両眼を開いて驚いた後、意識を手放し夢の世界へ入っていった。宇宙人の声も、人間の声も届かない最高に心地よい夢幻郷。付き纏うような幻聴も幻覚も無縁のアナザー・ワールドへ。
『何でもありませんでした。ええ、今すぐ救急車をお願いします』
完
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